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ただ、私は、当時は言葉にしようもないことだけを理解した。

今言語化をたすなら、そんな小難こむずかしい理論なんて後付あとづけでしかなくて、おにいちゃんは何度もそのだまし通してここまで来たという事だけだった。


「……難しかったね」


私の顔を見て、おにいちゃんは苦笑した。

やり過ぎたかなという気持ちと、どこか物悲ものがなしさの入り混じった苦笑だった。

私は、まだまだ書き取りの終わらない漢字練習帳にした。


「みぃちゃん」


たしなめるようなおにいちゃんの声がした。

ぐり、と漢字練習帳に顔をこすりつけるように横を向いて、そのまま私はおにいちゃんを見上げた。


「おにいちゃん」

「何?」


胸の中に出てきたそれを、言語化するのは当時の私にはなかなかに難しかったけれど、おにいちゃんはおだやかに私の言葉を黙って待っていた。


「……おにいちゃんはさ、ずっとずっと、そうやってきたの?」

「……そうだね、今まで沢山たくさんの嘘をついてきたよ」


おにいちゃんの答えは私のいたつもりの「そうやって」と、少しズレていた。


「違うよ。そうやって、その嘘がバレないようにずっとしてきたんでしょ?」

「……そうだね。そうなるね」


私の言葉に、一瞬だけ目を見開いて、おにいちゃんは何かに耐えるような声でそう言った。

嘘をつくのは悪いこと。

嘘も方便という言葉はあれど、一般的な教育上はそう言われることが多い。

でも、私はおにいちゃんを責める気はなかった。

責める気にはなれなかったのだ。


「……ずっとバレないように嘘つくのって、大変じゃない?」


だから、私がそう言うとおにいちゃんは驚いたようにぱちくりとまばたいて、何か言おうと口を開きかけて、そしてまた閉じた。

それから、少し困ったように目を彷徨さまよわせて、ようやく口を開いた。


「……そうだね。うん、確かに、そうだ」


うん、とおにいちゃんは何度も何度も、うなずいていた。

それを見て私は顔を上げた。


「嘘つきは記憶力が良くなければならないと言われるほどだ……うん、みぃちゃんは、本当に賢いね」


どこかまぶしそうに目を細めて、おにいちゃんはそう言った。

おにいちゃんの目的も知らずに、ただおにいちゃんの共犯者でいる事に満足していた当時の私は、その表情の意味はわからなかったけど、なんとなく手に残っていた冷たさが温もりに変わった気がしていた。


「さて……そしたら」


仕切り直すようにそう言ったおにいちゃんは、いつものようににっこりと笑って言った。


「僕がこれ以上嘘をつく必要がないよう、書き取りちゃっちゃと終わらせてもらおうかな」

「……がんばる」


Mendacem memorem嘘つきは記憶力が良 esse oportet.くなければならない。


――であれば、大嘘つきのおにいちゃんが漢字の書き取りのことを忘れるはずもなかったのである。


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