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午前九時から始まった合奏ではいつものように青葉先輩が悪口雑言の限りを尽くし、ブタの鳴き声みたいな音だの幼稚園児のお遊戯会よりひどい演奏だのと言われながら、課題曲の練習を行った。
午前中の合奏が終わった昼休みに、僕と小清水は美術部の部室へと向かっていた。音楽室で見つけた練り消しが美術部のものかもしれないと分かったので、心当たりがないか聞いてみることにしたのだ。
「先輩、美術部に知り合いとかいます?」
「いや、いないね。小清水は?」
「私もいません。なんだか緊張しますねえ。」
そんなことを言いながら歩いていると、美術部の部室にたどり着いた。油絵の具の独特の臭いがほのかに漂っている。
ドアをノックすると、はーい、と声がして、長い髪を三つ編みにした女子生徒が出てきた。
「何か用ですか?」
絵の具で汚れたエプロンをかけたままの女子生徒が、見慣れない僕たちの登場に困惑の表情を浮かべた。
「あの、突然すみません。吹奏楽部の大橋と言います。」
「同じく吹奏楽部の小清水です。」
僕と小清水はぺこりと挨拶をして、小清水は手に握っていた練り消しの塊を差し出した。
「実は、これが音楽室に落ちていて。もしかして美術部の人のものかなあ、と。」
「はあ。わざわざありがとうございます。」
三つ編みの美術部員は練り消しを受け取ると、くるりと後ろを向いた。
「誰か、音楽室に練り消し落とした人いない?」
女子生徒は部室の中にいる部員たちに向かって声をかけたが、部員たちはみな首を横に振った。
「いま部室にいる人には心当たりがないみたいだけど、練り消しなんて使うのうちの部員だけでしょうから、預かっておきますね。ありがとう。」
女子生徒がそう言って扉を閉めようとした。
ふと、僕は女子生徒の後ろの方に立ててあるキャンバスに目を留めた。まだ描いている途中と思われるその絵には、いくつもの奇妙な形をした黒や茶色のケースのようなものが棚に並んでいる様子が描かれていた。
「あれ、これ、僕たちの楽器庫だ。」
毎日その場所に通っている僕と小清水には、その絵に描かれている場所がどこなのかすぐに分かった。
「ああ、それ、一年生の小野田さんが描いているものなの。」
扉を閉めかけた手を止めて、三つ編みの生徒が教えてくれた。
「もしかして、練り消しはその人のものかもしれませんね。それにしても、どうしてこんな場所の絵を?」
「さあ。ちょうど帰ってきたところみたいだから、本人に聞いてみたら?」
その言葉に振り向くと、美術室の入り口を塞いでいる僕と小清水に気兼ねしたのか、一年生であることを示す赤い上靴を履いた女子生徒が少し離れたところから様子を伺っていた。
「あなたが小野田さん?」
小清水が尋ねると、女子生徒は、はい、と小さく返事をした。
「突然ごめんなさい。吹奏楽部の小清水です。あの、音楽室でこれを見つけたんだけど、ひょっとしてあなたのものではありませんか?」
小清水は三つ編みの女子生徒が持っている練り消しを指さして言った。
「あ、それ、たぶんあたしのです。ありがとうございます。」
小野田さんはそう言って練り消しを受け取りながら、何かを迷うような表情を浮かべた。
「あ、あの、ごめんなさい。勝手に音楽室に入ったりして・・・。」
「えっ?」
小野田さんが突然謝罪の言葉を口にしたので、僕はきょとんとした。
「あたし、あの絵を描くために毎朝、音楽室に入っていたんです。吹奏楽部の皆さんがいらっしゃるよりも早く学校に来て。できるだけ気づかれないようにしてたんですけど、こんな落とし物をするなんて馬鹿ですね。」
小野田さんは肩をすくめて申し訳なさそうに言った。
僕と小清水は顔を見合わせて、今朝の出来事を思い出した。
「それじゃあ、ここ最近、音楽室の鍵を開けていたのは小野田さんだったのか。」
「謎がとけましたね、先輩。」
小清水が嬉しそうに声を上げると、小野田さんが小声でまた「すみません。」と言った。
「ああ、誰が鍵を開けてるのか少し気になっていただけだから、そんなに謝らないで。別に怒ってもいないし。ところで、小野田さんはどうして楽器庫の絵を描いているの?」
僕が尋ねると、小野田さんはなぜか悲しそうな表情をした。
「姉の、メッセージなんです。」
小野田さんはうつむいたままポツリと言った。
「お姉さん?」
「はい。光海高校を受験することが決まった時に、姉があたしに言ったんです。『光海に入ったら、楽器庫のしろくまを探してごらん』って。」
「楽器庫のしろくま。」
よくわからないメッセージに、僕と小清水はふたたび顔を見合わせた。
「どういう意味なんだろう?お姉さんに尋ねてみたの?」
僕の言った何気ない一言に、小野田さんの顔は一層曇った。
「もう、聞けないんです。姉は、・・・少し前に交通事故で亡くなりました。」
僕と小清水と小野田さんの間に、気まずい沈黙が流れる。
「そっか。聞いちゃいけないことだったね。」
「いえ、いいんです。姉が亡くなったあとで、楽器庫のしろくまの言葉を思い出して、それで、楽器庫の絵を描いてみたらなにか分かるかもしれないと思って、その絵を描いていたんです。絵を描いているといろんなことに気づけるから。」
小野田さんは少し震えるような声で話してくれた。
「それで、なにか見つかったの?」
小清水が尋ねたが、小野田さんは首を横に振った。
「お姉さんは、ひょっとして、うちの吹奏楽部にいたのかな?」
去年卒業した先輩たちを除けば、僕の知っている吹奏楽部のOGは青葉先輩くらいのもので、小野田という名前には心当たりがなかった。
「はい。トロンボーンをやっていました。だから、楽器庫のトロンボーンが置いてあるところの絵を描こうと思って。」
そう言って小野田さんは、部室の奥から自分の絵を持ってきた。たしかに、小野田さんの絵の中心はトロンボーンが置いてある棚だった。
僕は改めて小野田さんの絵を眺めた。何本ものトロンボーンケースが並んでいる棚と、その下にはユーフォニアムのケースが置かれている楽器庫の絵。なんの変哲もない絵だけれど、僕はどこかに違和感を感じた。
「あれ?」
僕と同じく絵を眺めていた小清水が声を上げた。
「先輩、うちの学校の楽器って、基本的に同じ種類の楽器は同じ型番じゃありませんでしたっけ?」
「ん?たしかそうだけど。」
「この絵、おかしくないですか?同じ型番の楽器が並んでいるはずなのに、このトロンボーンだけケースが色も形も全然違いますよ。」
小清水が指さしたのは、絵の中で左から二本目に並んでいるトロンボーンのケースだった。濃いグレーのハードケースが並ぶ中で、たしかにその一本だけは、こげ茶色の革でできた、少し細身のケースだった。
さっき僕が感じた違和感の正体はおそらくこの一本だけ違うケースだ。
「バストロンボーンのケースっていうわけでもなさそうだし。誰かの私物なのかな。」
そう言った瞬間、僕はもしや、と思い当たることがあった。
「小野田さん、ちょっと音楽室まで来てくれないかな。」
僕の突然の申し出に、小野田さんは首を傾げた。
「お姉さんのメッセージの謎が解けるかもしれない。」
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