しろくまの居場所

のぶ

1

 朝の空気が好きだ。隣に住む早起きのおじいさんに挨拶をして、僕はアルトサックスをかついで学校へ向かう。夏とはいえ日の出直後でまだ少し涼しく感じる空気のすがすがしさが好きで、僕は毎朝六時半には家を出る。


 夏休みだというのに。


 二十分ほど歩くと、学校の正門が見えてくる。少し朝もやのかかった正門はどこか青みを帯びた表情で僕を迎える。僕よりも早く登校する運動部の部員たちがウォームアップをしている声が遠くのグラウンドから聞こえてくる。

「大橋先輩、おはようございます!」

 うしろから甲高い声がして振り向くと、セーラー服の小柄な女子がツインテールを揺らしながら駆けてくる。一つ下の学年でパーカッションパートの小清水だった。

「お、小清水。おはよう。」

「先輩、今朝も早いですねー。」

 とにかく声が大きくて明るいことで有名な小清水は、今日もうっとうしいくらいにまぶしい笑顔を向けてきた。

「なんか、お前見てると気温が上がる気がするんだよな。」

「なんですか、それ。」

 馬鹿なことを言いながら、二人並んで昇降口に向かう。

 夏休みに入ってから、僕の所属する光海高校吹奏楽部では吹奏楽コンクールに向けた練習が苛烈さを増していた。演奏の指導は部のOGであり外部講師である青葉先輩が行っているのだが、この先輩、指導レベルは高いもののとにかく口が悪い。合奏中に耐えられず涙を流した一年生が何人いたことか。

 コンクール直前のいま、青葉先輩はますます合奏中の口の悪さに磨きがかかり、コンクールメンバーに対する要求が日に日に高度なものとなっていく。僕たちにできることはとにかく練習しかないので、僕や小清水のように早朝から個人練習に取り組む部員が増えてきた。

「大橋先輩、私、音楽室の鍵を借りてきますね。さすがにこの時間だと私たちが一番乗りだと思うんで。」

 小清水が下駄箱で上靴に履き替えながら言った。

「ああ、僕もいっしょに行くよ。」

 僕はそう返事をして、小清水とともに職員室へ向かった。

 午前七時少し前の職員室は半分しか明かりがついておらず、部屋の半分は暗いままだ。

「失礼しまーす。」

 僕と小清水は挨拶をして特別教室の鍵がかけてあるキーボックスに近寄る。

「なんだ。大橋と小清水か。早いな。」

 少し低めの女性の声がしたので目を挙げると、コーヒーカップを手にした青葉先輩が立っていた。真っ白なシャツが涼しげで、まだ眠そうにまぶたがとろんとしている。

「あ、青葉先輩、おはようございます。」

「君はほんとに朝から元気だな。うるさいよ、まったく。」

 小清水の挨拶に、青葉先輩は呆れたように言った。

「あれ、青葉先輩、もしかして私たちよりも先に誰か鍵を取りに来ましたか?」

 青葉先輩の言葉はまったく気にもせず、小清水が言った。

「知らない。そこに鍵がないなら誰か先に来ているんだろう。」

 見ると、キーボックスの中段にかけられているはずの音楽室の鍵はすでに無かった。小清水が僕と同じ時間に登校していたことだけでも驚いたのに、もっと早く来ている部員がいるとは思わなかった。

「まあ、いいや。青葉先輩、今日も合奏宜しくお願いします!!」

 小清水の大声に、青葉先輩はさっさと行け、というように手を振った。


 職員室を出て、階段を四階まで上がると、ようやく音楽室にたどりつく。楽器をかついでいる僕は音楽室まで歩くだけで夏服の背中を汗が伝うのを感じた。

 やはり、音楽室の鍵はすでに開いていた。

「おはようございまーす。」

 小清水が挨拶をしながら音楽室の扉を開ける。だが、誰も返事をする人はいなかった。昨日の合奏を終えたときのまま、指揮台を中心として譜面台と椅子が四重の弧を描くように並べられている。奥の窓から朝日が射し込み、空中に舞うこまかな埃をきらめかせている。

 たしかに音楽室の鍵を借りて、扉を開けた人物がいるはずなのだが、どう見ても音楽室の中は僕と小清水しかいない。ふと見ると、音楽室の鍵は不用心にも前方のグランドピアノの上に無造作に置かれている。だが、その鍵を開けた人物はどこにも見当たらなかった。

「誰もいない。・・・変ですね。トイレにでも行ったんでしょうか。」

「いや、それにしても荷物くらい置いていくんじゃないか。」

 わざわざ重い譜面が入ったカバンを持ってお手洗いに行く部員がいるとは思えない。

「おはよー。早いねー。」

 扉の方から声がしたので振り向くと、僕と同学年でトロンボーンパートの沢城が音楽室に入ってくるところだった。

「どうしたの?二人で突っ立って電気もつけないで。」

 僕たちよりも先に音楽室の鍵を開けた何者かの正体が気になって、僕も小清水も部屋の電気さえつけずにぼーっと突っ立っていた。沢城にはそれが異様に見えたらしい。

「いや、沢城、いつもこの時間に来てるよな?」

「え?うん。だいたいね。うち、両親ふたりとも家出るの早いからいつもいっしょに出てんの。」

「そうか。ほかにこの時間に来る部員って誰がいるかわかる?」

「いや、大橋君もいつもあまり変わらないでしょ。私と、大橋君と、ときどき小清水さんとかバリサクの品川さん。あとはだいたい、もう二十分くらいは誰も来ないかな。青葉先輩はいつも私より早くから職員室にいるけど。」

「そうだよな。」

 僕は腕組みをして考える。僕も、先に来ているとしたら沢城だろうと思っていた。

「どうかしたの?」

 沢城がカバンから譜面を入れたクリアファイルを取り出しながら聞いた。

「いや、今朝、一番乗りだろうと思って職員室に音楽室の鍵を取りに行ったら、先に誰かが借りてたんだよ。で、ここに来てみたらちゃんと鍵は開いてて、でも部屋には誰もいなくって。」

「えっ、また?」

 沢城は怪訝そうな顔で言った。

「昨日と、おとといもそうだったんだよね。私もてっきり大橋君が先に鍵を借りたんだと思ってたんだけど。」

「じゃあ、これで三日目ってことか。」

 なにかを盗まれているというわけでもないのだが、気味の悪い話だ。

 特別教室の鍵は、別に担当の教員に頼まなくても、近くにいる教員に一声かけてキーボックスから取り出せばだれでも借りられる。だが、だからといって夏休みのこんな朝早くから、吹奏楽部員以外の人間が音楽室の鍵を開ける理由も見当たらない。

「一応、青葉先輩にも報告しておくか。」

 僕は職員室へ向かった。


「というわけで青葉先輩、誰だか分かりませんが、吹奏楽部の部員以外の人が音楽室に出入りしているかもしれません。」

 青葉先輩は職員室の自席でコンビニのサンドウィッチをかじりながら、椅子に座ったままで僕の話を聞いていた。青葉先輩の机のうえでは、すでに食べ終えたサンドウィッチの袋が二つ転がり、紙カップに入ったコーヒーが湯気を立てていた。

「んー。結論から言うと、興味ない。どうでもいい。」

 青葉先輩は口の端についたマヨネーズをぺろりと舐めて言い放った。

「どうでもいいって・・・。」

「備品は盗まれていないし、なにも被害は出ていないのだろう?だったらどうでもいい。コンクール前のこのくそ忙しい時期に時間を割くようなことじゃないだろう。」

 先輩はコーヒーを一口すすり、僕を睨むような上目遣いで見る。

「それとも、君はそんなことに心を砕いていられるほど完成度の高い演奏がすでにできているとでも?時間に余裕があると思っているのか?」

「いえ、そういうわけでは。ただ、一応報告しておこうと思っただけです。」

 意地悪そうに口をゆがめて言う先輩には、なにも反論できなかった。

「よろしい。では、さっさと練習に戻りたまえ。私もすぐに行く。」


 音楽室に戻ると、小清水と沢城が机の前に腰かけて談笑していた。よく見ると、彼女たちは手元でなにやら楽しそうに小さな物体をこねくりまわして遊んでいた。

「あ、先輩、おかえりなさい。」

「青葉先輩はなんだって?」

 僕が入ってきたことに気づくと、二人が顔を上げた。

「どうでもいい、ほっとけってさ。」

 僕はため息交じりに答える。

「ところで、なにやってんの、二人とも。」

 僕は小清水が手元で一生懸命にこねている粘土のような灰色の物体を指さした。

「先輩、これ、楽器庫の入り口で見つけたんですけど。練り消しですよ、練り消し。懐かしくないですか?」

「小学生の時に流行ったよね、粘土みたいにして遊ぶの。」

 小清水が小学生みたいなのはいつものことだが、普段は落ち着いている沢城までも、手元の塊で小さなうさぎを夢中になって作っている。

 二人の手元にある物体はたしかに練り消しゴムだが、小学生のころにクラスで流行ったような子ども向けの色や香りがついたような文房具ではなく、見た目はまさに粘土のような地味なものだった。

「なんでそんなものが楽器庫に落ちてるんだ?」

 僕も問いかけながら、小清水から少し練り消しを分けてもらって、手でこねる。たしかになんだか懐かしい感触で楽しくなってきた。

「さあ。いまどき、練り消しで遊びましょう、なんてことを考える高校生がいるとは思えないし、それにこれ、ちょっと高そうよね。」

 沢城は答えながら、今度はうさぎの隣に亀をこしらえた。けっこう手先が器用なんだな、と僕は初めて思った。

 ガラッ、

 と音がして、音楽室の扉が開く。

 見ると、コンクール用のスコアと指揮棒とアルトサックスを持った青葉先輩が立っていた。

「君たち、なにを遊んでいるんだ?」

 青葉先輩は夢中になって練り消しで遊ぶ僕たちを睨みつけた。

「あ、いや、その、ちょっとこれを音楽室で拾ったので・・・。」

 沢城が練り消しの塊を青葉先輩に見せる。

「練り消し?ふむ。美術部員でも来てたのか?」

「美術部員?」

 青葉先輩の言葉に僕たちは首をかしげる。

「これはデッサンで使う、専用の練り消しだ。君たちには粘土遊びの道具にしか見えなかったようだが。」

「へえ。練り消しって、ちゃんとした用途があるんですね。」

 小清水が感心したような間抜けな声を上げる。

「君たち、わざわざ朝早くから来て粘土遊びに興じるとは、今日の合奏はさぞかし素晴らしい演奏を聴かせてくれるんだろうな。」

「すみません。すぐ練習を始めます!」

 手に持った練り消しの塊をぐしゃりと握りつぶしてニヤリと冷たく笑う青葉先輩の目線に、僕たちは慌てて楽器の準備に取り掛かった。

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