屋上に住まう幽霊は
最城藤真
そらを求めて
某所に位置するとある高校は、近年の学校の中では珍しく、屋上を常時開放している。東西二つある校舎の、東棟の屋上だけが開放してあるのだが、その扉の向こうには誰も立ち入らない。それどころか、屋上へと続く階段を登る者すら居やしない。
屋上に足を踏み入れようとした者は皆須らく、何らかの要因によって怪我をした。階段から足を滑らせて転落、踊り場の掃除ロッカーから出てきたモップによって打撲、エトセトラ。噂がうわさを呼び、誠密やかに囁かれている、オハナシ。
『屋上には、幽霊が住んでいる』
あと、すこし。このとってを、まわせば……そして、視界暗転。
四月。うららかな春の日差しがぬくぬくと降り注ぎ、眠気を誘う昼休み。がやがやしい校舎を抜け出して。桜散るも、新たな出会いが起こるこの時期に、彼と彼女はその運命を交差させた。
「ちょっと待って。ねぇ君、今日は強風だから屋上は立ち入り禁止だよ、知らなかった?」
急に後ろから掛けられた可愛らしい声に驚き、何もそこまで、という程に跳ね上がる肩。屋上の扉前の踊り場。こんな辺鄙な場所まで来てわざわざ声を掛けてくるような人など居ない、と心のどこかで思っていたからだろうか。伸ばしていた右腕で咄嗟に心臓を抑えつつ振り返りながら、僅かに、半歩ほど身を引いた。そうして目に飛び込んできたのが、彼女。
「あ、一年生のバッヂ。お揃いだね!」
まるでその身に太陽を背負い込み、真夏に咲く大きな一輪の花のように、キラキラと光る金色の長い髪。
「私の名前はさつき、旧暦の五月の皐月だよ。さつきでもさっちゃんでも、好きに呼んでね」
突き抜けた空のように澄んだ碧の瞳は、見るもの全てが美しく見えているんじゃないかと思う程に輝いている。
「君、名前は?」
いっそ清々しいほどに晴れやかな笑顔を浮かべる彼女は、僕の顔を覗き込むようにこちらを窺っていて。コテリ、と首を傾げた拍子に肩から滑り落ちた金糸が柔らかそうだった。
「あきと、です。空に南斗六星の斗で、空斗……」
「空斗、空斗……うーん、呼びづらいから、ソラって呼ぶね!」
朗らかに、爽やかに。輝かしいまでの笑顔でそう言われてしまったら、否定なんて出来る筈も無く。気づいた時には気圧されるように頷いてしまっていた。
それに、その名で呼ばれるのは嫌いでは無かったから。
「ねぇソラ、アナタはどうして屋上に?」
「幽霊が出ると噂されているから、ですかね……?」
扉前にある、二段だけの小さな階段。そこの一段目に腰かけた彼女は、ペシペシと隣を叩く。隣に座れと主張しているらしい。距離を少し開けて、二段目に腰かけてみた。
「ゆーれい!」
さも驚きました、といった具合で目を瞬かせる彼女。急激に声を掛けられた衝撃で忘れていたが、改めて膝を抱える様に座り、こちらを覗き込むように伺い見る彼女の制服を見て。気付いた。自分の知っている女子の制服と、ほんの少し違っている。ブレザー型の可愛らしい制服のその胸元は、学年によって色の違うネクタイだというのに、彼女の胸元を可愛らしく飾るのは緑色のチェックのリボンで。
「うんうん、そっか、ゆーれいか」
自らの目を覆い隠す長い前髪のせいで視界がバグったか、彼女が入学早々に校則違反を犯しているのか、……はたまた。こくりと小さく頷く彼女の煌びやかな髪が、ゆぅらりと波打った。
「いいね、学校の怪談ってやつだ!」
「さつき、さん……は、どうして屋上に?」
「敬語とか堅苦しいのなんて無し無し、同い年でしょ」
カラカラと笑う。顔に、雰囲気に。感情が如実に表れる彼女は嘘がつけなさそうだ。まっすぐで、きらきらで、かわいい。
「私はねー、うーん……」
ぐぅっと大きく上に伸びをして、二段目に後ろ手を着きながらも視線は宙を彷徨う。
「秘密!」
目を細め破顔する彼女は、今にでも鼻歌でも歌いだしそうで、見ているこちらまで肩の力が抜ける。先程まで脳内を占めていた思考を、丸めてポイっと放り投げた。彼女ほど澄み渡った青空と太陽の似合う女の子は居ないだろうに。
「なんだ、それ」
思わず漏れ出た空気が音を成す。
「あっ笑った!」
珍しいものを見たと言わんばかりに、きらきらしい瞳で彼女が顔を覗き込んでくる。
「あっははははははは、なにそ、どわぁ!」
大笑いして背を仰け反らせたら、たった二段の高さの階段から落ちた件について。
思わず、彼女と顔を見合わせて二度三度と瞬きを繰り返した。ポカンとした表情が崩れたのはどちらが先だったか。二人分の笑い声が踊り場に反響する。
「意味わっかんない、ソラ、笑いのツボ浅いね!」
「さつきさんだって笑ってるじゃん」
笑みに引きつる頬を抑えながら、あー笑った、と涙を拭う。そうして彼女は勢いよく立ち上がり、校則通りひざ下丈のスカートをふわりと翻して、こちらに向き直った。
もう、昼休みも終わる頃だ。
「……じゃあ、またね」
なんて言おうか、言葉を探してぐるぐると脳みそがまわる、そんな時に差し出された台詞。簡潔で、分かりやすく、優しい音。
「うん。またね、さつきさん」
そうして、彼と彼女の初めての逢瀬は終わる。
「幽霊って笑えるんだ」
小さく呟いた言葉は、気だるい五限目を目前にして騒々しい廊下に吸い込まれるようにして消えた。
五月。緑が芽吹き、草のにおいで肺が満たされる美しい五月晴れの昼休み。早弁して空っぽになった弁当箱が巾着に入れられてサブバッグの中に転がっている。ざわつく日常を抜けて、彼と彼女は再会する。
「学祭用の放送機材があるとかで、今日は立ち入り禁止だよ」
真後ろ、囁くように告げられた言葉に屋上の扉へと伸ばした右腕を引っ込めた。ビビってなんか無い、肩なんて跳ねて無い。初対面の時にさんざビビり散らしたとか、そんな事は忘れた。くすくす笑う彼女の声を耳にして、ゆるゆると力が抜けていく。
「久しぶり、ソラ。五月だよ」
「楽しそうですね、さつきさん」
ゆるりと振り返ればそこに立っていたのは想像通り、彼女だった。よっぽど面白かったのか、いっそ晴れやかなほどに満面の笑みを浮かべているから、なんだかもういいや、なんて。何に対してかは分からないが、笑いすら零れそうだった。
「だって五月だよ、私の季節になったと言っても過言ではない!」
腰に両手を当て、ふんすと胸を張る。多分おそらくきっと過言だと思うが、かわいくてきらきらしてみえたから、何も言わないでおく事に決めた。
「はいはいそーっスね、わーさつきさんの季節ダナー」
「ぜーったい思ってないでしょ、その顔」
わざとらしく大げさに頬を膨らませ、さも怒っています、というように態度を変え、てこてこと小さな階段の前を行ったり来たりする。年頃の、女子高生たる彼女らしく短く膝上の丈に揃えられたスカートが、その歩みに合わせてゆらりゆらりと裾を遊ばせた。
「じゃあ、さつきさんは僕より先に誕生日を迎えたお姉さん、という事ですかね」
ぱちり、見開かれた目。頬の空気はどこかへ抜けていったようだ。
「誕生日って言ってないのに」
「あれ、違った?」
「ううん、違くない。お姉さんと呼んでくれてもいいんだよ!」
「それはご遠慮させていただきます」
「うーん、唐突に丁寧!」
腹を抱えて笑いながら荒々しく屋上の扉前の階段に腰を下ろした彼女が、やはり隣をたしたしと叩いた。初めて会った時と同じくそこに座れという事か。
「あー笑った。でもほんとに、なんで誕生日だって分かったの?」
大人しく階段の端っこに腰かければ、一段下の彼女が頭にハテナを浮かべながら振り返る。そういえば確かに、皐月の名前を持つからと言って五月生まれとは限らないのに、なぜか僕は彼女が五月生まれだと断定していた。なぜだろう、と思い返さなくても思い当たることはあった。
「二つ上の先輩が居るんですけど、なんかこう……さつきさんに似てるし、旧暦を名前に持つ人だったから」
いや、正しく言うのなら彼女が彼に似ているのか。彼も誕生月を名付けられた人だった。
「ふぅん、そっか。ねぇ、その人どんな人なの?」
どんな人か、改めてそう問われると意外と難しいものだ。なにより、思ったより口に出すのが気恥ずかしい。
「いわゆる腐れ縁、ってやつ……なのかな。幼稚園からずっと一緒で、気付いたらあの人に引っ張られて色んな所連れまわされたし、殴り合いの喧嘩だってしたけど、でも」
人によってはこの関係を幼馴染と称する人もいるだろう。
「尊敬している程度には嫌いじゃないっスね」
風のような人だった。嫌いじゃないし、なんなら憧れていたりもするけど、本人には絶対言ってやらない。
「……そう、かぁ。良い先輩だったんだね」
「いや、全然。だってあの人僕が部活で練習してる所に邪魔しに来るし」
「えぇ~なにそれ、変なのぉ」
良い先輩、では無かったのではないだろうか。良い友人であったのは確かだが。
そう、彼が小学五年の時だっただろうか。彼に新しい家族が増えて、転がるように僕の家まで駆けてきて、泣きながら転げまわって。いや転がってはいなかったけれど、そうして自身の妹が生まれたことを報告しに来た時。俺の中での彼の評価がさらに上がったのだ。家族を大切にするっていうのは言葉にするのは簡単だが、意外と難しいものなのだ。――そして彼はシスコンになった。
「でも……部活かぁ、いーねいーね。何部?」
「吹奏楽でトランペットを」
そう言った瞬間に勢いよく振り返った彼女の長い髪がしなり、鞭のように攻撃してくる。それがまぁ意外と痛くて、とっさに身を引いてしまった。髪の毛って、思ったより痛いものだったらしい。
そういえば今日の彼女の髪型は、手を加えていなかった前回と違って、確か……そう、ハーフアップ、という名前だったか。黄金色の長い髪が揺れているのも可愛かったが、この髪型もかわいい。多分僕は、彼女のあの長い髪で形作られる髪型なら、大抵のものをかわいい、と形容してしまうのだろう。
「トランペット!」
はつらつとした彼女の声に、夢うつつから現実へと引き戻された。なんだか彼女の瞳が三割増しで輝いている気がする。
「吹けるの?」
「えぇ、まぁ。中学からやっていれば、イヤでも吹けるようになりますって」
「聞きたい!」
ずずいと近寄ってくる彼女をどうどうと宥め、座らせる。顔が近い、かわいい、落ち着いてほしい。トランペットは、いや、どの楽器でもそうだが、聞かせたくても難しい。僕の所属する吹奏楽部では昼休みの練習がない為に楽器を音楽準備室から持ってくることは難しい。だからといって自分用のトランペットは持っていない。ピンキリとはいえ、ある程度満足のいく音を出せる物や、手入れ道具などを一通り揃えるとなるとまぁまぁお高くつくのだ。
「今は、ちょっと……昼休みは楽器持ち出せないですし」
「うーん……そっかぁ。しょーがないねぇ、うん」
しょげ、と肩を落とした彼女。頭頂部で揺れるアホ毛が、心なしか垂れ下がっている気がする。感情とリンクしているのだろうか。かわいいけれど少しばかり不思議だ。
しょげながらも立ち上がった彼女が、パタパタとスカートをはたく。
「じゃあ、また」
今日もまた、昼休みが終わる。
「……うん。また」
そうして、彼女の季節は過ぎていく。
六月。色とりどりのアジサイが咲く頃合になった。学校に向かう途中にある陸橋から眺める歩道はカラフルで、雨で沈んだ心が少しだけ浮上した。ほんの些細な非日常を楽しむために。彼と彼女は待ち合わせる。
「今日は雨が激しいから、屋上は立ち入り禁止だよ」
至近距離で発せられた声に驚き、けれど、前のように肩をはねさせることなどはせずにゆっくりと後ろを振り返った。快晴色の瞳を伏せて、彼女が淡く笑っている。激しい雨が扉を強く叩いて、その音を主張させている。
もう、衣替えの時期だった。
半袖のワイシャツから伸びる白い腕が持ち上げられて、僕の顔に向かって差し出される。爪の形がきれいだ。細くやわらかな指が額に触れ、そっと前髪が持ち上げられた。
僕の前髪は長くやぼったい。校則違反であることも気にせずに伸ばし続けたこの髪は、ついに両目を覆い隠す程にまで長くなった。だって、僕は自分の瞳が。
「綺麗」
ずっと、嫌いだった。
「私、空の中でも夜空が好きなんだけどね」
母の瞳は暖かな大地の色、父は蜂蜜を塗り込めたような黄金色。
「ソラの瞳はなんかねー」
両親どころか祖父母とすら瞳の色が違うと知った僕は、自分の瞳を見たくも無くて。
「夜空を閉じ込めたような深い蒼色って感じだ」
そう、彼女に言われて。いつだったか腐れ縁のアイツが言っていたことを思い出した。
トランペットの調整の為に一人籠っていた教室。中学生らしさの欠片もない程ふてぶてしい態度で乱入者が引き戸を開け放った。
「ソラ、きらきら星吹いてー」
「もー……またですか。葉月先輩ってば子供っぽいなぁ」
多目的教室の机に我が物顔で腰を下ろし、パタパタと足を揺らす一人の男。校則違反であることを厭わず伸ばされた長い茶髪を尻尾のようにくくり、風と戯れさせている。
自由な人だった。カラリと乾いた砂漠の風のような人だった。
「いーからいーから、早くぅー」
彼が、この夜空のような瞳が好きだと言うから。存外、夜の空も悪くない、と。そう思うきっかけをくれたのだ。
「ソラは、夜好き?」
「好きじゃありませんでしたよ」
夜は自分の嫌いな瞳と同じように暗くて、どことなく寂しさを感じるから嫌いだった。青空はあったかい。だから好きだ。
「じゃあ、どんな空が好き?」
前髪に触れていた彼女の手が離れていく。細くて綺麗であたたかさを感じる指が遠のいた。
「さつきさんの眼のような青空が」
夏空色の瞳を瞬かせて首をかしげる彼女の肩から、さらりと髪が流れた。今日もまた前とは違った髪型だ。サイドアップ、そんな名前だった筈。葉月くんが妹の為にと勉強していたのに付き合わされたからなんとなく覚えている。
「好きですよ」
ポカンと口を開けたまま動かなくなった彼女を置いて前と同じように階段の二段目に座り、彼女が再び動き出すのを待ってみる。校則違反の黒いタイツ。確か、ニーハイソックスは校則的に認められていて、けれどタイツは校則違反らしい。クラスの女子がブーイングしていたのが印象的で、よく覚えている。
「はっ!」
再起動と一緒に肩が跳ね、髪の毛が逆立ったのを幻視した。黄金の髪が揺れ動くのがかわいい。
「もーズルい、だめ、反則」
頬を抑えながら首をフルフルと振っている姿がかわいらしい。
「き、今日のところは勘弁してあげなくもないかな」
まるで悪役のようなセリフの筈なのに、彼女が照れながらそっぽを向いているせいで、なんだか締まりがない。
「覚えてろよ、とでも言ってみますか?」
「言わなくてもソラは覚えておいてくれるだろうから。じゃあ、またね」
無意味に一度その場でくるんとスカートを翻しながら一回転。でもなんだか楽しそうだ。
「しょうがないですね、覚えておきます。では、また」
そうして、雨音に包まれた逢瀬は過ぎていく。
七月。織姫と彦星の逢瀬は、暗くも輝かしい煌めく川を渡って行われる。一年に一度きり。それすら羨ましく思えるだなんて。
「今日は、まだ駄目。まだ、もう少し待って」
彼女の半袖から伸びる白い腕が、縋るように扉を抑えた。取っ手に伸ばしていた手を、そっと引き戻す。
「外、暑くなってきたから。……熱中症対策、だよ」
「そうでしたか。もう、そんな時期でしたか」
振り返れば、髪と同じように綺麗できらきらした眉毛を、困ったように垂れ下げた顔の彼女。じとりと汗がにじんでいるようで、あの長い髪の毛は暑くないのだろうか。
僕たちは、ただ無言で腰を下ろす。いつもの階段。季節的な統一感のない装いの二人が並んでいると、違和感しかなかった。
「もうすぐね、夏休みが来るでしょ?」
「……えぇ、そうですねぇ。何かやりたい事でもあったり?」
「うーん……毎年やってる事があって、それは今年もやりたいかな。それ以外だと、なんだろうな。あんまり思いつかないや」
スカートを抑える様に膝を抱える彼女が、考える時の癖なのか、ゆらゆらと体を揺らす。それと共に行ったり来たり踊る馬の尻尾を触ろうとして、けれど、さら、と透けてしまった。触れない。残念だが、当然だった。そう自分に言い聞かせるように、学ランの詰襟に顔を埋める様に小さくなった。
「海とか、旅行とか、家族とどこか行かないんですか?」
「あ、お兄ちゃんと天体観測行くよ。これも毎年恒例なんだけどね」
「お兄さん、いたんですねぇ。僕一人っ子なんで分かんないんですけど、喧嘩、します?」
ビックリするほどとりとめのない日常の会話が、ただそれだけが楽しくて。
「まぁ、少しはね。でも私はお兄ちゃん好きだし、お兄ちゃんは私大好きだから……うん。仲はいいと思うよ、毎日楽しいし」
照れくさいのか、視線を落としながら、顔の横に残してある一筋の髪をくるくるといじっているのが、かわいらしくて。
「お兄ちゃんの幼なじみ、みたいな人が居たんだけど」
「曖昧ですね」
「そうだね、お兄ちゃんが付きまとってただけだし」
「なるほど。そういうこともありますね」
「うん。今思うとさ、多分その人ね、私の初恋の人だったんだよねぇ」
「あぁ、年上が初恋でしたか。少女漫画とかにありそうなやつですね」
夏空色の瞳が柔らかく細められるその表情が、きらきらと輝いて見えたから。
「僕はこれが、最初で最後の初恋、ってやつだったのかなぁ」
好きだなぁ。
「……そっか」
「ほらさつきさん、お開きにしましょう。次の授業の準備しなくちゃ」
「体育、休む……」
「わあ、よりによって体育か。なおさら急がなきゃ駄目ですよ。ほらほら、立ってください」
動こうとしない彼女の前に立ち、動き出すように促せば、膝に埋める様に伏せていた顔を上げてくれた。顔には分かりやすく「嫌だ」と書いてあるようにすら見えて、初めて見る表情に思わず笑いがこぼれた。
「……うん。ごめん、分かった。行く」
黒い袖に包まれた腕でひら、と手を振った。
「いってらっしゃい、さつきさん」
そうして、彼と彼女の最初で最後の夏が始まる。
八月。茄子作りの牛を手に。これで、最後にしよう。
「ソラ、離れて!」
力強い彼女の言葉にパチリと意識が覚醒する。驚いて思わず半歩身を引けば、金色の風が目の前を駆けて行った。
バァン、派手な音を立てて扉が、屋上の扉が開かれる。急な強い光と風に、反射的に目をつむり、顔を抑えた。
「見て、夏よソラ! 入道雲が掴めるかもしれないわ!」
少し離れた所からハツラツと声を上げる彼女の声がぴょんぴょんと飛び跳ねている。誘われるように目を開いた先に広がっていたのは、澄み渡るような青い空と入道雲を背に満開のひまわりのように笑う、彼女の姿。そのまま放っておけば、入道雲の向こうへと消えてしまいそうだ、などと。
学ランの黒い袖の向こうに見える屋上へ。一歩を、踏み出す。これだけの事がどれだけの間出来なかったのだろうか。
扉を潜り抜ければ、強い強い、夏の日差し。汗を拭う半袖の彼女と、学ランを着込んだ僕。あまりにちぐはぐで、いっそ笑えてくる。
「ほら、綺麗な飛行機雲がかかってる!」
数歩先を行く、黒い鞄を抱えた彼女が振り返り、ひときわ強い風が吹く。彼女の長い髪が風にさらわれる。
「……ほんとうに、きれいだ」
コンクリートで作られた校舎の屋上。ジリジリと照り付ける太陽が僕らに突き刺さる。屋上のど真ん中に腰を下ろした彼女に手招かれ、ほんの少し間をあけて隣に寝転んだ。
「空、遠いね」
「でも、さつきさんの色だから。きれいだ」
透けた指先をかざして、快晴を仰ぐ。
「……今日はね、ソラに渡したいものがあって」
そう言った彼女が、脇に抱えていた黒い鞄を差し出してきた。見覚えのある傷が見える。
「これ、もしかして」
「そう、トランペット!」
パチンパチン、軽い音を立てて金具を外す白い指先が、汗を拭うように前髪をかき上げた。頬を伝う汗が不快そうだ。黒の中には、きらりと輝くトランペット。
「ソラ、きらきら星吹いて欲しいな」
「真昼間に吹く曲じゃないと思うんですけどね」
言いながら、トランペットに手を伸ばす。さわれた。落とさないように大切に抱え上げ、彼女の前に立った。腐れ縁のアイツに乞われ続けて奏で続けた楽譜を脳内でなぞる。
「ありがとう、さつきさん」
「私こそ。出会ってくれて、ありがとう」
座ったまま見上げてくる彼女の目元が、夏の暑さとは別に赤く染まっている。空を見上げた。彼女の瞳の色が視界いっぱいに広がっている。深呼吸を一つ。
ギラリと照り付ける太陽を反射する屋上のアスファルト。揺らめく陽炎の中心で、黄金に輝く、自らの相棒たるトランペットを構えた。まぶしくて、かがやかしくて、涙が出そうだ。遥か彼方、遠くを流れる真っ白な雲がふわりふわりと形を変えていく。天辺には太陽。力まず、緩まず。すぅと息を吸い、そして―――。
――からん、と黄金の宝が落ちた。
私が通う事になった高校には有名な怪談がある、と所謂ブラコンの兄に聞いた。そして、その幽霊の事も。
「夏休みの部活中にな、アイツは屋上手前で死んだんだよ」
いつもは快活な兄が眉を下げて語りだしたのは、幼なじみだったという男の子の話だった。夏休みに学校内に不審者が入ってきて暴れたらしい。死者は、その男の子一人だけだった。
「あの高校で語り継がれてる怪談に出てくるのはアイツなんじゃないか、って思うんだけど。もう俺は会いに行けないからさ」
だから、頼むよ。困ったように、祈るように。常ならばぴんとまっすぐに張っていた背中を丸めて手を組む兄の願いを叶えるために。入学早々向かった東棟の屋上。
そこで、私は彼と出会った。
死んだという自覚の無い幽霊だった彼と言葉を交わし、そうして恋に落ちた。夜空を閉じ込めた瞳が美しかったのだ。
叶わぬ初恋だった。
「お兄ちゃん。ソラ、還ったよ」
汗と共に頬を伝っていく水を腕で拭った。夏休みの学校前まで迎えに来てくれた兄にトランペットを返す。ソラの大切なもの。先生に無理を言ってお盆休みの一日に学校を開けてもらって正解だった。彼の無念を晴らしてあげる事が出来た。だから、胸を張るべきなのだ。
「そっかぁ……うん。ありがとう、さつき。でもね、悲しい時には泣いていいんだ」
雑に頭を撫でられ、ハンカチを顔に押し付けられる。次から次へとあふれ出てくる涙が、止まることを知らない。
「もう、あえないのに」
しゃくりあげながらも言葉がこぼれ出てくる。
「ソラ、わらったんだ」
うん、相槌を打った兄の声がいつもより柔らかかった。それがまた涙腺に打撃を与えてきて、顔がぐしゃぐしゃになってしまいそうだ。
「ソラの、お墓参り、行ぐぅ」
「そうだな、せめてお前がまともに喋れるようになってから行こうな。毎年ソラのかーちゃんに顔見せてんだから、そんなボロボロだと心配されるぞ」
ハンカチ片手に兄に手を引かれ、うだるような夏の暑さの中を一歩、歩き出す。どうしても、祈らずにはいられない。
どうか、彼の黄泉路が少しでも安らいでいますように。
屋上に住まう幽霊は 最城藤真 @saijyoto-ma
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