第十章 新しい朝
第十章 新しい朝。
世の中はすごくあたり前だった。まるでサラの家族の事など何も知らないかのように、サラの部屋から見える景色には代わり映えがしない。
通りを行く車。ゆったりと散歩をする老人。
何かに急き立てられるようにせかせかと歩くスーツ姿の男性。子供を連れた女性。
それまであった日常が、今もなお続いている。サラにとっても、数日前まで存在していた日常だった。
ベッドから起き出して、窓の外を見ているとそんな事を考える。
昨日、自宅に戻って来たサラはシャワーを浴びる事も忘れ、眠ってしまっていた。
よほど、疲れていたのだろう。けれども、今のサラにそんな事を気にする余裕はない。
はやく、浩一郎が戻って来ないだろうか。そんな事ばかりを考えている。
「……無事、だよね……きっと」
ぼそりと呟く。と、控えめなノックの音が聞こえてきた。
「サラ、起きていますか?」
「ひまわり? うん、起きてるよ」
返事をすると、今度はゆっくりと部屋の扉が開いた。そこに、見知った顔があり、サラはわずかに表情が緩む。
「サラ、朝食の用意ができました。階下へ……」
「ごめんね。今日は……いらない」
「しかし、食事はとらなければ……」
「あまり食べたくないの」
サラはひまわりから視線を外し、再び窓の外を見やった。
相変わらず、平和な日常がそこにはあった。その事が、サラの小さな胸を締め付ける。
「……浩一郎は、いつ帰ってくるのかな?」
「それは……わかりません。今のところは、ただ待つしかありません」
ひまわりの声は、押し殺したようだと思った。
彼女は機械だ。サラの義父が作った、小さな少女のお世話をする機械。
感情と呼べるものはない。あるは、たった一つの使命感だけだ。
それは、サラの身を守る事。サラという、最愛の女性が残した、たった一つの宝物を。
だからこそ、ひまわりは今、ここにいる。浩一郎を助けるでもなく、ここに。
「……浩一郎は、いつ帰ってくるの?」
サラは窓の外を見やったまま、もう一度呟く。今度は、ひまわりに答えを求めてはいないようだった。
それは、彼女自身が薄々気付いているからだろうか。義父が戻ってくる可能性が低い事を。
もしそうなら、それは悲しい事だ。何とかしなくては。
ひまわりはきょろきょろと部屋の中を見回す。サラの気分を変える物がないだろうか。
「サラ、あれは一体なんでしょう?」
「あれ? 何の事?」
ひまわりが窓の外を指差す。と、その先には一組の親子の姿が。
そしてその手には、小さな物体が握られていた。そこまではサラにもわかった。
しかし、それだけだった。ひまわりには見えてるのかもしれないが、サラにはそれが何なのか見て取る事はできない。
ここは、やはり機械と人間の差なのだろう。
人と高性能な機械人形の違い。認知能力の差。
そんなものが、サラを苦しめる。
少なくとも、彼女の覚えている母親はそんな人ではなかった。
「ママ……」
ひまわりの願いとは裏腹に、サラの表情は沈んだままだった。
どうしたらいいのだろう? ひまわりは必死に思案する。
サラを、これ以上暗い顔にさせないために必要な事。
見当も付かない。しかし、諦めるわけにはいかなかった。
「……サラ、とりあえず朝食にしましょう」
「そうだね。うん……ごめん」
サラは振り返るとまっすぐひまわりを見た。
その顔は、少しだけ笑っていた。無理に笑おうとして、失敗していた。
その表情がいたたまれなくて、ひまわりは視線を逸らす。
「……では、行きましょう」
不思議な感覚だった。彼女はただの機械。
いたたまれない、という言葉の意味は理解できても、実感が伴うとは思えなかった。
それが、今感じている感覚だ。
階段を降りながら、けれどもひまわりはサラを振り返る事ができない。
どんな表情をしているのか、簡単に予測できてしまう。
そして今のひまわりでは、その予測を覆す事ができないから。
一階にたどり着く。食卓には、ひまわりが用意していた朝食があった。
トーストとミルク。朝からあまり食べられないサラに向けた、軽めの朝食だ。
ひまわりが椅子を引くと、サラはすとんとそこへ座った。
それから、頂きます、と手を添える。浩一郎がいつもしていたように。
「……おいしい」
「それはよかった。……ただのトーストですが」
一応、ジャムやチョコソースなども用意しているが、サラはそれらに手を伸ばそうとはしなかった。
薄い焦げ目の付いたトーストを、無言で口の中に運ぶ。時折ミルクでそれを流し込み、また食べる。それの繰り返し。
ほどなくして、サラは朝食を食べ終えた。それから、再び手を合わせ「ごちそうさま」と呟く。
「おいしかったよ、ひまわり」
「ええ、ありがとうございます。昼食はいかがいたしましょうか?」
ひまわりは食器を片付けながら訊ねる。が、サラは首を振った。
食べたばかりで、次の食事の事など考えられないのだろう。なら、今は保留しておくべきだ。それに……。
それに、彼女の頭の中は、今たった一つの事で一杯だろうから。
ひまわりは食器をシンクに置き、水を流す。
サラはとても奇麗に食べる。
トーストは本来、ポロポロとくずが落ちるものだ。
けれど、サラの食べ方はあくまでも上品であり、彼女の周りはあまり汚れない。
浩一郎の生活スタイルとはあまりにかけ離れていた。これは、サラの母親の影響だろう。
汚すのはいつも浩一郎で普段ならそれをサラが叱る。そういう関係だったに違いない。
ひまわりは目の奥にその光景を映し出し、ほうっと吐息した。
いつまで、今の状態が続くのだろう。いつまで、サラはあの顔をし続けるのだろう。
サラの表情が曇っている事は、ひまわりにとって悲しい事だった。だから、早く元に戻って欲しいと願っている。
願っているだけでは、どうにもならないのは、わかっているとしても。
「私は……なんと無力なのでしょう」
ひまわりの頭の中に、自責という二文字が浮かび上がる。
自然、胸の奥がどんよりと沈み込むような感覚があった。まったくおかしな事だ。
ただの機械が、これほど人間のような心理を持つなんて、変だ。妙だ。
どこかのモーターの調子が悪いのだろうか。それとも、ソフトウェアにバグが発生したのか。
はたまた、何か別の原因で……などと考えていると、かちゃりと食器が擦れる音がした。
顔を上げる。ちょうど、サラが朝食を食べ終えたところだった。
「……今日もスクールはお休みになりますか?」
「うん。どうしても、学校って気分じゃないから」
サラは表情を曇らせたまま、笑う。
その笑顔は心からの笑顔ではなかった。明らかに無理をしている、作り物の笑顔。
ひまわりはサラの目の前から食器を回収する。それをシンクに置き、振り返る。
ぼうっと、サラがどこかを見つめている。何を見ているのだろうか。
ひまわりもそちらへと視線を転じるが、あるのはいつもと変わらない風景だけだ。
とても、人間の心を揺さぶるような何かがあるとは思えなかった。
「何を見ているのですか?」
「なんでも。ただ、早く帰って来ないかなって思ってただけ」
「そう……ですか」
ひまわりは小さく頷いた。
「では、何をいたしましょう?」
「そう……ええと」
サラは困ったように眉間に皺を寄せ、俯いてしまった。
――ああ、サラを困らせてしまった。
そんなつもりではなかった。ただ、サラの気を別のところへ向けたかっただけだ。
そうすれば、今この瞬間だけでも、サラの中から苦しみを消せる気がして。
けれども、それは浅はかな考えだったようだ。今のサラには、他に考えるべき事などないのだから。
「……浩一郎を、探しに行きたいな」
くるりとサラが振り返る。その顔には、やはり笑顔が張り付けられていた。
悲しそうな顔。今にも泣き出しそうな。
ひまわりはサラに歩み寄ると、そっとその頬を撫でた。
ゆっくりと、優しく腕を回す。ふわりと、小さな少女を包み込む。
「……大丈夫です。浩一郎はすぐに帰って来ますよ。……すぐに」
「……うん。ありがとう、ひまわり」
サラの頭を撫でるひまわり。人間ではないはずなのに、人間のように暖かい。
かつて、まだサラが本当に小さかった頃。こうして母親の胸に抱かれていたような気がする。
◇
「君は一体、何を企んでいるだ?」
「企む……とは?」
浩一郎はプラスチック箱に向け、訝しげに問うた。
けれど、返って来た反応は彼の予想とは違っていた。
ケイトは小首を傾げるように、何度かピタッと停止する。それから、考え込む仕草を真似る様子で、じっとその場に留まっていた。
「前にも言った通り、わたしは兄を助けて欲しいのです」
「いくら考えても、君の兄は犯罪者だ。俺に犯罪者を助ける事はできない。なぜなら俺は法律家でもなければカウンセラーでもない。どんな方法によっても君の兄を救う手立てがないんだ。それなのになぜ?」
「……いいえ、それほど難しい事はありません」
ケイトはスッと、浩一郎の前に出た。それから、くるりと振り返る。
「わたしには方法がわかっています。けれど、わたしではそれを実行できません」
「なら、せめてその方法を教えてくれ」
「それは出来ません」
「なぜだ?」
浩一郎は眉間に皺を寄せ、怒鳴りそうになる自分を必死に抑えながら、問いを重ねた。
ケイトは何かを訴えるように小さく身を捩った。
けれど、それ以上は言葉を紡ぐ事はなく、ただ静かにモーターの音だけが響いている。
「……なんで何も言わないんだ」
問うても、答えは返ってこない。
浩一郎は嘆息すると、くるりと振り返る。
部屋から出た。暗い四方の闇が、再び浩一郎を包み込む。
その背後から、ケイトが付いて来る。ちらりと顧みたが、すぐに前を向く。
――前ってどっちだ?
きょろきょろと周囲を見回す。けれど、どちらが〝前〟だったのか思い出せない。
「仕方がない。こっちに行ってみるか」
ほんのりと、ケイトの体に取り付けられているライトが足下を照らす。
目前数十メートルとない視界。歩んでいった先には何が待ち受けているのかすらわからなかった。
それでも、進むしかない。はやくしないと。
胸の奥から、焦りが駆けのぼってくる。どうにかして、ここを脱出しなければ。
浩一郎は再び歩き出す。やはり、後ろプラスチックの機械が付いて来る。
助けて欲しい。確実に彼女はどう言った。けれど、それはかなり難しい。
過去に囚われている兄を救ってほしいと。
けれど、具体的に何をしたらいい? それがわからなければ、助けようがない。
「……たぶんだけれど、君も何をどうしたらいいのかわからないんだろ?」
「…………」
「だったら、それは仕方のない事だ」
なぜなら、今浩一郎の背後にいるのは、人間の、本物の女の子ではないからだ。
ケイトという小女は既に死んでいる。ここにいるのは、過去の複製でしかない。
過去の複製に、未来の事を訊ねても栓ない事なのかもしれない。
浩一郎はふうっと息を吐くと、ケイトを振り返らずに訊ねた。
「昔のあいつはどんな人間だったんだ?」
「……兄さんの事、ですか?」
「ああ。君は、今のあいつの事がわからないだろ。そして、これからの事はもっと」
「……はい。そうですね」
ケイトは神妙な口調で(と言っていいものかわからないが)答えた。
それから、考え込むように無言になる。
浩一郎はその間、足を止める事なく、進み続けた。
「兄さんは、優しい人でした。誰よりも優しかった、と思います」
「えらく自信なさげだな」
「わたしは……わたしが知っているのは、小さい頃の兄だけですから」
「ああ、わかってる」
だから、それを聞かせて欲しい。
浩一郎は小さくそう言って、足下に視線を向ける。
「兄は……まじめな人でした。頭がよかった。学校の成績はずっと上の方で」
滔々と語られる、あの男の過去。
彼女が知る、幼い頃のあの男の、子供の時代。
「兄は何をしてもずっとすごかった。ジュニアハイスクールの頃になると、エンジニアとしてそこそこお金を稼ぐようになりました」
「へえ……それはすごい」
中学生……といえば、浩一郎はどうだっただろう。
家に閉じこもって、電子機器を分解したり、作り変えたりしていたような気がする。
「時々、わたしのためにとっても面白いものを作ってくれたりしたんです」
「……うん」
「あれは確か……おしゃべりAIだったような」
「おしゃべり……AI」
今の、ケイトの原型と考えるのが妥当だろうか。
「わたし、実はあまり体が強くなくて、病院に入院している事が多かったんです」
「……君が亡くなった理由って……まさか」
「今のわたしにはわかりませんが、おそらく違うと思います。もし病気で死んだんだとしたら、たぶん兄は今回のような事はしなかったでしょうから」
「ああ……そうだろう」
考えづらい事だが、もし本当に不治の病に侵され、亡くなったのだとしたら。
新種のウイルスとか、治療法のない病気とか。そういうのが死因なのだとしたら。
あの男は、今回のような事はしでかさなかった。確かに、そんな気がする。
「でも、どれだけ願ったって死人は生き返らない」
死んだ恋人を生き返らせようとした。けれど、出来上がったのは見た目はそっくりな、全く別の何かだった。
それでも、サラは喜んでくれた。容姿は在りし日の母親そっくりなのに。
既に、受け入れていたのかもしれない。どれだけファンタジーと見紛うほど科学が進歩していたとしても、消えてしまった人間が戻ってくる事はないのだと。
もしかしたら、浩一郎よりも大人だったかもしれない。
「実は、俺も大切な人もう一度この世に生き返らせたいと願ったんだ」
「……あなたも、兄と同じ事を?」
「ああ。まあ俺の場合、ハードだけだけれど」
ソフトウェアまでは手が出なかった。
見てくれだけを整えるのでも、かなり苦心した。その上で言動や心を再現できるとは、到底思えなかったのだ。
だから、断念した。本当に、残念で仕方がなかった。
「……手段はどうあれ、君の兄の愛は本物だと思うよ」
「ありがとう……ございます」
プラスチック箱は、ピタッと立ち止まり、振り返った。
まるで微笑んでいるようだと思った。そんなはずはないのに。
彼女には、表情はない。そもそも頭部と呼べるもの自体がないのだから、仕方がないのだけれど。
「別に……俺は思った事を言っただけだ」
浩一郎は肩を竦め、口の端を持ち上げる。
助てほしいという。兄と呼ぶ、家族のために。
その方法がわからないまま、浩一郎は慎重に歩を進めるのだった。
◇
車両――というより、戦車に近かった。
リンダはそれに乗り込みながら、そう思った。まるで兵器だ、と。
それも、毒ガスとかの類いではない。明らかに人を木っ端にするために開発されたそれ。
とはいえ、実際は違う。兵器ではない。ただの警察犬の代わりに過ぎないのだから。
「……これから、一体……」
「ああ、そうしたら、後はここを押す」
ポチッと、ホフマンが何かを押した。リンダの位置からではよくわからなかったが、何かのスイッチのようだ。
ゴウンッと機械音が鳴り響く。ギギギッと怪しい挙動を繰り返し、それからようやくエンジンがかかったのか、小さな唸り声に変わった。
「さて、では外に出てみようじゃないか」
「は、はい……」
返事はしてみたものの、果たしてどうやって操縦するのだろう。
座席の近くはハンドルのようなものは存在しない。ある物といえば、ペダルが二つだけ。
「追尾は自動で行うから心配はいらない。君は足下のペダルを踏みさえすればいい」
「ええと……それだけですか?」
「ああ、それだけだ。さて……」
ホフマンが兵器(違うが)を隔てた向こう側で何やらごそごそとしている。
何をしているのだろう? 覗き込みたかったが、それは無理なようだ。コクピットが動かない。内側も狭く、体を捩る事すら不可能だった。
本当に、足下のペダルを踏んだり離したりするだけの空間に入ってしまったようだ。
「それでは、行ってきたまえ」
ゴウンッと機械のへの前の壁が真横へ二つに分かれていく。
現れたのは、いつもと同じ街並み。
平穏な、代り映えのない日常的な風景。
ホフマン邸の前を、一台の掃除ロボットが通り過ぎる。
「……どうしたね?」
「えっ……いえ、何でもありません」
何が……一体何がどうなってるんだろう? なぜこんな事になっているのだろう?
リンダはごくりと唾液を飲み下す。この後、一体何をすればいい?
「ええと、あの……ここから私はどうしたら?」
「とりあえず、足下のペダルを踏んでみたらいいんじゃないかね。右が発進で左が停止だ」
「はあ……ではやってみます」
ゆっくりと、リンダがペダルを踏み込む。
すると、ガッと耳を覆いたくなるような音がした。
「え? 何……ッ」
すぐさまリンダは周囲を見回す。けれど異変がない。
となると、音の発生源はこの巨大ロボットのようだ。
嫌な予感がする。この後、ろくでもない事が起こりそうな、そんな予感。
「あの、この後は……」
「大丈夫だ。後は全て自動だと言っただろう? 君は必要に応じてそのペダルを踏み込めばいい。それだけだ」
「それだけって……」
急に、不安が胸の内を駆け上る。なんだかお腹が痛いような気がした。
「では、行ってきたまえ」
「え? えええ! ちょっとっ!」
リンダの叫びも空しく、ロボットは駆動音を鳴らしながら、ホフマン邸を出る。
それから、すぐに公道に躍り出た。自動運転車が走る最中を、巨躯を縦横無尽に操りながら、進んでいく。
これは、確実に騒ぎになる。そう、リンダはとっさに思った。
なんという罪味なるのだろうか。もしかしたら死刑かもしれない。そういうありえない妄想に近い考えが次々に浮かび、目の端に涙が溜まっていく。
それでも、停止のペダルを踏む事なく、リンダは行動をひた走る。
今後しばらく、相棒となるであろう巨大なロボットとともに。
◇
時刻はそろそろ正午だ。昼食はいらないと言われた。
それでも、ひまわりは一応、昼食を用意している。
メニューはハムエッグとコーンスープ。付け合わせのサラダ。
それらを持って、二階に上がる。サラの部屋をノックする。
「サラ、昼食の用意ができましたよ」
中からは、返事がなかった。このまま引き下がるべきだろうか。
ひまわりは逡巡の後、そっとドアを開いた。ベッドの方に視線をやる。
サラはベッドで横になっているようだ。眠っているわけではないだろう。
何をする気にもなれないのかもしれない。浩一郎が戻ってくるまで、この調子だろうか。
それは、よくない事だ。サラの心身の健康面を考えると、早く戻って来てほしいと願う。
しかし、それはひまわりにはどうしようもない事のように思われた。
何しろ、事件は公になっておらず、という事は公的機関の介入は望めないだろう。
事件の早期解決は期待が薄い。それでも、無事でいると信じる以外に手立てがなかった。
「サラ、食事は食べないといけませんよ」
ひまわりはサラの机に昼食を置き、ふと窓の外を見やる。
自動車が止まっていた。渋滞が起こっているようだ。
「……珍しいですね。何があったのでしょう?」
自動運転車が普及して久しい昨今。渋滞というものとはほとんど縁を切った。
そう言い切るほどに、人類の発明は目覚ましく、それでいて高度である。
もはや渋滞とは過去の事例を示す言葉でしかなく、運転のほとんどをAIに代行してもらうようになってからは、スムーズな移動をする事はあっても立ち往生など絶無と言っていいほどまでになった。
にも拘らず、今まさに渋滞が起こっている。これは、どうした事だろうか。
「サラ、一体何があったのでしょうか?」
ひまわりはサラを振り返る。が、返事はない。
「……サラ?」
もう一度呼びかけるが、それでも返事はなかった。
ベッドに近付き、肩の部分に触れてみる。
手応えが、おかしかった。まるで人間ではなく、別の何かに触れているようだ。
「まさか……ッ」
バッと掛け布団を剥いだ。すると、その下には枕があった。
しかし、サラの姿はなかった。
「どこへ……?」
ひまわりは眉間に皺を寄せ、途方に暮れた。
サラのメンタリティに配慮して、体温感知機能など彼女の健康状態をモニタリングする機能を軒並みオフにしていた事が仇になった形だった。
サラの行方は、わからない。一体、どこへ行ってしまったと言うのだろうか。
と、ひまわりが悲嘆に暮れていると、つい先ほどの光景が視界の奥に浮かび上がった。
普段は絶対に起こらない渋滞。
それは考えてみれば、不可解な事だった。いや、考えずとも疑念を抱くべきだったのかもしれない。
しかし、数分前と今とでは状況がまるで違う。
ひまわりはすぐさま階下へと駆け降り、外に出た。
――まだ、渋滞は続いていた。何が起こっているのだろうか。
ひまわりはほうっと吐息すると、周囲の監視カメラへのハッキングを試みた。
さすがにセキュリティが固かった。けれども、破れないほどではない。
しばらく格闘していると、ようやくひまわりの視界に数時間以内の映像が届く。
「……これは、どういう事?」
ひまわりは眉間に寄せていた皺を更に深くして、呟いた。
一瞬、巨大な何かが通ったような気がした。それが何なのか、ひまわりにはわからなかった。
映像は鮮明ではない。特に、その巨大な何かが通った直後の乱れ方は異常だった。
おそらく、その物体が放出している有害な電波なりが映像を乱しているのだろう。
そんなものは、どうだっていい。
ひまわりは映像をもっとよく見ようと意識を集中させる。と、映像の端に、小さな物体が見えた。
移動速度と現れた方角から推測して、おそらくサラだろう。先ほど通った謎の巨大物体を追い駆けているようだ。
「よし」
映像をそこで遮断する。サラが向かっていた方角はわかった。
後は追い駆けるだけだ。
モニタリング機能をオンにする。すると、視界の全てに温度、湿度、その他の人間の体調を図る上で重要な情報が現れる。
慎重や体系、そこから類推される体重と肌年齢や網膜。それらを総合して、おおよその年齢を割り出す。
男女どちらか。大人な子供か。
サラを見付け出す上で必要と思われる情報を取得しては、吐き捨てていく。
途中、何度か監視カメラの映像をハッキングして、サラの足取りを確認する。
やはり、あの巨大な何かを追い駆けているようだ。映像は相変わらず乱れているが、それでもおおよその向かった先くらいならわかる。
どこへ行くつもりなのだろう。
ひまわりが訝しんでいると、不意に映像の中の巨大な物体が跳躍した。
その跳躍力はすさまじく、生物のそれとは到底思えなかった。
生物でないとしたら、一体何なのだろう。
「そんな事よりサラを……」
焦りとともに呟く。
近隣の監視カメラは本来、怪しい物体や人物に対して自動で追尾するようになっている。
それは近隣の治安を守るためなのだが、今回はそのシステムが鬱陶しい。
サラの姿がカメラから消失してしまっていた。はやく戻ってくれないとサラを見失ってしまうかもしれない。
カメラはしばらく、巨大物体が跳躍していった方角へと向いていた。
どれくらいたっただろうか。元の角度に戻った時には、サラの姿はなかった。
「……ああ、もう」
ひまわりは立ち止まり、地団駄を踏む。これでは、サラを探す事ができない。
どうしたものだろうかと思案に暮れる。
とりあえず、最後のカメラに写っていた場所へ行ってみるべきだろうか。
数秒考えた後、ひまわりはそうする事にした。他に手がかりもない。
「サラ……無事でいてください」
ひまわりは祈るように、そう呟いた。
◇
「……ハッ」
リンダは半ば意識を失いかけていた。
乗り物酔い、というレベルをはるかに超える不快感が胸の内を焦がす。
挙動が荒い。とにかく荒い。
何だか、途中から周囲の自動運転車が軒並み止まっていたような気がする。
「……ここ、どこだろう?」
ゆっくりとあたりを見回す。視界がおかしかった気がするが、無視。
彼女の視界には、ただの古民家群が広がっている。
人の気配はなかった。まるで、打ち捨てられたかのように、林立している家屋。
なぜ、こんな場所に連れて来られたのだろうか?
そんな疑問が胸の内にとぐろを巻く。何の冗談だろう、これは。
「それとも……ここに彼が?」
リンダは眉間に皺を寄せ、訝しげに呟いた。
こんなところに、廃屋があるとは知らなかった。
以前の廃工場といい、過去の遺物が眠る場所というのは、案外多いのかもしれない。
リンダはきょろきょろと周囲を見回しながら、立ち枯れた民家群の中へと入っていく。
ゴーストタウン。そう呼んでも差し支えないくらい寂れていた。
「……確かに、ここなら誰かを監禁していてもお咎めはないかもしれない」
こんな寂れたところなら、きっと人は寄り付かない。であるならば、誘拐後の監禁場所としては最適と言えるだろう。
リンダ自身、今回のような事がなければ、きっと近寄りもしなかっただろう。
そんな事を考えていると、ふと視界を何かが横切った。
なんだ? とそちらへとカメラを向ける。
人影があった。浩一郎だろうか。
リンダは期待に胸を高鳴らせて、人影の方へと機体を向けた。
自力で逃げて来たのだろうか。それとも、何らかの助けがあった?
いずれにせよ、もし浩一郎ならこれで解決だ。後は街に戻るだけ。
誘拐犯に対して何らかの対処は必要だろうが、それでもこれまでの状況と比べると幾分も楽になる。
それに……とリンダは独り言ちる。
「もし、浩一郎が戻って来たら……」
もし、彼が戻って来たら、真っ先に言うべき事があった。
それは、彼女にとって一世一代の告白で、もしかすると浩一郎にとっては受け入れ難い事かもしれない。
それでも、言わなければならないと思う。また、彼が遠くへ行ってしまう前に。
そんな事を考えながら、人影の正体へと視線をやる。
と、リンダの期待とは全く違っていた。
そこにいたのは、一人の少年だった。年の頃は、サラと同じくらいだろうか。
みすぼらしい身なりをした、痩せぎすの少年。
荒れ放題の肌と目の下の隈。全身に打撲痕のようなものもあった。
「こんなところに……人が」
リンダは驚いて、息を飲んだ。
少年はリンダを見上げて、というより、彼女が乗る機械を見上げて、怯えたように全身を震わせている。
まるで、今から悪魔にでも食べられてしまうのではないか、と思っているかのようだった。
そこまで考えて、背後でカンッと何かが当たる音がした。
すぐに背面のカメラが起動する。音の正体は、石だ。
少年の母親らしき女性が、石を投げて来たのだ。それも、割合大き目の石だった。
けれども、そんな些細な抵抗が通用するはずもなく。
石はリンダに当たる事なく、装甲に阻まれ、カンッという音を立てて落ちていく。
「…………」
早くこの場を離れた方がいい。
リンダはそう思い、ペダルを右のペダルを踏み込んだ。
ガクンッと体が揺れる。ふと、先ほどの少年の姿が視界の端に映った。
やはり、怯えている。それも、相当な怯えようだった。
無理もないだろう、とリンダは独り言ちる。
それまで現れなかった、見た事もない巨大なロボット。
そんなものが現れたとしたら、それはもうパニックだ。
リンダの乗るロボットは、すぐさま跳躍する。その巨体からは想像できないほど、高く飛翔した。
ぐんぐんと、少年と母親が遠ざかっていく。
さすがに石を投げても当たらないと思ったのか、それとも別の理由か。
母親らしき女性は持っていた石を地面に放り投げ、少年の方へと駆け寄る。
バッと、その体を掻き抱く。その姿はまさしく美しい親子愛そのものだった。
こんな場所にも、きちんと愛し合う親子がいる。それがわかっただけでも、リンダにとっては喜ばしい事だ。
あの親子の(幸せかどうかは置いておいて)平穏を搔き乱してしまった事に関しては、謝罪しなければならないだろう。
いつか、なんらかの形で謝れたらいいな、とリンダは心の内でそう思った。
とはいえ、だ。今はそんな事にかかずらっている場合ではない。
一刻も早く浩一郎を見付け出さなくてはいけない。そのために、この妙なロボットを借りて来たのだ。
本当にこんな寂びれたような場所に、彼はいるのだろうか。あの老いぼれ老人の戯言にまんまとそそのかされただけなの打ではないだろうか。
リンダは段々とそんな気分になってきた。不安と焦りが胸の内を行ったり来たりする。
それでも、他に方法がない。彼を見付けるための方法が。
もしこれでだめだった場合は、すぐに警察に連絡しよう。大事にはしたくないというひまわりには悪いが、手に負えなくなったらそうするしかないだろう。
しかし、諦めるにはまだまだだ。もっとできる事があるはずだと、リンダは思う。
このロボットも、そのためのものだ。
リンダは更にペダルを踏み込む。そうすると、速度が増す。
徐々にスピードを上げていく。入り乱れた住宅街をまるでなんて事ないように疾駆する。
その姿に、結果はどうあれホフマンの技術力に驚嘆する。
彼は科学者として、そして技術者として一流だ。あの老人は頭のおかしなところもあるが、そういう部分は認めざるを得ないだろう。
しばらく、そうして走っていると、不意にロボットが立ち止まった。
「……何?」
リンダが眉間に皺を寄せる。と、ロボットの左腕の部分が変形した。
それは、明らかに掘削用のドリルを思わせる形状だった。
いや……しかし、まさか。
「それをどうするつもり……?」
リンダはまゆを潜めたまま、ロボットに向かって訊ねる。けれど、当然のようにその鉄隗は答えを返してはくれなかった。
掘削用ドリルと思われるそれを振り被り、そして地面に突き刺す。と、次の瞬間には先端のらせん状になっている部分が勢いよく周り始めた。
ギュルルルルルルッという機械音と、時折固い何かを砕く騒音が混じり合い、鼓膜の奥を震わせる。
思わず叫び出しそうなくらいのうるささの中で、リンダは必死に歯を喰いしばった。
このロボットがこんな行動を開始した。という事は、この下には彼がいる。
リンダはごくりと唾液を飲み下した。
やっと会える。やっと救える。やっとだ。
あの時の言葉。まるで愛の告白かと耳を疑うような事を言った。
返事はいらないと思っていた。それでも、こんな事になるくらいなら聞いておけばよかったと思った。
しかし、それも今日、今この瞬間でお終いだ。
浩一郎と再会する。そしてもう一度告白して、振られる。
その後、サラとひまわりの許へと彼を送り届ける。それで、自分の役割は終了だ。
その事が少しだけ寂しい気もした。
「まあ、それはそれとして、だけれど」
今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
リンダはドリルが少しずつ掘り進めていく様子を眺めながら、にっと笑んだ。
これで、全てが終わる。本当に、全てがだ。
どれくらい掘削作業を続けていただろう。突如として、穴の先に空間が広がる。
穴掘りが終わると、またしてもロボットの腕が変形した。
今度はカメラのようだ。細い棒状の先端にレンズが光っていた。
それを穴の中に差し入れ、中の様子を探る。コクピットのモニタに映し出される空間の様子に、リンダはほうっと吐息した。
そこは、まるで子供部屋のようだった。淡いピンクを基調とした、可愛らしい部屋。
まるで、小さな女の子のためにしつらえられたかのようなその部屋の様子に、リンダは首を傾げる。
こう言っては失礼だが、部屋の印象と外の現状が似つかわしくない。
もっと言えば、ミスマッチだった。まるで、何かから隠れるようにして、ここに作られた印象があった。
リンダはロボットから降り、慎重に穴の中へと体を滑り込ませる。
ゆっくりと滑り降りていく。それほど運動神経に自信があるわけではないが、それでも何とか部屋へと降り立つ。
やはり、思った通りだ。部屋の中は小さな少女のための空間といった印象だった。
「何……ここ?」
リンダは眉間の皺を深くすると、頭上を見上げた。
とりあえず、侵入には成功した。とはいえ、ここから浩一郎を探し出さなくてはならない。
浩一郎がどこに囚われているのか。それがわからなかった。
「……まあ、歩いていれば見付かる、かな?」
リンダは一人呟き、部屋の扉の前に立つ。
腰に下げたホルスターから、一丁の拳銃を取り出しながら、ドアノブに手をかけた。
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