第九章 攻勢。

 第九章 攻勢。

 

 革張りのソファ。シックなデザインの調度品。

 何よりリンダの目を釘付けにしたのは、その長大なカタナだった。

 日本刀……というものをリンダは生まれて初めて目にした。もちろん、メディアを覗けば、だが。

「……かけたまえ」

 ググッ……と胃の底に沈むような声だった。

 男はリンダに背を向けたまま、一言口にした。そして、その一言が全身の筋肉を硬直させる。

 ギシッ……と、全身がきしむような錯覚に囚われる。

 それでも、なんとか体を動かした。ゆっくりとソファに腰かける。

「……お飲み物です」

 と、リンダが座ったタイミングで、すぐさまに彼女の前にカップが置かれた。

 熱い珈琲だ。香しい香りが鼻腔を満たす。

 それでだろうか。幾分か全身が緩んだような気がした。

「……別段毒などは入っていないよ」

 男は振り返りもせず、そんなことを言う。

 けれども、リンダとしてもそのあたりは心配していなかった。というか、毒を入れる、という発想そのものがありえないものだ。

 ありえない……この期に及んでまだそんなことを言っているかと自分を殴りたくなってくる。

「……それで、私に一体何のご用が?」

「ふむ……では早速本題に入ろう」

 男はそこでようやく振り返った。

 深く皺の刻まれた相貌は頬がこけ、落ち窪んだ眼窩に収められた二つの瞳はどこまでも暗い。見覚えのあるその佇まいに、リンダはごくりと唾液を飲み下す。

 ハウゼン・ドーン・ボフマン。

 全米科学研究協会のドン。最高責任者でもあり、自身も多くの科学的な栄光を持つまさしく重鎮と呼ばれる人物。

 最近は研究室よりも執務室にいることが多く。若者に後進を譲ったのだと聞いていた。

 実際に会うのは初めてだが、その姿は多数のメディアや科学雑誌で幾度も目にした。

 ハウゼン教授はリンダの対面に腰を下ろすと、ゆっくりと視線を動かしていく。

 まるで、リンダの心の中を見透かそうとでもするかのように。

「先刻、私のところにとある報告が上がって来たんだ」

「……とある報告、ですか」

「ああ。何でも、君のところのメカニックが一人かどわかされたのだとか」

「……それは」

 ひゅっと、リンダは喉の奥が干上がるのを感じた。

「どうして警察機構に連絡をしなかったのだね?」

「どうして……と申されましても」

 それは彼の伴侶――ひまわりがそれを拒否したからだ。

 などとは、到底言えるはずがなかった。普通なら、通報するような案件だからだ。

 だというのに、それをしなかった。ということは、そこには何か事情がある。

 そう考えるのが自然だろう。それがどんな事情かはわからないが。

「いや何、これでも私も科学者の端くれ。気になるものでね」

 ハウゼン教授はリンダから視線を外し、彼女の前にある珈琲に向けた。

 はっとした。毒はないと言っていたが、まさか自白剤の類いを入れているのだろうか。

 相手は曲がりなりにも科学者。倫理感のねじ曲がった狸だということを忘れるな。

 教授は珈琲に視線を落としたまま、じっとしていた。

 まるで、リンダの次の言葉を待っているかのように。

 はあ、と吐息する。何と言っていいものかわからなかった。

 が、このままだんまりというわけにもいかないだろう。何せ相手はあのハウゼンだ。

「先日、私の研究所で一人……浩一郎という日本人のメカニックが」

「ほう……日本人か」

 ハウゼンが飾られていた日本刀に視線を移した。

「……確かに、すぐさま警察に連絡するべきことでした」

「ああ、もちろんその通りだ。我々は犯罪に対処するプロではない」

「ええ。深く反省しています」

「それはいいんだ。反省しているのなら」

 ハウゼンが日本刀からリンダへと視線を戻す。

 吸い込まれそうなほど深く穿たれたその漆黒。その両の眼には、確かにリンダの姿があった。……その姿は、いささか以上に怯えたように見える。

「何も、私は君を責めてようというわけではない。同僚が危険な目に遭っているとわかれば、気が動転したり急いてしまったりするのは本来なら自然なことだ」

「……ええ」

「……さてと、そろそろ教えて欲しいのだけれど」

 ハウゼン教授は抑揚の乏しい、極めて平坦な口調で切り出した。

「君が一緒にいたご婦人。――あれは一体何かな?」

 その声は、まるで合成音声のようだ。人間味に欠ける、機械のようだと思った。

 恐怖が胃の底からせり上がってくる。今にも吐き出しそうだ。

 そう言えば、夕方から何も口にしていないことを思い出す。睡眠も。

 だというのに、食欲はなくストレスによってだろう。睡魔もない。

 ただただ、恐怖に苛まれている。それだけだ。

「……どうしたのかね?」

 カタカタと震えているリンダを不思議に思ったのだろう。ハウゼンは彼女の顔を覗き込む。大きく見開いた両の瞳が、何かの圧搾機械のようにリンダの胸元を締め上げる。

「息が荒い。過呼吸気味だね」

 たらりと額から汗が流れ落ちる。

「どうしたんだい? なぜそんなに震えている?」

「震えて……? 私が?」

 リンダは自分を指し示す。首を真横に傾けた。

 そんな自覚はなかった。ただ、全身を寒気が走った気がしただけだ。

「大丈夫、です。……私のことはお気にならさず」

「そうかい? なら、そうさせてもらおう」

 ハウゼン教授は一つ頷くと、リンダから視線を切る。

 どこを見るでもなく、ただ虚空を見詰めていた。

「かどわかされたという君のところの日本人。彼を救出しなくてはいけないね」

「え、ええ……まあそうですね」

「ああ。そしてそれは秘密裏に行わなければならない」

「秘密裏……ええと、それは一体どういう?」

 てっきり、警察機関に相談する、という流れになるのだと思っていた。しかし、ハウゼンの口から、通報という言葉が出てくることなかった。

 代わりに出てきたのは、先ほどの一言だ。

 秘密裏に救出。……なぜ?

「君たちはことを荒立てたくはないのだろう? まあ大方の予想はつく」

「予想? ええと、教授は一体何を仰っているのですか?」

「……何、簡単な仮説だよ」

 仮説……と、リンダはハウゼンの言葉を繰り返した。

 この老人の言っていることがわからなかった。どういうことだ? 仮説を立てる余地が一体どこにあるというのだ?

 事態は既に起こり、次々に進行している。だというのに、ここにきて一体どんな仮説が成り立つと言うのだろう?

 リンダは眉間に皺を寄せる。ハウゼンの言葉を頭の中で反芻する。

「何、それほど難しい要件ではないよ。君たちはこのことを警察に知らせなかったというただ一点のみから編み上げた脆いものだ」

 ハウゼンは立ち上がり、珈琲サーバーへと歩んでいく。

 機械を操作し、湯気の立つ珈琲を淹れて戻ってくる。一口飲んでから、それを目の前のテーブルに置いた。

 コトリと音が響く。思わず、ビクッとリンダの肩が震えた。

「君たちは今度のいわば誘拐事件……この言葉を使うのはずいぶんと久しぶりだ。別段感慨もないが――が起こったにも関わらず、それを誰にも知らせずに自分たちだけで解決しようとした。当然、そこには何らかの理由があると考えるべきだよね」

「え、ええ……それはそうです」

 科学者なら当たり前の思考過程だ。

 不可解な現象があったなら、その裏には必ず原因がある。そこを考え、仮説を立て、立証していくのが科学者である。

 だとしたら、自分は一体……いや、今は考えまい。

 とにかく、ハウゼン教授の話を聞こう。

「その理由とは何か? 君の方には当然そんなものはない。それは君のこれまでの働きによってある程度証明されている」

「…………」

「であるならば、もう一人。君とともに捜査をしていた人物」

 ひまわり。日本人の名を冠しながら、日本人とは思えない容貌の女性。

「彼女の方に何らかの原因がある、と考えるのが妥当だ」

「あの……ところで教授」

 リンダはそこで、言葉を差し挟んだ。怒られるかも、と思ったが、意外にもハウゼンは優雅な所作で彼女の次の言葉を促した。

「なぜ、教授はそんなことをご存知なのですか?」

「何を言っているんだい? そんなものは街中の監視カメラやドローンなんかの映像を見たに決まっているだろう?」

 ごくごく当たり前のことを言うように、教授は言い放つ。

 そこに関しては、リンダは予想していた。街中に張り巡らされた監視網。それらの資格を縫って行動することは容易ではない。

 いや、不可能と言ってもいいかも知れない。

「では、浩一郎……誘拐された日本人の行方もご存知なのですか?」

「いやはや、敵もずいぶんと強かでね。実はわからないんだ」

 ハウゼンがやれやれといった様子で首を振る。

 わからない? どういうことだ? 米国最高峰緒の科学的頭脳の持ち主であるハウゼン・ドーン・ホフマンともあろう人物が?

 それとも、事件捜査は門外漢だとでもいうつもりだろうか。

「まあわからないものは後回しだね。とはいえ、いつまでも放っておくわけにもいかない」

 ハウゼンは更に一口、珈琲を啜る。

「……君の一緒にいた彼女。あれは人間ではないね」

「なっ……!」

 リンダは思わずハウゼンを睨み据えた。

 突然何を言い出すのだろう、このご老体は。年を取り過ぎて目の中が腐ったのだろうか。それとも実験の後遺症が残っているのか。

「君、今失礼なことを考えているだろう」

「……いえ、そんなことはありません」

「まあいいさ。ただの仮説だ。そして今はそのことは一旦脇に置いておこう」

 教授はソファに深々と腰を落とし、ふうーっと息を吐いた。

「重要なことは日本人の彼をいかにして救出するかということだ」

「それは……やはり日本との関係性を鑑みて……ですか?」

「それももちろんある。だが、それだけではないよ」

 ハウゼンはむっつりと口許を引き結び、気難しげに眉間に皺を刻む。

「彼は科学界……とりわけロボット工学の世界で必要であり不可欠な存在だ」

 うっすらと開けた瞳から、哀愁が漂う。

 その表情からは、何か言葉以上の意味合いが含まれているような気がした。

 ともかく、それが何かはわからないが、つまりはハウゼンも浩一郎を救出するつもりがある、ということのようだ。

 後は、警察機関にどうやって連絡させないようにするかだ。

 と、リンダが頭を捻っていると、ハウゼンの方から意外な提案があった。

「私としても、ことを荒立てるのはあまり乗り気ではない。できることなら内々に処理したいと思ってはいる。何せ、これで科学というものに対して不信感を持たれることhが避けたいからね」

 現状、世界はおおまかに言って二つの勢力に分類される。

 一つはハウゼン教授や世界的な権威を頂点とする科学の徒による勢力。

 これには浩一郎やリンダも当然含まれる。そして問題なのがもう一つの勢力。

 それが、〈印象的超自然主義派〉と呼ばれる人々だ。

 彼らの主張は地球環境の保全と、科学文明の衰退である。これ以上、地球を科学的な、あるいは工業的な汚染で汚すことを排するべく活動する。

 この二大勢力は世界のあちこちで小競り合いを続けていたが、それはまた別の話である。

 ともかくも、問題は浩一郎という一技術者を救出する手段である。

 それを確立できなければ、それ以降の科学の、とりわけ工学の歴史は地帯を余儀なくされるだろう。

 と言えば、浩一郎という人間がさも偉大であるかのようでる。

 が、過去を振り返ってみると、近現代の科学における個人の技術、才能の有用性は微々たるものであり、どちらかと言えばたった一人のためにここまでの人物が動くというのは稀なことのように思われる。

 とりわけ、ハウゼンという男と浩一郎という日本人の間にはあまり接点がない。

 おそらく、浩一郎はハウゼンという科学のドンの存在を知らないだろうし、またこの老体にしても浩一郎のことは小耳に挟んだ程度だと思われる。

 にも関わらず、どうしてそれほど肩入れするのか。

「あの……なぜこんなに彼のことを気にかけるのですか?」

「ふむ……私が一科学の徒を救おうとすることは不思議かね?」

「えっと、こう言っては失礼ですが、あなたはあまり人命を重んじる人だとは思っていなかったものですから」

「はは、それはまた、ずいぶんな言われようだ」

 ハウゼンは思わずと言ったように肩を揺らす。

 けれども、リンダのこの言葉は的を射ている。

 ハウゼン・ドーン・ホフマンという男はその昔、科学者としては大変優秀だったと言わざるを得ないだろう。

 数々の科学的な功績を残し、けれどもそれには飽き足らず知的好奇心の赴くまま実験を繰り返す日々。

 もちろん、その多くは失敗の連続だった。そしてその中には命を軽視する行動も多々見られたものだ。

 その中には当然、本人の命も含まれている。ハウゼン自身が、過去に幾度も死の淵に立たされるような失敗を繰り返している。

 今や、この老体の半分以上は人口の代替物に置き換わっていると言ってもいいだろう。

 そんな人物が、なぜ浩一郎という小耳に挟んだだけの小僧のために腰を上げようと言うのか。それがリンダにはわからなかった

「……まあそれに関してはこちらにも事情があるからね」

 ハウゼンの眼光が鋭さを増す。その目は、それ以上は何も訊くなと語っていた。

 無論、リンダにはそれ以上のことは訊けなかった。ここは、引き下がるしかないだろう。

「ま、私も何だかんだと年を取ったのだと思ってくれればそれでいい」

 ハウゼンの妙に優しい声が、リンダの背筋を寒くする。

 とはいえ、これでかなり心強い味方が手に入ったということだった。

 

 

                 ◇


 

 一方その頃、浩一郎はどこぞとも知れない施設にいた。

 ぐるりと四方を見回してみる。何が起こったのか、把握するのに時間がかかった。

「……ここは」

 かすれた声が空しく反響する。だが、その声に応える者はない。

 そこがどこだかもわからない。ただ一つ、辛うじて理解できたことと言えば、手足を拘束されている、ということだ。

 なぜ……とぼんやりとした頭で考える。思い出せることは、それほど多くない。

 一つには、謎の男に誘拐されたこと。それによって、浩一郎自身の身はもちろんのこと、彼の友人や知人。更には娘のサラにまで気概が及ぼうとしていること。

 そうしてもう一つは、その謎の男が浩一郎の開発したアンドロイド。すなわちひまわりの存在を知り、それを狙っているということ。

 なぜ、彼はひまわりのことを知っていたのか。そして、それによって一体何を成し遂げたいと願っているのか。浩一郎にははなはだ疑問だった。

 更にもう一つの疑問が、どこからひまわりのことを聞きつけたのか、ということだ。

 これは、この状況に陥ってからずっと不思議だった。ひまわりのことは、浩一郎とサラ意外には誰にも知られていないはずだ。喋った人間と言えばそれだけである。

 にも関わらず、謎の男は浩一郎を誘拐するという手間を押してまで、ひまわりのことを知りたい様子だった。

 それはなぜ? どうして? 疑問はここまでずっとあったが、答えはでなかった。

 わかっていることと言えば、彼の主目的。つまりは世界の変革を行うということ。

 その果てに、人類の約半数を死滅させようという恐ろしい計画だ。

 これは、絶対に阻止しなくてはならない。なぜなら、その半数の人類の中には、浩一郎の愛する人の忘れ形見であるサラもいる。

「くっ……そっ」

 がちゃがちゃと手足を動かす。が、拘束は外れそうにない。

 どうしすれば……と必死で頭脳を働かせる。けれども浩一郎はあくまで技術者であり、こういう場合に役立つ知恵も知識も持ち合わせてはいなかった。

「お目覚めですか」

 そうして必死になっていると、どこからともなくそんな声が聞こえてくる。

 バッと顔を上げる。と、そこにはもはや見慣れた顔があった。

 そう、件の謎の男。浩一郎をこんな場所に監禁している男だった。

「いや、手荒な真似をして申し訳ない。けれども、これも仕方のないことなのですよ」

 男は口元を弓なりし、笑みの形を作る。が、その表情は一ミリも笑っていなかった。

 コツコツと足音を響かせ、近づいてくる。浩一郎の側に膝を折り、顔を覗き込んできた。

「さてと、我々に協力いただく気になりましたか?」

「……まさか。そんなはずはない」

「ええ、ええ。そうでしょうとも。そうでなくてはだめだ」

 男はフッと笑みを消す。スッと立ち上がり、大きく伸びをした。

「今更協力します、と言われても僕らとしても困ってしまいますからね」

「だ、だったらなぜそんなことを訊くんだ!」

「大きな声を出さないでください。大した理由はありませんよ。ただの確認です」

 言いながら、男はくるりと身を翻した。

 それから、背後にある物をトントンと指先で叩く。

「これ、何だかわかりますか?」

「? ……それは一体……」

 浩一郎は目を細め、男の傍らにあるそれを見つめる。けれど、その正体は掴めなかった。

「これはですね。いわゆる脳内のスキャナーですよ」

「……それで?」

「鈍いのかそれともわざとなのか」

 もちろん、おおよその見当はついている。つまりはそれで浩一郎の脳内をスキャンし、自自分たちの望む知識なりを解析しようというのだろう。

 理論上、不可能ではないらしい。既に何度か実験が行われたという。

 けれど、その解析結果は荒々しく、実用に足る代物ではないと聞いている。

 そんな不完全な物を使おうというのだろうか。この男は。

「くく……その顔は疑っていますね? まあ無理もない」

 男は今度は邪悪な笑みを浮かべ、肩を揺らした。

 なぜそのような顔ができるのだろう? 不思議だった。

 仮に望みのデータ(この場合はひまわりの情報)を引き出せたとして、それが解析不可能なほど不鮮明なものの可能性の方が大きい。

 それほどに、遅々として進まない技術だ。

「そんな物が……役に立つと本当に思っているのか?」

「なるほど……あなたの危惧はわかりますよ。でも、そんなことはどうだっていいことです」

「何を……?」

「失敗したところで、問題はないからですよ。ただ振り出しに戻るだけだ」

 なるほど、そういう考え方もあるだろう。

 彼らとしては、浩一郎がひまわりのことを喋ってくれる方が楽だ。けれどもここまで、浩一郎はひまわりに関することを漏らしてはいない。

 だからこそ、最終手段としてあんな大袈裟な機器を持ち出してきたのだろう。

「……ちなみに、この実験で脳内のニューロンの結合がでたらめになって人格が破壊された例もあるそうです。とはいえ、限りなくゼロに近い低確率でしか起こらないみたいですけれどね」

 男がさらりと言った言葉。それは、浩一郎の心臓をどくんと跳ね上がらせるには十分だった。

「その他記憶障害や認知障害、色覚生涯や味覚障害などなど、様々な障害が確認されたとか。それも生活に支障のない程度ですが。ですので大丈夫」

「いや、それは大丈夫ではないと思うが……」

「これはおよそ三年前のデータです。今はその確率もぐんと下がっていますから」

 男が機器を持って近づいてくる。浩一郎は後ずさりしようとするが、拘束されているため身動きが取れない。

 男が電極を張りつけていく。その間にも、浩一郎の背後を冷や汗がしたたり落ちる。

「確率が下がってるって……それってゼロではないということでは……!」

「まあ僕は痛くもかゆくもないので大丈夫です」

「だいじょうぶじゃ……! くそ、止めろ!」

 浩一郎は身を捩り、逃れようとする。が、がちゃがちゃと拘束具が音を立てるだけで、男の手から逃れることはできない。

 そして、あっという間にセットが完了してしまう。両腕の拘束さえなければ、と無意味なことを考えてしまう。

「さてと、それでは」

 男は舌なめずりをしそうなほど笑みを濃くする。

 それほどまでに、この事態を望んでいたのだろうか。浩一郎の頭の中を覗く、この瞬間を。

「ではいきますよ。オン」

 カチッと何かが押される音がする。

 と、思った次の瞬間、浩一郎の頭の中を妙な感覚が走り抜けた。

 その間、コンマ数秒にも満たないだろう。それだけの刹那で脳内のスキャンが完了してしまう。

 本来なら、脳の疾患を見つけ出すために開発されたそれは、ちょっと機器の内部をいじってやるだけで相手の考えを読み取れる嘘発見器の上位互換へと早変わりしてしまう。

 ぐわん、と不快な感覚が脳内をくまなくのたうつ。おそらく、まともな状態だったならここまでの不快感はなかっただろう。

 しかし、これは改造品だ。元の用途とは離れた改良を施され、開発者の意図しない使い方をされているのだから、ここまでおかしな感覚になってしまっているのだろうか。

 浩一郎は込み上げてくる嘔吐感を何とか抑えながら、そんなことを考える。

 しかし、そんな悪足掻きも長くは続かなかった。

 一分も経っただろうか。胃の底から、身に覚えのある酸味がせり上がってくる。

 次の瞬間には、口内からそれが、思い切り吐き出される。げえげえと息を荒げながら遺産をぶちまけてしまう。

 その様子を、男は不快感を隠そうともせず眺めていた。

 胃の中は空っぽだった。それが唯一の救いだ。

 そうでなければ、きっと消化されていない食物がまだ原型を留めていただろう。

「……ちく、しょ」

 浩一郎は肩で息をしつつ、男を睨む。が、男はただ彼を見ていただけだった。

 やはりその瞳には、何の感情も読み取れない。

「……これはずいぶんと派手にやってくれましたね」

 男は床に広がった浩一郎の胃液から目を逸らしつつ、そう呟いた。

 はあ、と溜息を吐く。一体誰のせいだと思っているか。

「まあいいでしょう。データは取れましたから。後はこれを解析するだけです」

 男が背後から浩一郎へと近づく。電極を外し、くるくるとまとめる。

 それをもって、機械とともに部屋を辞した。最後に一言もなく。

 あったところで困ってしまう。何せ、今の浩一郎はまともに会話をするだけの体力もないのだから。

「あっ……ぐあ」

 ぐらんぐらん、と視界が歪む。何をどうしたらいいのかわからなかった。

 どうやったら立ち上がれるのか、そもそも自分は何者なのか。

 自己のアイデンティティを喪失したような気分に陥り、浩一郎は倒れ込む。

 倒れ込んだ先が、自分の胃液でなかったことが唯一の救いだろうか。

 

 

                 ◇

 

 

「そろそろ十時くらいか」

 トムの言葉に、サラは思わず時計を探した。が、見つかったのは古い壁掛け時計だった。

 もちろん動いているはずもなく、そこから正確な時刻は読み取れない。

「……どうしてわかるの?」

「ん? そりゃあ長年こんな薄汚いところにいたら、嫌でもわかるようになるさ」

「ふーん? そんなものなんだ」

「ああ、そんなものさ」

 トムは軽い調子で相槌を打った。

とは言ってものの、現在時刻がわかったところで彼にはどうでもいいことだった。

 問題はこの小さな少女をどうやって連れ出すかだ。

 サラの抱えている事情について、トムは訊ねるつもりはなかった。そんなことをしたところで、小数点以下の貢献もできそうにないからだ。

 言ってしまえば彼はただのホームレスであり、サラは普通の住人だ。

 本当なら、サラがこの場にいるのはおかしいことだとすぐにわかる。それでもサラがここにいるのには、何かしらの事情があるに違いなかった。

 重ねて言うが、トムにはその事情を訊ねるつもりは毛頭ない。

 ただでさえ日々生きるのに必死なのだ。サラの事情に首を突っ込んでいる余裕などあろうはずもなかった。

 だから、出口まで送っていっておしまいだ。それで、このことは奇麗さっぱり忘れよう。

 それが、トムの考えだった。

 トムはちらりとサラを見やる。

 まだ年端もいかない少女。年の頃は自分の娘と同じかやや下かといった頃合い。

 そう言えば、あいつは元気だろうか。もう何年も会ってねえなあと心の中で呟いた。

「……何か言った?」

「え? ああ、いや……何も言ってねえよ」

 トムが生え放題の髭をしごきながら、視線を逸らす。ふーん? とサラはそれ以上何も言わなかった。

 その後、沈黙が舞い降りる。かなり気まずい。

 ちらりとサラを見やる。さらさらと流れる髪が朝日を浴びて輝いていた。

 もう十年前ほど前のことになる。トムがそれまで一緒だった妻と、そして娘と離れ離れになったのは。

 理由は、言わずもがな。テクノロジーの発達によって人間の労働者が大量に解雇されたことだ。

 当然、トムもそのあおりを受けた。

 クビになってすぐに次の仕事を探したが見つからず、ならばと始めた人生初の事業は失敗。かろうじて借金こそしなかったものの、とても生活していけるものではなかった。

 結果として、妻子と別れることになった。愛し合っていたとしても、やはり金がなければ話にならない。

 そして金は、金を持っている人間のところにより多く集まる。

 トムのような落ち目の人間へは、それこそ一セントも入ってはこない。

 今、二人はどうしているだろうか。元気でいるだろうか。

 トムはサラを見つめながら、遠くにいるはずの元妻と娘のことを想起していた。

 無事に元気でいるのならば、今頃はサラと同じ年齢のはずだ。どんな子に育っただろう。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと足音が聞こえてきた。

「待て」

「? どうしたの、トム?」

「何か……来る」

 トムはすぐさま周囲を見回した。とはいえ、こんな場所だ。身を隠す場所には困らない。

 ともかく、警戒を怠るわけにはいかなかった。

 トムはじっと耳を澄ませた。先ほどのように、音が聞こえることを期待して。

「トム?」

「しっ。何かいる」

「何かって……」

 こんな場所だ。住処を追われた野生動物が根城にしていても不自然ではない。

 何十年も前から環境保全については叫ばれてきた。そして世界規模でそれを達成しようと躍起になっている。

 しかし、人が今の生活を捨てない限り、汚染を遅らせることは出来ても改善はしないだろう。そういうものだ。

 何がいる? 猛獣じゃなければいいが。うさぎのような小動物ならトムでも追い払える。

「……聞こえた」

 また、足音だ。それも二足歩行している。

 確証があるわけではないが、このリズムは……人間か?

 トムはじっとりと視線を這わせた。いつどこから飛び出してもいいように身構える。

 ――と、物陰から何かが飛び出してきた。その何かが横合いからトムを突き飛ばす。

 反応が間に合わず、トムは地面に倒れ伏した。後頭部を強かに強打する。

 強烈な痛みが走った。が、意識を失ったり、ということはなかった。

 すぐに体勢を立て直そうと力一杯手足を振る。が、そいつは離れなかった。

「何……が」

 一体、何があったんだ、と思考を巡らせる。

 強烈な力だった。まるで人間ではないかのようだ。熊か何かか?

 いいや、熊などこの一帯には住んでいないはずだ。それに、毛むくじゃらでもない。

 そして、柔らかな感触。衣服をまとっているのか、そこからいい香りが漂う。

「……ひまわり!」

 サラの声が響く。知り合いのようだ。何がなんだか。

「くっ……この!」

 ともかく、そいつの下から這い出そうとトムが身を捩る。と、それまでトムを組み伏せていたそいつの力が緩んだ。

 なぜ? と疑問に思いつつ、そいつの下から這い出る。すると、目の前にいたのは人間だった。

 紛れもない、人間だった。

 隣には、サラが立っていた。やはり知り合いのようようだ。

「……あ、んたは一体……誰だ?」

「……あなたこそ、どなたですか? なぜサラと一緒にいたのですか?」

 研ぎ澄まされた眼光は鋭く、警戒の色を濃く表していた。

 怪しい薄汚いホームレスから堅守しようと、ひまわりと呼ばれた女性が身構える。本当に人間なのか? とついさっき襲撃を受けた腹部を擦りながら眉間に皺を寄せた。

 ともかく、ここでやりあうのは得策ではない。長いこと激しい運動なんてしていないのだから。ここは大人しく引き下がるべきか。

 そんなことを考えていると、ひまわりの服の裾をサラが引っ張る。

 ひまわりはホームレスへの警戒を怠らないまま、サラの方へと一瞬だけ視線をやった。

「どうしました、サラ」

「あの人は悪い人じゃないよ」

「いえ。小さな子供に手を出そうという不埒な輩です」

 眼光鋭くトムを睨み据えた状態で、ひまわりはサラに言葉を返す。

 というか、聞き捨てならない一言を聞いたような気がした。サラに手を出す?

「待て待て、あんたは何か勘違いをしている!」

 トムは慌てて両手を振り、弁明する。

「別に俺はあんたの娘に手を出そうとしていたわけじゃねえ。ただ迷子になっていたから出口まで連れて行ってやろうとだな……」

「変態はみなさんそうおっしゃいます」

「おっしゃらねえよ! というかあんたこそなんなんだ! 本当に人間か?」

「…………お答えする義務はありません」

「話を聞いて」

 ぐいっと、今度は力一杯、サラはひまわりの手を引っ張る。

「トムの言うことは本当のことだから、だからトムを責めないで」

「サラ……ああ、サラの言う通りだ。俺は無実だ。変態でもねえ」

「…………」

 不承不承、と言った様子で、ひまわりは臨戦態勢を解く。

 どちらにしろ、ひまわりに戦闘能力などなかったのだが、それはそれだ。

 ハッタリの一つも噛まさなければいけないという判断だったのだが。サラがそこまで言うのなら、とりあえずは信用してもよさそう……だろうか?

「あなたは一体……」

「やっと話を聞いてくれる気になったか……俺はトムだ」

「トムはね、ここに住んでるんだって」

「住んで……ええ、まあ大体そんな気はしていました」

「ほっとけ」

 ひらひらとトムが手を振る。

「しかし、もう一度訊くがあんたは本当に人間か?」

 ビクッとひまわりの隣でサラが体を固くする。

 もし、ひまわりの正体が知られたらどうなってしまうのか、それを心配しているのだろう。

「ええ。私は正真正銘、人間です」

「ああ……まあそうだよな」

 ひまわりの返答に納得した様子ではなかったものの、トムはそれ以上詮索はしなかった。

 一つには、これ以上の厄介事はごめんだと思ったのだろうか。ここまで送って来た以上、今更という気もしないではないが。

 どちらにせよ、ひまわりと合流した以上トムとはここでお別れだ。

「……じゃあな。俺はこれで」

 くるりとトムが身を翻す。おそらく、彼はずっと、ここにいるつもりなのだろう。

 それこそ、死する時まで。永劫に。

 そう思うと、サラはきゅっと胸の奥が引き絞られるような感覚になった。

 テクノロジーの発展。そのお陰で楽しく生きている人がいる。

 その反面、トムのように暗い背景を背負っている人もいる。

「ねえ……あの、ひまわり」

「どうしました、サラ?」

「……トムって、あの……」

 うまく言葉が出てこなかった。

 トムも一緒に帰れないか。そう問いたかったのだが、それはいけないことのように思えて。

「……ううん、何でもない」

「そうですか。ところでサラ」

「何?」

「なぜ、ここにいるのですか?」

「ふえ? ああ、えーと……」

 ひまわりに問われ、言葉に詰まるサラだった。

 

 

                ◇

 

 

 科学の発展が争いを生むのか、争いが科学を次のステージへと進めるのか。

 どちらかはわからない。どちらにせよ、その本質は変わらないのだろう。

 ニワトリが先か卵が先か、ということだ。

 歴史上、新たなテクノロジーや科学的な発見は、その大部分が戦争の産物である。

 戦争の必要上、より広範囲に、より効率的に敵を抹殺するために科学はあった。

 けれど、現代に至っては、それは大きな間違いだ。現在の科学は人を殺害するためのものではない。

 いや、元々科学とは誰かを殺すためのものではない。

 あるいは生活を豊かに。あるいはもっと幸福に。あるいはもっと効率的に。

 そんな、実生活上の必要と人々の願いが科学を前へと押し進めてきた。

 なら、今目の前で行われてることは一体何なのか。浩一郎は眼球を動かして、その様子をじっと観察する。

 見たことのないグラフと計測数値。

 おそらく、その手の分野に明るい学者なら理解可能なのだろう。畑違いなことが、ここでは裏目に出ていた。

 いいや、もしかしたら、幸運だったのかもしれない。

 これを理解できてしまっていたら、きっと頭の中がおかしくなっていただろうから。

「……何をしているんだ、これは」

「あなたの頭の中を覗いているんですよ」

 どこからか声がする。聞き覚えが……あるような気がする。

 何を言っているんだ? 頭の中? わけがわからない。

 頭痛がする。脳内がぐわんぐわんと揺れているようだ。視界が揺れる。

 計器類の発する光や電磁波のようなものが悪影響を及ぼしているのだろうか。

 浩一郎は小さく息を吐いて、そんなことを思う。

 だとしたら、どうしようもない。今は指先一本動かすのだって億劫だ。

 この妙な感覚はいつまで続くのだろうか。

「大丈夫。もうすぐ終わりますよ」

「……あ?」

 何を……何が終わるって?

 浩一郎は朦朧とする意識の中で、必死に眼球を動かす。

 しかし、相変わらず見えるのは得体の知れない機械と数値だけ。ここから、一体どんなことが起こるのか全く想像がつかなかった。

 一つには、頭がうまく働かない、ということがあるかもしれないが。

「……よし、これでお終いです。お疲れさまでした」

 男が機器を操作する手を止めた。浩一郎の方へと歩み寄ってくる。

 彼の額に取りつけられた電極。それを一枚一枚剥がしていく。その作業の間も、浩一郎の意識は現実ではないどこかを彷徨っていた。

 それでも先ほどまであった気怠さが薄らぎ、多少はまともに脳が働くようになった。

 考える。ここはどこか。

 自分は何者か。何をすべきか。

「さて、僕はこれを解析しなくてはいけません。世の中いくら便利になろうと、まだまだ進化する余地がありますね」

 男は楽しげにそう言うと、機器を乗せた台車とともに部屋を出て行く。

 部屋……? そう言えば、自分が今倒れている場所はどんな場所なのだろう?

 男が部屋から出て行った。そのことを確認するために頭を持ち上げる。

 それだけの行為が、ひどく疲れた。何なんだ、これは。

「……行ったか」

 足音が遠ざかって行った方へと視線をやり、浩一郎は呟いた。

 あの男がいなくなったことを確認すると、ぐぐっと全身に力を込め、立ち上がる。

 頭の中がぐわんと揺れた。足下が歪んでよろりとする。

 それを何とか耐え、頭痛と招待不明の酩酊感が消えるのを待つ。

 胃の底がむかむかする。なんだ? 何か薬でも盛られたのだろうか。

「……そういえば、あんな機器を使うんだ。当然何かしらの薬品を……」

 使うだろう。一体何を服用させられたのか、そのあたりはわからなかった。

 でも、どちらにしても死んでいないのなら、それでいい。今は。

 大事なのは、ここからどうやって脱出するかだ。

 ぐるりと部屋の中を見回す。と、割合普通の部屋だった。

 ここに来るまでに連れ込まれたどの部屋とも違う。高級感もなければただの廃材置き場のような場所でもない。ちゃんとした生活感があった。

「誰かの……家?」

 しかし、一体誰の?

 まだ、頭が働いていないようだ。浩一郎は小さく首を振る。

 ぼうっとする視界の中で、何とか手がかりを探そうとした。

 すると、隣の部屋へと続く扉がある。あの先には一体何があるというのか。

 行ってみるべきか、否か。どちらにしろ、よくないことが起こりそうな気配がした。

 けれど、ここは行ってみるべきだ。そうしなければ、事態は変わらない。

 そう決心し、浩一郎はふらつく両足を懸命に動かし、その扉へと向かう。

 ほどなく、扉の前に立った。どくんと心臓が鳴るのは、この状況のせいだろうか。それとも、先ほどの妙な機器から発された謎の電磁波のせいだろうか。

 ドアノブを回す。ギィ……と蝶番の擦れる音がする。

 長らく開けられていなかったのだろうか。扉は開けにくかった。

「……これは」

 苦労して開けた扉の向こうには、当然だがまた部屋があった。

 それも、女の子の部屋だ。直観的にそう思った。

 全体的に薄いピンク色の壁。ベッドも似たような色合いで統一されていて、どこか幼い子供の雰囲気を感じさせる。

 何より、浩一郎が気になったのはラーニングデスクと思われる場所に立てかけられていた写真。

 そこには、三人の人物が映っていた。

「……あの男の……家族か?」

 浩一郎は顔をしかめながら、その写真を手に取る。

 じっと、そこに写っている三人の顔を見つめた。

 一人は、男だった。おそらく数年前に取った写真なのだろう。髪型や雰囲気はまるで違うが、それでもどことなく浩一郎を浚ったあの男の雰囲気があった。

 もう一人は、彼の母親なのだろうか。女性が映っている。

 長い、艶やかな髪に白い肌。二人の子供を産み育んでいたとは思えないほど美しい女だ。

 そして最後に、二人と手を繋いで笑っている女の子。

 年の頃は……おそらくサラと同じくらいか一、二歳ほど年下。

 この写真がいつ頃撮られたものかはわからなかったが、そんなことはどうだってよかった。問題はこの二人。

 家族……だと思われる。まさか、アカの他人とこんな写真は撮らないだろう。

「……家族がいるのに、どうしてこんなことを」

「ふふ、だめじゃないですか、勝手にこんなところに入っちゃ」

 背後からの突然の声。浩一郎は慌てて振り返る。

 その際、持っていた写真立てを取り落としてしまった。朗らかに映る三人の親子の写真が床の上を滑る。同時に、足がもつれてしまい、尻餅を突いてしまった。

「……なぜ」

「なぜ? そのことについてはお話したはずです。世界を変えるためだと。世界から貧困、飢餓に苦しむ人をを救い、貧富の格差をなくすためだと」

「ち、がう……」

 舌の上を、うまく言葉が転がらない。

 こいつの目的は何か別のところにある。直感がそう告げていた。

「お、おまえ……は」

 ぐらりと体が傾いた。頭部を床に打ち付け、倒れ込む。

 そんな浩一郎の姿を眺めながら、男は小さく笑んだ。

 いや、笑っているのかすら定かではない。一体、何を考えていると言うのだろうか。

 目的は、なんだ? 浩一郎の頭の中を、同じ問いがぐるぐると回り続ける。

「後一時間ほどで解析結果が出ます。僕の考えが正しければきっと望む答えが得られるでしょう」

 男はゆっくりと膝を折る。

「そうなれば、あなたは用済みだ」

 胃の腑の底が冷える。全身が泡立つようだ。

 己の死の予感に、浩一郎は僅かに身を捩った。が、やはり体は動かない。

 そうしてもがいていると、男はスッと立ち上がった。

「それでは、僕はこれで。全てが終わればこの場所も破棄しますので」

「……やめ」

 ろ……と言いたかった。が、やはり舌が回らない。毒物を盛られたわけでもないのに。

 浩一郎は必死に、男を睨み付ける。けれど、男はすぐに彼から視線を外し、踵を返した。

 部屋から出て行く。パタンと扉の閉まる音がした。

 しんと部屋の中が静まり返る。全身に力が入らないまま、何度か浅い呼吸を繰り返す。

 そうして、更に数分、いや数十分が経過しただろうか。

 浩一郎は全身に力を込め、ゆっくりと上体を起こした。

 額に汗が滲む。これは一体なんだと言うのだろうか。

 自らに施された処置の正体が知れないまま、けれども何とか立ち上がる。

 額に浮かんだ汗を拭う。

 あの男がいる時には全く動けなかった。にも関わらず、今回は動けた。

 その違いは、なんだ? 彼がいるかいないかの違いか?

 ここに来るまでの間、散々痛めつけられた。それが影響しているのだろうか。創刊挙げるのが一番辻褄が合う……気がする。

 心理学者ではないし、メンタリストでもない。実際のところはわからなかった。

 が、その可能性はありそうだと思われる。

「おそらくあの電極による作用と心理的な作用の二重効果になっているんだろう」

 息を切らしながら、そんなことを呟く。わざわざ声に出す必要はなかったのだが、まあそこは仕方がない。

 そうでもしなければ、また倒れそうだった。意識を保てなかっただろう。

 ともかくも。あの男がいなければ多少は動ける。

 それが確認できただけでも前進だ。

 浩一郎はふらつく両足になんとか力を込め、壁伝いに扉の前へと移動する。

 あの男は解析結果が出るのに後一時間はかかると言っていた。ということは裏を返せば一時間以上はここへは戻って来ないということだろう。

 もちろん、何の根拠もない、ただの希望的観測だった。

 気休めにもならない、ちょっとした思い付き。

「……まあそれはそれとして、できることなら脱出したい」

 拘束具はなかった。解析結果が出れば用なしと言っていたのだから、もっと簡単な方法で処分するつもりなのだろう。

 例えば、他の仲間や部下を使って溶鉱炉に投げ入れる、とか。

 想像しただけで身震いする。どうしてそんな恐ろしい目に遭わなくてはいけないんだ。

 もし違ったとしても、何らかの方法で浩一郎という人間を抹殺するというのは確定していることだろうから、そういう意味では大きく間違ってはいない。

 だとしたら、一秒でも早くこの場を離れなければ。

 浩一郎がドアノブを握る。と、鍵がかかっていた。

 何度かがちゃがちゃと回してみるが、開かない。

「……まあ当然と言えば当然か」

 仮に逃げられたとしたら大問題だ。警察にでも駆けこまれれば、自分たちの犯罪が露見してしまうのはもちろん、もしかすると計画そのものが破綻してしまう可能性もあるのだ。

 警戒は、してし過ぎるということはない。

「さて、どうしたものか」

 浩一郎は小さく嘆息した。

 この現代において、電子的なセキュリティは当たり前に普及している。7

 そして、そのどれもが高性能かつ強固なものだ。十年前と比べると、その差は歴然として明らかであり、これを破ることはただでさえ不可能に近い。

 とはいえ、だ。一見したところ、目の前にあるドアノブは太古の昔に存在したと言われるアナログ錠式のもののようだ。なら、破ることは可能か?

 一瞬、そんなことを考えたがすぐに浩一郎は首を振った。

 馬鹿なことを。今時電子セキュリティがないなどということはありえないだろう。

 それに、例えアナログ式だったとして、だから何だというのか。

 もし、このドアノブを物理的な敗れたとしても、すぐにあの男へと知らされる。

 そうなれば、彼の部下か仲間かはわからないが、すぐに駆け付けてくる。

 その連中に捕まれば今度こそお終いだ。

「じゃあ一体どうする? ……何をしたら、ここから出られるんだ?」

 浩一郎は扉に額を付け、コツコツとノックする。

 コツコツ。コツコツ。

 何か素晴らしいアイデアが閃かないだろうかと自らの脳みそに期待するが、その行為は無意味なもののようだ。

 素晴らしいアイデアはおろか、糸口すら見出せない。

 手詰まりだ。

 元々、こうした状況への対処の仕方など考えたことがなかったのだから、無理からぬことだ。

 ちらりと背後を振り返る。重い体を引きずって、部屋の中央に座り込む。

 まだ、頭の中がくらくらしていた。口惜しさだけが喉の奥底にこびり付いている。

 どうしたらいいかなんて少しもわからない。

 もう一度、ぐるりと背後を振り返る。立ち上がり、先ほどの写真の部屋へと行ってみた。

 何か使えるものがあればいいが。そう思い、部屋の中を物色する。

 戸棚の引き出し、ベッドの下、勉強机の上の物。

 そうして使える物を探していると、再びあの写真が目に入った。

 どう見ても家族写真だ。仲睦まじい。

 なぜこれがこんなところにあるのだろう。隠されているかのように、あんな独房のような部屋の隣に。

 そのことが不思議でたまらなかった。しかし、今はそんなことを考えている暇はない。

 一刻も早く、ここから脱出しなければならないのだ。何かないだろうか、何か。

 浩一郎が机の引き出しを全て開ける。と、その中の一つからペンケースが出てきた。

 今時ペンケースとは。こんな物、何十年も前にとっくに廃れていたと思っていた。

 浩一郎が子供の頃、辛うじて使っていたような記憶がある。

 それから時を経て、今になって時々使うようになった。

「つまり、この子と同い年だった?」

 実際はどうかはわからない。この写真が何年前の物なのかも定かではないのだ。

 考えるだけ無駄だし、そんな暇もない。

 浩一郎はふう、と嘆息し、首を振る。今し方頭の中に過ぎった考えを追い出す。

「だめだ。今は自分のことに集中しないと」

 とはいえ、見付かったのはこのペンケースだけ。他に目ぼしい物はない。

 中を開くと、ボールペンや定規の類いが入っていた。

 使える物といえば、おそらくはこれだけだろう。なら、これだけの物でどうにかするしかない。

 浩一郎はペンケースを手に、今までいた部屋へと戻る。

 相変わらず独房のような部屋だ。打ちっぱなしというのだろうか。コンクリート壁で四方を覆われた時代錯誤な空間。

 果たして、これで脱出できるだろうか。すごく不安だ。でも、やるしかない。

 浩一郎がペンケースを手にしたまま、ドアノブの前へと移動する。一応、もう一度捻ってみるが、やはり開かない。

 さて、何か使える物はないだろうか、とペンケースの中を漁る。

 そこで、クリップが出てきた。書類の束を止める物だ。これは……初めて見るかもしれない。

 他にはどうしようもない。

 電子的なセキュリティだったなら、浩一郎の力で何とでもできただろう。

 しかし、相手はアナログなセキリティだ。せいぜい、不正に破られた場合に警報が鳴る程度だろう。

 なら、逆にこうしたアナログ式の突破法の方がましなのかもしれない。

 浩一郎はクリップを二つ取り出すと、U字に曲がっていた部分を伸ばし、一直線にする。

 ピッキング。映画なんかでは見たことはある。けれど、実際にはやったことはなかった。

 成功確率はかなり低いだろう。概算だが、五パーセントもないかもしれない。

 それでも、他に手はないのだからやるしかない。

 浩一郎はしゃがみ込み、ドアノブにクリップの先端を突き入れる。

 何度か回したり、捻ったりしてみるが、開く気配はない。

「……そりゃそうだ」

 素人のピッキングが成功する確率なんてなきに等しい。もしかしたら、時間の無駄かもしれない。

 浩一郎はふと部屋の中を見回す。が、さすがに独房のようなデザイン性なだけあって、時計はおろか時刻を確認できるものはなかった。

 あの男が出て行って、どれくらい経ったかわからない。

 時計を探して動き回るなんて、それこそ時間の無駄だ。

 浩一郎は再び、クリップを動かし始める。

 何とかして、この場を脱出しなければ。

 そうして、もがいていると、足にコツンと何かが当たった。

 なんだ? と思って足下を見る。と、そこにあったのは鍵だった。

「鍵? ……一体どこの?」

 扉の隙間から滑り込んできたのだろう。

 どこの、と言えば、今目の前で浩一郎の行く手を阻んでいるこの扉しかないだろう。

 しかし、一体誰がこれを届けてくれたのか。そもそも信用していいのか。

 浩一郎は鍵を見つめたまま、逡巡する。眉間に皺を寄せ、考えた。

 とはいえ、他に選択肢もない。ピッキングなんてほとんど運任せの勝率の悪い賭けだ。

 それよりは、この鍵を掴んだ方がまだ両立はあるだろうか。

 浩一郎はゆっくりと、その鍵を手に取った。ドアノブに差し込む。

 すんなりと抵抗なく鍵は鍵穴へ吸い込まれていく。そして、捻る。

 と、かちゃりと音を立て、開錠した。そのことに、浩一郎は複雑な思いだった。

 もし、これが罠った場合、この先に一体何が待ち構えているだろう。罠ではなかっとしても、うまく逃げおおせることができるだろうか。

 胸の中を不安と恐怖が渦巻く。どくんと心臓が激しく脈を打った。

 どうしたものか。ためらいがドアノブを掴む手を動かなくする。

「……ええい」

 このままここでじっとしていても拉致が明かない。もし何かしらの罠だったらその時はその時だ。何も行動しなくても殺されてしまうのだから、ここは賭けてみよう。

 浩一郎は決意すると、ドアノブを回した。

 キィ、と蝶番の擦れる音がする。アナログな扉だった。

 五十年前までなら、こう言う扉も多少は残っていたのだろう。

 浩一郎は廊下に顔だけを出して、左右を見渡す。が、当然と言うべきか、誰もいなかった。

 しんと静まり返っていた。それこそ、人の気配など皆無だ。

 右に、左に。どちらに進むべきだろうか。そのことを思案しながら、浩一郎は後ろ手に扉を閉める。もう、この部屋に戻ってくることもない。

 あの写真の少女が気になるところだが。しかし、おそらくその謎は一生答えが出ることはないだろう。

 などということを考えていると、ふと足下に視線が向く。

「……これは」

 蛍光塗料。オレンジ色の光の線が、走っていた。

 なんだ? これには一体どんな意味があるんだ?

 浩一郎は眉根を寄せ、思案する。

 すごくあからさまな方法。こんなものがあれば、あの男が気付かないはずがない。

 とすると、罠の可能性が濃厚だ。無視した方がいいだろう。

 けれど、もし違ったら? これが、目の前に垂らされた細い蜘蛛の糸だったら?

「あの男がこれを見過ごすはずがない。だとしたら、あいつが去った後にこれは付けられた」

 鍵の件といい、浩一郎のあの男。二人の他に何者かがこの建物の中にいる。

 そいつが、浩一郎に救いの手を差し伸べようとしている。なぜかはわからない。

 でも、これを逃す手はないだろう。他に方法もない。

 浩一郎はそのオレンジ色の蛍光塗料を伝っていく。

 きっとこの先に、何らかの光明があると信じて。

 

 

                 ◇

 

 

 時は遡ること二時間前。

 ハウゼン邸――応接間。

 家主であるハウゼン教授が席を立っている間、リンダはふうと嘆息した。

 天井を仰ぐ。大きな家だ。一体、どれだけの金をかけたのだろう。

 応接間、展示室、図書館、実験室、書斎。

 ハウゼン邸の間取りはおおよそそんな感じだ。バスルームやトイレットルームもあるが、寝室やキッチンはない。

 おそらく、実験器具や書籍などに囲まれて眠っているのだろう。実にあの老齢の狐らしい生活だ。

 今時、電子書籍ではなく実物の出版物を揃えているところも実に偏執的だ。電子書籍が嫌いなわけではないようだが、やはり紙の方がいいと考えているのだろう。それにしても病的すぎる。

 出版物が手に入らないとなれば、電子書籍を髪に印刷して簡単な製本までやってしまうというのだから、筋金入りと言う他にない。

 書斎や図書館はそうして手に入れた書籍の山となり海となっていることだろう。

 もしかしたら、膿かもしれない。

 いや、そんなことはどうだっていいことだ。問題はあの老いた狐がどうやって小いう一浪を見つけ出すのか、という一点のみ。

 後のことは、どうとでもなれ。

 リンダはぐるりと室内を見回す。と、そうしているとハウゼンが戻って来た。

「済まないね。他にも立て込んでいる問題が山ほどあるんだ」

「いえ……お力を貸して頂けるのでしたら、すごくありがたいことですから」

「そう言ってくれるとありがたいよ」

 ハウゼンは再びリンダの前に腰を下ろすと、テーブルの上に髪の束を置いた。

「あの……これは?」

「おそらく件の日本人が監禁されているであろう場所の目星だ」

「なぜ、こんなものが?」

「まあ、色々と顔が広いんだ、私は。君も知っているだろう」

 こく、とリンダは小さく頷いた。

 それにしても、だ。いくら顔が広いからといって、これほど短時間で調査が終わるわけがない。

 つまり、この老人は元々浩一郎が攫われたことを知っていて、独自に捜査をしていた。そしてそれを今、リンダの目の前に広げている。そういうことだろう。

 何も知らなかった顔をして、一体何をしたいのだろうか。

 リンダはハウゼンの腹の底を見据えかねて、眉間に皺を寄せる。

 とはいえ、今は手がかりなんてほぼない状態だ。ここはありがたく、これを拝見させていただこう。

「……失礼します」

 リンダがテーブルの上から、資料の束を手に取る。

 こういうところでも、ハウゼンという男の紙媒体へのが伺える。

 普段からデジタル媒体に慣れ親しんでいるリンダにとって、紙の資料というのは逆に扱いにくい。

 パラパラとページをめくる。

「よくこれだけの資料を揃えられましたね。事件発生からそれほど時間も経っていないのに」

「まあね。それについては警察方にも多少のコネクションがあるからね。言っただろう? 顔は広いんだ」

「ええ、そうでしたね」

 パラッと、ページを繰る。と、一つの項目が飛び込んできた。

 そこに描かれていたのは、彼の一人娘。つまりサラのことだ。

「どうかしたかね?」

「……いえ」

 とある昼下がり。三日ほど前だろうか。彼女が母親らしき人物と出歩いているのを監視カメラの映像が捉えている。

 しかし、サラの母親は既に他界しているという。

 これは……どういうことだ? リンダは眉間に皺を寄せ、資料を凝視する。

 この顔は、確かにひまわりだ。サラの母親? にしては、年若い。

 もちろん、今の時代アンチエイジング方法なんて星の数ほど存在する。子供の年齢と母親の外見的年齢がそぐわないことなど珍しくもない。

 だから、問題はそこではない。最後の項目。

 サラの母親は既に他界している。つまりこの世にはいない。

 死んで、いるのだ。

 にも関わらず、リンダが手にした資料に描かれた文言。

 母親らしきい人物……とは、一体誰だ? この場合、ひまわり以外ありえない。

 なら、ひまわりはサラの母親だというのだろうか。それにしては、言動があまりによそよそしい。

 府に落ちない気持ち悪さを感じつつ、リンダはまた、ページをめくる。

 そして、決定的な一言。

「なっ……!」

 そこに書かれていた事実に、愕然とする。

 ひまわりの正体。それは浩一郎が作り出した、自動自立型二足歩行女性アンドロイド。

 法により律されているはずのその個体を目の当たりにして、リンダは絶句する。

 開いた口が塞がらないとは、まさしくこのことだった。

「な……ぜ、彼がこんな物を」

「まあ大方の見当は付くがね」

 ハウゼンは悠然とした態度で、そううそぶく。

 確かに、大体の見当は付く。

 死んだ最愛の人。その忘れ形見の娘。

 血の繋がりなどないその娘を自分の子供として育てている。そこには、おそらく彼なりの深い愛情があったのだろう。

 そして、彼は――浩一郎は自らの技術の粋を集め、最愛の人とそっくりの人形を作りだした、というわけだ。

「何を考えて……いいえ、今はそんなことは後回しよ」

 リンダは資料をテーブルに叩き付け、頭を抱える。

 本当の理由など知って、どうするというのだ。それに、そんなものは後々本人の口から聞き出せばいい。今はそこに時間を使っている暇はないのだから。

 リンダは小さく嘆息する。震える声で、ハウゼンに問うた。

「……それで、私は一体何をすれば」

「君の役割は主に二つだ。一つは実働部隊として彼の救出に当たってもらう」

 ハウゼンはじっと、テーブルの上を眺めていた。

 正確には、資料の束。その中に一つを凝視ていた、と言った方がいいかも知れない。

「……もう一つは?」

「もう一つは、彼女をここに連れて来てくれたまえ」

「彼女……まさかひまわりを?」

 ハウゼンは資料から視線を上げ、真っ直ぐにリンダを見やった。

 老練な科学者の眼光はゆるぎなく、年若い女性研究員の反骨心を打ち砕く。

「……わかりました」

「うむ、よろしい。とはいえ、君一人では救出などままならないだろう」

 当たり前だ。相手が何者だとしても、ただの研究員一人にできることなどたかが知れている。

 本当に、昨日はどうかしていた。どうしてあんな行動を取ったのか、まるで見当が付かなかった。とはいえ、だ。

 とはいえ、これで浩一郎を助け出す算段が整ったと言っていい。

 彼を助け出し、そしてひまわりをこの老狐の前に差し出す。それだけでこの仕事は終わりだ。何も難しいことじゃない。

 何せ相手は犯罪者だ。大丈夫。やれる。

 リンダは資料の束に視線を落としたまま、いつの間にか自分に言い聞かせていた。

 そうだ。大丈夫だ。

 資料の間から、ひまわりの写真がこちらを覗いていた。

 

                 ◇

 

 

 ――二時間後。謎の蛍光塗料の後を追って行く浩一郎。

 しばらくそうして歩いていると、突如として蛍光塗料が消えていた。

 周囲を見回す。が、それ以上は暗闇が続いているだけだ。これ以上の道しるべはない。

 何だったのだろうかと訝しむ浩一郎だったが、いつまでもそんなものに拘泥している暇はない。今はともかく脱出することを考えなくては。

 とはいえ、だ。あの鍵は一体誰の仕業なのだろうか。

 例えば、あの妙な男? ありえない。彼に浩一郎を生かしておく理由はもはやない。

 それどころか、もし仮に逃げられたらお終いなのだ。計画のことも、今後の人生も。

 つまり、あの男に浩一郎を助ける理由はない。とすると、だ。

 全くの第三者ということになる。しかしそんな人物がいるものだろうか? いると考えるのは、とても難しいことだ。

 それでも、そう考えなければ今の状況が説明できない。

 後、他に考えられる可能性としては、組織内の裏切り行為だ。

 誰かが良心の呵責に耐え切れず、こんなことをしている、ということ。

 それはつまり、今この状況に至って、あの男とは別の考え方を抱いているということだ。

 それが悪しきにせよ何にせよ、今の浩一郎にとっては縋りたくなる。

 浩一郎を助けた人物の思惑がなんであるか、この際どうだっていい。

 今は逃げることを優先するべきだ。

 浩一郎はそう決心して、歩を進める。戻る選択肢は、なかった。

「そうだ。俺はここから逃げる。そして、サラに……」

 もうどれだけの時間、サラに会っていないだろうか。

 実際にはそれほど長い時間ではなかったとしても、もう一年以上も会っていないかのようだ。

 浩一郎は暗闇の中を、手と足の感覚だけを頼りに進んでいく。

 慎重に。けれど、できるだけ急いで。

 そうして進んでいくと、ふと行き止まりに突き当たった。ひっ、と喉が干上がる。

「行き……止まり?」

 ――道を間違えた? いや、ここまではまでは一本道だったはずだ。

 暗がりで見えなかっただけで、実は分かれ道があった? それを見落としていた可能性。

 浩一郎は振り返り、歩いて来た方向を見やる。

 けれど、やはり何も見えなかった。続いているのは、ただの深淵な闇。

「……どうすれば」

 浩一郎は頭を抱え、項垂れた。必死に思考を巡らせる。

 しかし、この状況を打破しうる可能性を秘めた素晴らしいアイデアは出てこない。

 ぐるぐると思考が同じところで回っていた。つまり、どうしようもない、というところだ。

 浩一郎は自分の呼吸が浅くなるのを感じていた。落ち着け、と自らに言い聞かせる。

「今は自我を失っている時じゃない」

 状況を打破する方法を模索して、動かなくてはならない。動かなくてはならない……のだが。

 浩一郎はもう一度、暗闇の彼方へと視線を送る。

 何も見えない。何もない。ただ、ずっと深い闇が続いているだけ。

 だめだ。無意識に、頭の中にそんな言葉が舞い降りる。

 だめだ、無理だ。諦めにも似た感情が次々に湧き上がる。

「あの鍵は、ただ俺をおちょくって楽しんでいただけだ」

 どうせ最後には殺すのだから、最後に遊んでやろう、と。そう思ったとしても不思議ではない。

 何せ相手は頭のネジの外れた連中だ。それくらいのことをしても不思議じゃあない。

 浩一郎はそんなことを考えながら、背後の壁に背中を預ける。

 と、その時だった。

「うおっ!」

 背後の壁がなくなっていた。先ほどまで、確かにあったのに。

 困惑していると、ゴロンと背中から倒れた。

 痛みはなかった。ただ、ふかふかとした感触が背中越しに伝わってくる。

 これは……絨毯?

 浩一郎が状況を飲み込めず、その場に固まっていると、突然部屋の中が明るくなった。

 否、部屋の中が明るくなったのではない。

 モニタがあった。それもたくさん。そのモニタの電源がオンになったのだ。

 四角い枠から放たれる、目を覆いたくなるような青い光。

 先ほどまで真っ暗闇の中にいた浩一郎にとって、それはまさしくまばゆい光だった。

「何……が?」

 一体何が起こったのか。状況が理解できないまま、事態の推移を観察する。

 そうしてじっとしていると、浩一郎の目の前のモニタに丸い球体が映し出された。

 球体、というよりそれはただの円だった。何だこれは? と浩一郎が思った矢先、その円がぐにゃりと変形する。

 それとほとんど同時に、どこからか声がした。

「はじめまして」

「なっ……んだ?」

「わたしはケイト」

 女の子の声だ。はきはきとした、利発そうな雰囲気を持っている。

「ケイト……ええと、俺は……」

「ええ、知っていますよ。浩一郎」

 ケイト、と名乗ったその人物は、少しだけ声に笑みを含ませてそう言った。

「……俺をここまで連れて来たのは君?」

「正確には、違います。少々お手伝いをしてもらいました。しかし、全てはわたしの計画の結果です」

「なぜ……君が自分でやらなかった?」

 ずいぶんと的外れなことを訊いているな、と自分でも思った。とはいえ、状況が突飛過ぎてどうしたらいいのか、頭が回らなかった。

 ともかく、このケイトという少女の真意を確かめなくては。

「……君は、この建物の中にいるのか?」

「……そうとも言えますし、そうじゃないとも言えます」

「君は……何を言っているんだ?」

 合成音声は一瞬だけ、沈黙した。

 しかし、次の瞬間にはケイトは溜息とも取れる吐息とともに、再び語り始める。

「あなたはわたしの部屋を見たはずです」

「君の部屋? 一体何を……」

 言っているんだ、と言いかけて、浩一郎はハッと気が付いた。

 つい先刻のことだ。当然、はっきりと覚えている。

「あの写真……あれはやはり」

「ええ、あれはわたし。そして、一緒に写っていたのはわたしの母と、そして兄」

 兄……浩一郎を誘拐した人物の面影のある、写真の青年。

 あれはまさしく、この合成音声の主の兄。つまり、今浩一郎が話しているのは彼の妹。

「ケイト……君は一体何を考えているんだ? というか、一体どこに?」

「わたしは……もうこの世にはいません」

「は?」

 浩一郎はケイトの言葉の意味を理解できず、言葉を詰まらせた。

 この世には、いない? 何を言っているんだ? 今、こうして話しているのに。

「……右側をご覧ください」

「右……?」

 言われるがまま、浩一郎は首を右に捻じる。

 と、息を飲む。大きく目を見開く。

「なんだ……これは」

 そこにいたのは、写真の中の可憐な少女ではなかった。

 無骨で角ばったプラスチック製の四角い箱のような物。自律制御できるようにだろうか、底部には車輪が取り付けられていた。

「これは……」

「今のわたしです」

 合成音声が、告げる。その言葉が真実かどうか、浩一郎にはわからなかった。

 ただ、真実味はある、と思った。一応の説明も思い付いた。

 しかし、これは……凄まじい技術だ。

「つ、つまり君は、意識のみをアバターに移し替えている、ということか」

「はい。その通りです。……いえ、正確には違いますね」

 ケイトが自嘲気味に笑った、ような気がした。

 実際には、モニタにも目の前のプラスチックの箱にも、表情を読み取れるような機能はなかった。それでも、浩一郎にはなぜかケイトが悲しげに笑ったような気がしたのだ。

「わたしは生前の声を録音し、兄の作成したプログラムとラーニングによって生きていた頃のわたしとそっくりな会話をできるようになっただけです」

 生前の、という言葉に、浩一郎はモニタを振り返った。

「やはり……君は既に死んでいるのか?」

「このわたしにその記憶はありません。メモリ内を検索してみても、それらしい情報は得られませんでした。おそらく、兄がブロックをしているのだと思います」

「……この体で、俺をここまで誘導したのか?」

「はい。今、あなたの目の前にあるそれが、わたしの現在の肉体です」

「信じられない。君は本当にあの男の妹なのか?」

「それは……悪魔の証明とでも言うべき問いですね」

「…………」

 何かずれている気がしないでもなかった。が、彼女の言いたいことはおおよそ見当が付いた。

 つまりは、いくらここでそのことを論じても無意味だと言いたいのだろう。

 それは浩一郎の立場からしても同じことだ。

「それで、君は一体何を求めているんだ?」

「……兄の、解放です」

「解放? 何を言っているんだ?」

「兄は、囚われているんです」

「囚われている?」

 ええ、とケイトが肯定する。

 囚われている。何に?

 それは過去かもしれない。悲惨な過去。家族を失った悲劇と、それに対して何もできなかった自分。そのことをずっと悔いていて、それをどうにかしたいと願っていた。

 そして今、妹の心のようなものを再現することに成功している。

 後は、外側だ。肉体も、取り戻したいと願っているのかもしれない。

 それには、浩一郎の持つ技術が必要だ。ひまわりを作り上げた腕と、何より理論。

 技術に関しては、何も問題はないだろう。彼の持つ全てを注ぎ込めば、きっとケイトはこの世に甦る。だから、どちらかと言えばひまわりの製作のために積み上げられた多くの理論。それをあの男は欲しているのだろうか。

「なぜ、その話を俺に?」

「なぜ……それは」

 ケイトが言い淀む。おそらく、浩一郎に頼みごとをすることを躊躇しているのだろう。

 なぜなら、彼は被害者だ。あの男とその家族であるケイトを恨みこそしても、助ける道理など微塵もない。

 ならば、なぜ依頼するのか。合理的な理由がケイトの中で見付からないのだろう。

「……わかりません。ただ、あなたなら、助けてくれると、思ったからです」

 人間のようなことを言う。浩一郎は紛れもなくそう思い、傍らのプラスチックの箱に手を置いた。くすぐったそうに身を捩った、ような気がする。おそらく気のせいだ。

「ずいぶんと都合のいいことを言うんだな」

「…………ええ、わかっています」

 一瞬、ケイトが言い淀んだ。

 彼女はあの男が作ったプログラムであり、本物の人間ではない。なら、これも一つのプログラムされた言動なのだろうか。

 だとしたら、あまりにも精巧過ぎる。もはやこれで妹の復活は成し得たと言ってもいいのではないだろうか。

 しかし、それではあの男は納得しないらしい。ずいぶんと難儀な話だ。

 浩一郎は逡巡を重ね、やがて吐息した。

「……わかったよ。俺にできることならしよう」

「えっ……本当ですか?」

「そっちから言ってきたんだろ」

「それは、そうですが……」

 元々ダメもとでの頼みだったのだろう。ケイトの声音は、明らかに驚いていた。

「あ、ありがとう……」

「ま、うまくいくかはわからないけど」

「いいえ。それでも、そう言って頂けただけでわたしは嬉しいです」

 プラスチック製のケイトの体が、嬉しそうに震えた。何だか笑顔でいるような気がして、悪い気はしなかった。

 さて、そうなればいつまでもこんな場所にいるわけにはいかない。

 浩一郎は踵を返し、出口へと向かう。と、すぐに思い至って、歪む円の映るモニタを振り返った。

「そうだ。その前に聞いておかなければいけない」

「何をです?」

「あー……」

 浩一郎は数秒迷う素振りを見せ、小さく嘆息する。

「あの男。――君の兄の名前だ」

 

 

                ◇



 サラとひまわりは、暗闇の中を歩いていた。帰路には、灯と言えば外灯しかなく、それによりぼんやりとした頼りない光が輝いているだけだった。

 二人は無言のまま、歩き続ける。

 あの廃工場を後にして、三十分が経過していた。

 時折サラが灰工場の方角を振り返る。おそらく、トムのことを気にしているのだろう。

 トム。あの薄汚れたホームレスの男。彼は実はいい人間だった。

 とはいえ、ひまわりは自分が行った行動を後悔していない。元よりそんな機能はないが、例えあったとしてもそんなものはしなかっただろう。

 サラの身の安全を守ることは、ひまわりにとって最優先事項だ。そのために、リンダと別れてひまわりを探したのだから。

 このまま、サラを自宅に連れて行く。ただでさえ寝不足の上に疲れているのだ。これ以上引っ張り回すわけにはいかない。

 だが、その前に聞いておかなければいけないことがある。

「サラ、どうしてあの場にいたのですか?」

「……答えないとダメ?」

「ダメです。なぜあの場にいたのか、教えてください」

「……ひまわりともう一人の人が話している間、車に乗り込んだの」

「なぜそんなことを……」

「あたしも、浩一郎のことを探しに行きたかったから」

「……サラ」

 サラは悲しげに目を伏せていた。

 母親が亡くなってから、浩一郎はサラにとって唯一の家族だった。

 例え血が繋がらなくとも、これまで過ごしてきた時間を思えば、サラの胸中は推し量ることができる。

 それは、ひまわりと彼らの間にはない絆だった。羨ましい、という感情はない。

 ただ、そいういうものなのだろうと受け止めるだけだった。

「そうですか……それは、申し訳ありません」

「ううん。ひまわりのせいじゃないよ。あたしが勝手にやったことだから」

 静寂が、再び舞い降りる。

 空にただ闇が広がり、二人の足下を煌々と人工的な明かりが照らしていた。

 サラは歩きつつ、肩越しに背後を振り返った。

 もう、あの廃工場は見えない。ただ、その方角に視線をやっていただけだ。

 もちろん、廃工場を見ていたわけではない。あの場所に住むトムを見ていたのだ。

「……トム」

 トムの事を、考えていた。

 サラの母親は既に亡くなっていた。浩一郎がいなければ、きっと天涯孤独の身になっていただろう。

 天蓋孤独。この世界で、たった一人ぼっち。

 全ての人や物がネットワークで繋がった世界。そんな世界にあって、トムはネット接続可能な機器を所持していない。

 加えて、家もなく仕事もない。住所がないという事はもしかしたら誰からも認識されないという事なのかもしれない。

 彼とかつて人生を歩んでいた家族は、一体どうしているのだろう。なぜトムの前から姿を消したのか。

 トムの語った理由は、サラを納得させるには至っていなかった。

 おそらく、トムの家族はトムを嫌いになったわけではないのだろう。だったら、一緒にいたらいいのではないだろうか。

 生きて、いるのだから。生きているのだから、ともにいられるのだから。

 死んでしまえば、一緒にいる事は叶わない。それは、とても悲しい事だとサラは強く思った。

「……ねえ、ひまわり」

「どうしました、サラ?」

「トムは……ずっとあそこにいるのかな?」

「……それは、私にはわかりません」

 サラの手を握るひまわりの手に、力が籠められる。痛いというほどではないが、そのひまわりの行動はサラを困惑させるには十分だった。

「……ひまわり? どうしたの?」

「……え?」

 ひまわりは、泣いていた。否、涙を流す事など、ひまわりには不可能だ。

 そう錯覚しただけだ。サラが。

「私は彼にひどい事をしました」

「それは、あたしを心配して……」

 ひまわりの自分を卑下する物言いに、サラはとっさにフォローする。

 けれど、ひまわりはゆっくりと首を振り、にっと口の端を釣り上げた。

 それは、限りなく人間に近い、それでいて心からの笑顔ではなかった。

「私がどんなつもりであったにせよ、彼を傷付けた。それに、事はそれほど単純ではない」

 そうだろうか、とサラは思った。

 サラにとって世界とは、母親と義理の父親。そして今はひまわりもいる。

 主にこの三人で構成されていた。実に単純明快なものだと思っていた。

 しかし、ひまわりは違ったらしい。それはひまわりが作られた機械だからだろうか。

 それとも、サラがまだ幼いからだろうか。

 彼女には、どちらともわからなかった。ただ一つ、思った事があるとすれば。

「……大人になんて、なりたくないな」

 これまで、サラは少しでもはやく大人になりたいと思っていた。

 大好きだった母のように。そして、血の繋がらない娘を愛してくれる浩一郎のような。

 そんな素敵な大人に。

「……何か言いましたか? サラ」

「ううん。何でもないよ」

 サラはにこっと口の端を持ち上げた。

 人間にしては、ひどく不格好な笑顔だった。

 まるで、その時間だけ自分が機械になってしまったかのように、サラは思った。


                ◇



 何を行うにしても、まずは準備が必要だ。

 その事に異論はないし、そうして準備を重ねていけば救出策の成功率は上がるだろう。

 しかし、時は刻一刻と流れている。悠長な事をしている間にも、取り返しの付かない事態に陥っているかも知れず、その不安がリンダの心を無為に急き立てていた。

「……何を焦っているかはわからないが、それほど苛立っても結果は変わらないのではないのかね?」

「わかっています。わかっては、いるのですが、どうしても……」

「まあ、君の焦りは理解できなくもないがね」

 ホフマンはふうと煙草の煙を吐いた。その所作は限りなく優雅と言うよりなかったが、そんなものは今のリンダにとって苛立たしさを増す要因にしかならなかった。

「それで、準備とやらはいつ終わるのですか?」

「もう少しだよ。今、必要な物を揃えさせているから」

「もう少しって……あまり悠長に構えている時間はないのですが」

 リンダの声に剣が混じる。組んだ足が小刻みに揺れていた。

「彼は今、こうしている間にも……」

「わかっているとも。けれど、君のように苛立ったところでどうにもならんよ」

 ホフマンはやれやれといった様子で、首を振る。

 先ほどから、彼の言う事はいちいち正論だ。そこが、尚更リンダの癪に障った。

 眉間に深い皺が寄る。頭の片隅がずきずきと痛みだすようだ。

「……それほど顔をしかめるものではないよ。美人が台なしだ」

「それはご心配頂きありがとうございます。しかし放っておいて下さい」

「ふむ。……しかしだね、君。彼と再会した時もその顔をしているつもりかい?」

「もちろん、無事に助け出せたなら、こんな顔を見せるわけがありません」

「なるほどねえ……」

 老人はにこりともせず、自らが吐き出した煙を目で追っていた。

 それから、沈黙が降りる。数秒が数分に感じられるほどだった。

 どれほどの時間が過ぎただろうか。体感的にはやや長めの時間が経過したように思う。

 実際はそれほど大した時間ではないだろうが。

「……あなたは」

 話をしたかった。このまま黙っていては、よからぬ想像が頭の中にこびり付きそうだ。

「あなたはなぜ、こんな事をしているのですか?」

「こんな事?」

「なぜ……関係ない私や私の部下のために……?」

「ああ、その事か」

 ホフマンは眉間に皺を寄せ、煙を吐き出した。

 考え込むように、天井を見つめている。

「……彼とは実はちょっとした顔見知りなんだよ」

「顔見知り?」

「ああ。まあ色々と複雑な事情というものがあるからね。あえて詳しくは言わないが」

 ホフマンはそう前置きしてから、すうっと息を吸い込む。

「娘の……フィアンセだった男だ」

「フィアンセ……」

 ホフマンの言葉に、そんな状況ではないとわかってはいたが、リンダは愕然とした。

 浩一郎にフィアンセがいた。その事実が、どうしようもなく彼女の心を暗くする。

「しかし、娘は死んだよ。でも、それでも彼はずっと娘を愛してくれている」

「それは……なぜです?」

「……そこまでは私の口からは言えない。もし聞きたかったら、本人に聞いてくれたまえ」

 ホフマンは灰皿に煙草を押し付けると、立ち上がった。

「さてと。そろそろ準備が整った頃だろう」

「あ、はい」

 老人に促され、リンダも立ち上がる。

「こっちへ来たまえ」

 老博士に促され、リンダは廊下へと出た。

 そこからは、無言の時間が続いた。長い廊下を歩いている間、重苦しい沈黙が彼女の心を沈めていく。

 浩一郎にはフィアンセがいた。そしてそのフィアンセは今はもういない。

 けれど、彼は彼女を今でも愛している。その証が何かあるはずだ。

「……まさか、サラ?」

 不意に、リンダの脳裏に幼い少女の顔が浮かぶ。

 ついに彼女の笑顔を見る事はなかった。が、およそ日本人離れした小さく可愛らしい少女の中に、日本人の血が紛れているとは思えなかった。

 いや、精密な検査をしたわけではないから、実際のところはわからないが。

 それでも、サラと浩一郎に血の繋がりはないだろうと容易に想像できた。

 実の娘ではないサラ。彼女を我が子として育てている浩一郎。

 彼が目の前を歩く老人の娘を愛している証として、その孫娘にも愛情を向けているとしたら? その事実に、この老人は何を思うだろうか。

 全ては憶測に過ぎない。他人の家庭の事情を邪推するなど、無神経にもほどがある。

 それでも、リンダは知りたかった。浩一郎が抱えているものを。

 彼が、何を愛しているのかを。

「さて、ここだ」

 言って、ホフマンは一室の扉を開けた。

 すると、そこには巨大な何かがあった。

「これは……何?」

「何だと思うね?」

 ホフマンはリンダを振り返り、にやりと笑う。

 しかし、リンダには眼前の物が何か、見当も付かなかった。

「……わかりません。私にはわかりません」

 リンダがホフマンを振り返る。が、ホフマンは笑みを讃えたまま、答えようとはしなかった。

 再び、眼前の巨大な異物を振り返る。

「兵器? それとも……何かのロボット?」

 リンダの頭の中に、次々と候補が浮かんでは消えていく。

 どれも違うように思われる。では何かと訊かれても、答えようがなかった。

「……これは私が独自に開発した探索用ロボットだ」

 ホフマンがリンダの隣に並び立った。平坦を装っているが、どこか得意な心境を滲ませている。

「ちょうどいいテストの機会を得た」

「テスト? あなたはこれを用いて何をするつもりだったのです?」

「何、簡単な事だよ。だがそれは今はどうだっていい事だ」

 ホフマンは巨体のボディを撫で、うっとりとした様子で言う。

「これで君のメカニックを探し出す。大丈夫だよ、理論上は完璧なはずだ」

 理論上は……とホフマンは繰り返す。理論と実践は違うという事を、目の前の老博士はよく知ってるはずだ。

 だからこそ、言葉は慎重に選んでいる。そんな印象を受けた。

「ところで、君は彼の居所に付いて知っている事はあるかね?」

「知っている……ええと」

 ホフマンに問われ、リンダは慌てて着億を探った。

 けれど、浩一郎の居場所に付いては何も知らなかった。

 何か、手がかりがあればいいのだが。

「……私が独自に発見した手がかりによると、彼はとある廃工場に監禁されていました」

 それはひまわりと一緒に潜入した廃工場だ。あの場所に連れ去られた事は突き止めていた。

 しかし、それだけだった。それだけで、後の足取りは掴めていない。

「……他には、何も」

「そうかね。ま、仕方がないね」

 ホフマンはスッと笑顔を消し、思案顔になった。

 実際に考えているのだろう。眉間に深い皺が寄る。

「しかし完璧に逃走の痕跡を消すなんて事は不可能だ」

「え? え、ええ……それはその通りですが」

 彼の言う事は一理ある。全てにおいて完璧な事などそうそう起こり得ない。

 それは、何事においてもそうだった。無論、研究開発にしたって同じだ。

 何度何度も繰り返す。同じ手順を。少しずつ変えて。

「連中にはそんな事は頭にはないだろう。もちろん時間もない」

 何せ相手は犯罪者だ。見付からないようにするのが精一杯だろうから、彼の言う通りなのかもしれない。

 ともかく、この機械と連れ立って、もう一度あの廃工場へ行ってみよう。そうすれば、何かの手がかりが掴めるかもしれない。

 リンダは巨大な鉄隗を見上げ、小さく吐息した。

 線は細い。今にも途切れてしまいそうだ。

 その細い細い線を手繰り寄せて、彼女は迫る。必ず、愛した人を助ける。

 そうしたら、きっと伝えよう。受け入れてくれるかはわからない。

 でも、絶対に伝えよう。自らのこの、気持ちを。

 あなたを愛している、という事を。

 

 

                  ◇


 助けて欲しい。彼女はそう言った。

 誰を? 彼女の兄を。今でも苦しんでいるから、と。

 家族を失い、世界に絶望した男は一体何を思っているのだろうか。

「……なぜ、俺なんだ?」

 振り返っても、プラスチックの箱は堪えてはくれない。

 あの音声機器から離れてしまったからだろうか。プツンと途切れたように一言も発さなくなってしまった。

 それは、まあいい。よくはないが。

 問題は、このプラスチックの箱が付いて回っている、という事だ。

 なぜ付いて来るのだろうか。きちんと自分の依頼をやるか見張っているのだろうか。

 どちらにせよ、浩一郎はこのまま逃げるつもりだった。

 どれだけ哀愁を漂わせて懇願しようと、監視しようと、彼女に答えてやるつもりはなかった。

 仮にこれが見張りだとしても、プラスチックの固まりに何ができるとも思えない。

 出口まで付いてこようが何だろうが、関係のない事だ。

 そう……思っていたのだが。

「なあ、一体いつまで付いて来るつもりだ?」

 我慢ならず、浩一郎は振り返り、プラスチックの箱に問いかける。

 プラスチックは浩一郎の動きに合わせるかのように、ピタッと停止した。

 しかし、現在の彼女の肉体の役割を果たすその箱からは何の音も漏れてはこなかった。

 これは、非常に不愉快だ。このまま付け回されたのでは、ストレスがかかる。

 浩一郎は小さく舌打ちして、頭部を掻く。

「何か、ないのか?」

 彼女の音声を他に知らせる事が可能なデバイスは。

 そう思い、あたりを見回す。が、浩一郎が望むような物は見付からなかった。

 仕方がない。今はこのままで我慢するしかない。

 はあと嘆息して、再び出口を目指して歩き出す。背後でも、彼女が付いて来る気配がした。

 走行音は、ひどく静かだ。姿を見なければ、何かが付いて来ているなどとは思わなかっただろう。

「何だってこんな事に……」

 浩一郎は再び嘆息する。それから、ちらりと背後を返り見た。

 あの男の妹を名乗る人物。写真から推測するに、生きていれば今は二十代の前半だろう。

 けれど、こうして浩一郎に付き纏っている彼女はたかだか十歳前後のはずだ。

 そんな幼い少女が、家族のためにあそこまでするだろうか。

 これも、あの男が施したプログラムという事か? それとも別な何かがあるのか。

「……おそらくは後者だろうな」

 AIは学習を繰り返し、進化成長する。それは生物のように。

 ならば、今こうしている彼女も自我を持つに至ったと考えるのは不自然な事だろうか。

 わからない。この分野に関しては(大抵の専門家がそう思うだろうが)わからない事が多すぎる。

 時代が進んだ今でさえなお、新しい発見や新技術は次々と生まれているのだから。

 自我を持つAI。その一文はかつてはフィクションの中にしか存在しなかった。

 けれども、現在の浩一郎たちが住まう世界ではそれは現実の物となりつつある。

 もしかすると、彼女がその第一号となるのではないか、と追い詰められた状況だと言うのに浩一郎はそんな事を考えていた。

「……なあ、ちょっと訊きたいんだが」

 無駄だと知りつつ、浩一郎は再度振り返る。

 じっと、プラスチック隗を見下ろした。

「君は、ええと――俺は君の事が知りたい」

 まるで愛の告白だな、と冗談めかして肩をすくめる。

 脳裏に二人の人物が浮かんだ。最愛の娘と、その母親。

 障害愛し、守ると誓った二人。けれど、母親は既にこの世にはいない。

 根比べか何かのように、浩一郎は目の前のロボットの反応を待った。

 ロボット――彼女はスッと、後ろへ移動し始める。元来た道を戻る形で。

「どこへ行くんだ?」

 付いて来い、という事なのだろうと解釈して、浩一郎は彼女の後を追った。

 彼女の目的地はすぐにたどり着いた。

 そこは、暗い一室だった。明かりはなく、光源と言えるものは何もない。

 かろうじて、彼女の操るロボットの影が見える程度だ。

 無論、ここまでの道のりも十分に暗かった。だから、この程度でいちいち騒いだりはしない。しない、のだが……。

「こんなところに一体何の用があるっていうんだ?」

 ガコンッ、と音が鳴る。何かがぶつかったような音が反響していた。

 奴に見付かるのでは? と浩一郎は内心ハラハラしていた。が、次の瞬間にはその心配ッも吹き飛んだ。

 なぜなら、真っ暗だった部屋の中に明かりが灯ったからだ。

 最初は有機ELの光だろうと思った。けれど、すぐに違う事が知れた。

 光っているのは、足下のプラスチックの箱だった。煌々と部屋全体を照らしている。

「……何をしているんだ、君は?」

 無駄だろうと思いつつも、浩一郎は訊ねた。

 きっと、返事は返ってこない。それでも訊ねないわけにはいかなかった。

「そんなところで、一体……」

 言いかけて、浩一郎は言葉を噤んだ。

 なぜなら、彼女の行動の意味に気が付いたからだ。

 彼女は今、接続している。何と接続しているのかと言えば、端末とだ。

 端末。彼女が使うべき、口となり言葉を発する端末。

 しばらくそうして、機械音だけが部屋の中を満たしていた。

 やがて、彼女は自らの肉体とも言うべきプラスチック箱を移動させた。

 その天版の部分に、一つの物体が乗っている。

 それは丸っこい、半球状の物だった。あれがおそらくは彼女が求めていた物なのだろう。

「……喋れる?」

「はい。これで、あなたとお喋りする事が可能になりました」

 半球状の物体から流れてくるのは、先ほど聞いた幼い少女の声。

 正確には合成音声だろうが、実際の人間の物と遜色はなかった。

「それは一体……」

「ただのスマートデバイスです。これでリアルタイムで会話をする事が可能になりました」

 少女の声音はどこか嬉しそうな響きを含んでいた。

 何はともあれ、これで意思の疎通は図れるようになったわけだ。これから先、必要な情報は交換していかなければならない。

 この少女がどれほど周囲の事をわかってるのかがわからない以上、あまり期待はできないだろう。が、先ほどから見せている性能はただの機会のそれを超えていると思われる。

 だから、まあ大丈夫だろう。相棒としては申し分ないわけだ。

「……それで、これからどうするんだ?」

 浩一郎が訊ねると、少女は考え込むように黙り込む。

 確かに会話できるようにはなった。とはいえ、相変わらず彼女の表情はわからない。

 顔がないのだから当然なのだが、そのあたりは与えてもらえなかったらしい。

 その事を不憫に思うかと言えば……思う。もしここから出れたのなら、彼女のために新しい顔を作ってやってもいいかもしれない。

 彼女が浩一郎と一緒に来る、と仮定した場合の話だけれど。

「私の依頼を覚えていますか?」

「ああ。ついさっきの事だ。忘れるはずがない」

 浩一郎は廊下へと視線をやる。先ほどから割合大きな音を出しているし、光も漏れているだろう。

 それでも、誰も駆け付けないのはどういう事だろう。

 もしかしたら、ここには誰もいないのではないか? そう錯覚しそうになるほど、建物の中……特に浩一郎のいるエリアは静かだった。

「君のお兄さんを助けてほしい。そうだったな」

「はい。兄は、ひどく苦しんでいます」

「なぜそうとわかる? こんな大それた事をしでかすような奴がそれほど繊細な人間だとは思えないが」

「兄は……ああ見えて器が小さいと言いますか、人間が矮小にできてると言いますか」

「…………」

 拉致された身分で思う事ではないかもしれない。が、反射的に思ってしまったのだから仕方がない。

 ちょっと……言い過ぎではないだろうか。

 浩一郎は実の妹からこれほどまでに悪態を吐かれているあの男にある種の同情を覚えた。

「……まあ、君のお陰で彼の目的は大体わかったけれど」

「本当ですか?」

「ああ。彼は……」

 言いかけて、浩一郎は口を噤む。

 果たして、これは言ってしまっていいのだろうか。

 まず間違いなく、彼の目的――最終的な目的は一つだ。

 妹の復活。これ以外にない。けれど、それを当人の前で言ってしまったら彼女はなんと思うだろうか。

 自分を復活させるために、たくさんの人に迷惑をかけ、悲しませている。その事実に、兄を救いたいと願っている機械の少女は耐えられるだろうか。

 そもそも、人は死ねば復活などありえない。死人は蘇らないし、ましてや全く同一人物が現れる事もない。

 いや、そんな事は重要な事ではないのかもしれない。

 今、浩一郎の目の前で話している少女の頭脳と声。そして浩一郎が作り出した、限りなく人に近い姿形を持つアンドロイド。

 この二つの技術が合わされば、彼の目的なほぼ達成される。もしこの事件に決着を付けるとするなら、そうしてやる事が手っ取り早く、これ以上の被害を出さずに済む事なのかもしれない。

 けれど、それはただの願望だ。そんな大それた事をして作り上げた妹は、本当に妹なのだろうか。

 例え姿が同じであっても、声が同じであっても、思考が同じであっても。

 それは本当に、人と呼べるものだろうか。浩一郎にはわからなかった。

「おそらく……だけれど」

 この考えをそのまま話してしまって大丈夫だろうか。大丈夫ではなかった場合、何が起こるだろう。

 一つの可能性として、この少女が自死(できるか否かは定かではないが)を選択するかもしれない、という事。そうなった場合、あの男がどんな手段に訴えてくるかわからない。

 とはいえ、今の彼女はただのAIだ。自ら死を選ぶとは到底思えない。

 AIは常に合理的な現実的な判断を下す。であるなら、問題はないか?

「……彼は、かつての妹を取り戻そうとしているのかもしれない」

「かつての……妹」

 相変わらず、表情はない。デバイスから聞こえてくる声は平坦だった。

 そこからどんな感情も読み取れない。先ほどまでは、読み取れていたのに。

 つまり、彼女自身の力で自分を抑え込んでいるという事だ。

 ただの人工知能にそんな事が可能だろうか?

 それ以前に、彼女はまだほんの子供だったはずだ。

 あの男が作り上げた、在りし日の妹の心を模した機械。

「――君は一体どういう存在なんだ?」

「……わかりません。わたしには、自分が何なのかがわからない」

「わからないって……そんな事はないだろう。なぜなら君は自我を持っているのだから」

「自我……果たしてわたしのこれは、自我と呼べるものなのでしょうか?」

 プラスチックの塊が、悲しげに揺れる。少なくともそう感じた。

 浩一郎は先導するその機械を視界の端に捉え、気付かれないように小さく息を吐いた。

「わたしは機械です。人に……兄に作られた模造品」

 彼女は何かを思案するように、黙り込んでしまった。

 それはまるで、深く呼吸を繰り返すように、長い時間続いた。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。周囲の景色は変わらず、会話はない。

 ここは太陽の光も届かない。時間を知る術はなく、ただただ真っ直ぐに廊下が続く。

 そんな中を、浩一郎は彼女の後に続いていた。無言で。

 苦痛、というほどではなかったけれど、それでもある種の気まずさのようなものはあった。

 余計な事を言ってしまっただろうか、と自分の発言を悔いるばかりだ。

 果たして、体感で一時間も経った頃、彼女は再び言葉を発した。

「わたしは兄にとって、一体何なのでしょうか。兄はなぜ、わたしを作ったのか」

 それは、実際に疑問な部分だった。

 死人はどれほど手を尽くしても蘇らない。姿を似せ、思考や言葉使いを似せ。

 そうしたところで、本物の彼女足りえたりはしないのに。

 なぜ彼は、そして浩一郎はそれぞれに作り上げたのか。

 外見はそっくりなヒューマノイド。性格はそっくりなロボット。

 どちらも不完全で、とても最愛の人とは言えないような代物だ。

 では、なぜ二人はそれぞれに作り上げたのか。それぞれの大切な人の偽物を。

「……俺には、わからない。自分でもわからないんだ」

 浩一郎は四角い箱の上に載っている、半球状の機械を見つめながら、そう呟いた。

 君は生まれてきた事をどう思っている? よほど、そう訊ねたかった。

 しかし、そんな事は訊くべきではない気がする。なぜかはわからないが。

 それは、彼女を深く傷付けてしまう行為であるように思えた。

 だからだろう。必死に話題を探した。別の話題を。

「ええと、君は生まれ変わったら何をしたい?」

「生まれ……変わったら、ですか」

 おそらく、彼女に顔があったなら、眉間に皺を寄せているだろう。

 怪訝そうに目を細めているかもしれない。口をへの字に曲げて、睨み付けるように。

「……わかりません。そんな事は想像もできない」

「そうなんだ。もしかしたら、新しい体が手に入るかもしれないのに?」

「そんな事は望んではいません。わたしは、結局のところ偽物であり、プログラムです」

 彼女の口調は、何かを諦めた者の言い方だった。

 けれども、浩一郎はそれが彼女の本音ではないと思っている。もし本当にそんな事を思っているのだとしたら、こんな事態にはなっていない。

 ただのプログラムが、浩一郎のためにここまで骨を折ってくれているという事実。これだけで、彼女がただの機会ではないという証左になっていた。

「まあ君が何を考えようと自由だけれど」

 浩一郎は一呼吸おいて、それから口を開いた。

「俺は君たちに手を貸してもいいと思っている」

「手を……貸す?」

「ああ……そうだ」

 こくりと浩一郎が頷く。言っている意味がわからない、と彼女は怪訝そうにしていた。

 実際にはどんな表情をしているのかわからないけれど、それでも彼女は不思議そうだった。その事は事実だ。

 浩一郎は確信を持っていた。

「それでだ、俺はお前の体を作ってもいいと思っている」

「でも……それは違法です。あなたは犯罪者になってしまいますよ?」

「……いいんだよ」

 既に一人は作ってしまっている。なら、二人作るのも同じだ。

 それに、あの男一人に任せてしまっては、きっとろくな事にならない。もっとひどい事になる可能性も十分にある。

 だったら、なおの事手を貸した方がいいだろう。その方があの男にとってもメリットは大きいはずだ。

 問題は、一度断っている事。そんな人間の言葉をあの男は聞き入れるのかという事だ。

 彼女の様子を窺う。じっと、じっくりと。

 そうしていると、何だか犬に芸を仕込んでいるかのようだった。

 考え込むように黙り込んでしまった。難しい事を言ってしまっただろうか、と浩一郎は不安になる。それほどまでに、彼の申し出は意外な事だったのだろうか。

 わからない。わからないが、今は黙って待っている他にない。

 どれほどの時間が経っただろうか。実際にはそれほど長くはないのだろうが、体感では数分ほど経過していてもおかしくはなかった。

 この場所は時間がわからない。だからこそ、いつまでこうして話をしていていいものなのかもわからなかった。

 もしかすると、あの男が姿を現すかもしれない。そうなった場合、救うどころか殺し合いに発展しかねない。

 それは、目の前のプラスチックの少女を悲しませる結末になってしまう。

 いくら何でも、それは望むところではなかった。願わくば、鉢合わせにならない事を祈らなければならない。

「……何はともあれ、今はここから脱出する事だ。それが先決だ」

 浩一郎はくるりと身を反転させると、廊下の様子を見やった。

「ありがとうございます」

「君は――」

「ケイトです。わたしの名前はケイト」

「……ケイトはなぜ、そこまでして兄を助けたいんだ?」

 彼女――ケイトは再び考え込むように黙ってしまった。

 けれど、これは確認しておかなければならない。

 このケイトは人間ではない。ただのプログラムだ。

 入力されたコードに従って動き、必要なら学習と自己判断を行う。

 ただ、それだけの存在だ。つまり、人間ではない。

「ケイトのそれは、感情……なのか?」

 兄を助けたい。過去に捕らわれた哀れな兄を。

 その心根は、果たしてどこから生まれてきたものなのか。

 プログラムによって行動し、会話をする。それがケイトという少女の正体だ。

 しかし、今の会話の全てはまるで人間のようだった。少なくとも、浩一郎はそう思えた。

 だからこそ、不思議だと感じる。

「ケイト――君は、どういう存在なんだ?」

 浩一郎は訊ねる。

 知りたかった。こんな状態でなかったなら、きっと根掘り葉掘り訊ねていただろう。

「わたしは――」

 けれども、ケイトが浩一郎に対して何らか答えを告げてくれる事は、なかった。


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