第二章 忘れ形見

第二章 忘れ形見

 

 サラとひまわりを残して、浩一郎は病室を後にした。

 まだ、やらなくてはならない事が山積しているのだ。時間は大切だ。

 だからというわけではないが、浩一郎はすぐに駐車場に止めていた車に乗り込む。

「……いつもの場所へ」

 告げると、了解を告げる音色が鳴り響く。

 勝手にエンジンがかかり、病室を後にする。

 浩一郎は窓の外をじっと見ていた。サラがいるはずの病室の方を。

 すっかり見えなくなるまで、彼はじっとそちらを見続けていた。

 大丈夫だと思う。サラはしっかりした子だ。

「……それに、僕が作ったプログラムは完璧だ」

 浩一郎は自分に言い聞かせるように、呟いた。

 ほどなくして、彼が通っている研究室の駐車場までの所要時間を告げられる。

 およそ一時間半。交通状況を加味してプラスマイナス十分。

「少し……眠るか」

 このところ根を詰め過ぎていたと思う。

 何せ、ひまわりを作る間はまるきり眠っていないのだから。

「本当に……我ながら馬鹿な事をしている」

 呟いて、目を閉じる。しかし、どろりとした感覚に襲われる。

 けれど、なかなか眠れなかった。何かが睡眠の邪魔をしていた。

 何が妨害しているのか、原因は定かではなかった。そもそも、この領域は専門外だ。

 ぐるぐると同じような思考が頭の中を駆け巡る。

 回路の不具合はないか、プログラムコードのミスはないか、ブラッシュアップは必要か。

 当然、答えはイエスでありノーだ。

「基本的に問題はない……と思いたいけど」

 それが思えないのがつらいところだから困る。

 何せ今日が初の起動だ。どんな事故が起こっても不思議じゃない。

 それなのにどうしてあそこへ連れて行ったんだ? 寝不足だったからか?

「……まあ、大丈夫だとは思うけど」

 何て楽観視していられるのは、まだ睡眠が足りていない証拠だろう。

 とはいえ、置いて来てしまったものは仕方がない。このまま何事もないよう祈るだけだ。

 などと考え事をしていると、唐突に車が停止した。

 浩一郎はびくりと体を震わせ、何が起こったのかと訊ねる。

 帰って来た答えは、実にシンプルだった。

 子供が飛び出してきたのだ。

 浩一郎はぞわっと背筋に薄気味の悪いものが走るのを感じた。

 自動運転車が全盛の今の時代に、事故など九九パーセント起こらない。

 しかしそれは百パーセントではない。何が原因でどんな事故が起こるかわからないのだ。

 もし、その飛び出してきた子供を轢き殺していたらと思うと、全身が総毛立つ。

 浩一郎はすぐさま、車から飛び出した。

 車体の前方を確認する。と、確かにぷるぷると震える子供がいた。

 怖かったのだろう。半泣きの状態で車と浩一郎を交互に見ている。

「す、すまない……大丈夫か? 怪我は?」

 浩一郎も気が動転しているのだろう。性別も定かではないまま、子供の肩に手を置く。

 膝に軽い擦り傷がある程度で、他には外傷らしいものはなあかった。

「本当にすまない。君、一人かい?」

 こくんと頷いてから、違う事を思い出したのだろうか。小さく首を振る。

「……お、お母さんが」

「お母さんがいるのか。ともかくこのままじゃあれだな」

 どうするんだっけ、と浩一郎は頭の中からこういうシーンでの知識を取り出そうとした。

 あわあわと二人して狼狽えていると、遠くから誰かの声が聞こえてきた。

「……お母さん」

「あれが君のお母さんか」

 こくんと頷く。今度は正解だったようだ。

「連夜! どうしたの!」

 連夜と呼ばれた少年? の母親と思しき女性は駆け足で寄って来る。

 息子の側に膝をつき、何があったのかとしきりに訊ねていた。

「も、申し訳ありません。僕のせいで息子さんに怖い思いをさせてしまって」

「え? ええと、あなたは?」

「僕はこの車の、えっと、運転……はしてなかったんですけど」

 浩一郎が事情の説明を試みる。けれど、うまくはいかなかった。

 やっとの十分ほどはかかっただろうか。やっとの事で説明を終えると、理解してくれたらしく、連夜の母親は深々と頭を下げてきた。

「……こちらこそ申し訳ありません。今後このような事がないように致します」

「いえ、それはこちらも。あの……すみませんでした」

 お互いに頭を下げ合うという不思議な構図が生まれていた。

「それにしても、すごいですね」

「え……?」

「私が子供の頃はこんなに便利じゃなかったですから」

「ああ……」

 自動運転とブレーキの事を言っているのだろう。

 確かに、浩一郎が幼少の頃は自動運転といえばそれだけで話題の種だった。

 それが今ではごく当たり前に誰もが使っている。

 運転なんていう行為自体が一部のマニアの娯楽程度の意味合いしかなくなってしまった。

「えっと……もし何かありましたらそこへ連絡してください」

 浩一郎は端末を操作して、母親の端末へと電子型の名刺を渡す。

 何事もないだろうが、一応念のためだ。こちらの誠意は見せておく必要がある。

「ありがとうございます」

「…………」

 こちらの不注意だというのに、何度も頭を下げる母親。

 必要以上に罪悪感に包まれてしまう。

 浩一郎はちらりと連夜と呼ばれた少年を見下ろした。

 サラより一つか二つ年下だろうか。普通なら泣き喚いてもおかしくない状況だ。

 にも拘らず、連夜は泣くどころか自分がどんな目に遭ったのか理解すらしていないようだった。

 これが……母国を離れた子供という事なのだろうか。

 浩一郎は不思議に思って、首を傾げる。が、いつまでもそうしてはいられない。

「申し訳ありません。本当に、何かありましたらそちらへご連絡を」

「は、はい……」

 浩一郎は視界に浮かび上がった時計を見て、慌てて車へと戻る。

 コンタクトレンズを改良したものだ。自分にとって最低限必要な機能をプログラムして、日常生活の向上を図るもの。

 言ってしまえば、昔一時期流行ったVR機器を小型化したものだ。

 昨日はだいぶ落ちるが、日常使いするだけなら困る事はない。

 それに、浩一郎が使っているそれは市販のものより格段に性能が上だった。

 自ら設計し、プログラムまで行っているのだから当然だ。可能な事は多岐に渡る。

 例えば、先ほどのように自国を表示させる事。大勢の人混みの中から探し人を見つける事なんてお茶の子さいさいだった。

 他にも、車の手配や端末への着信なんかを知れせてくれたりもする。

 非常に便利な反面、気をつけないと外すのが億劫になってくるのが玉に傷だろうか。

 ずっとつけているわけにはいかないのだから。

 これも一昔前の事になるが、機械の発達により人は仕事を奪われると言われていてた時期があった。

 けれど、実際にはそうはなっていない。大半の仕事は確かに人の手を離れたが、それでもいくつか残っている職業もある。

 その一つが今浩一郎も従事しているロボット産業だ。

 実際には、これも機械に代替可能な仕事と言われていたが、政府の規制によりロボット産業の機械化、完全自動化には歯止めがかかっている。

「ま、僕としては嬉しい限りだけれど」

 どくんどくんと今だ脈を打つ心臓を沈めながら、浩一郎は独り言ちる。

 どんな製品をどんな風に作るのか。それはロボットでは成し得ない事だと大統領は言っていた。

 けれど、それは果たして本当だろうか? 彼の言う事は素人に毛が生えた程度の意見でしかない。

 浩一郎からしてみれば、ロボット製造やアイデア出しなんかも機械に任せられる仕事だ。

 なぜなら、人の欲求なんて単純なものだからだ。

 食事、睡眠、性行為……快適な生活とはすなわち、これらを満たせるかどうか。

 これらを満たしてくれるのであれば、それが例え人間だろうとAIだろうと何だっていい。

「……いやいや、それは言い過ぎか」

 ともかく、ロボット産業もその内、完全自動化、機械化の波が押し寄せてくるだろう。

 具体的な数字はわからないが、現在世界の人口はどんどん減少している。

 これからの労働力は、本格的にロボットにとって代わられるだろう。

「それは僕も望むところだ」

 車が右折する。外の景色を見やると、段々と見慣れた景色へと変わっていく。

 もうすぐで到着だ。

 そんな事を考えていると、車は更に左へと曲がる。視界の端に数台、浩一郎が乗っているのと同じような車が見えた。

 外見上の違いはない。機能や性能に関しても概ね浩一郎の自動運転車と大差ない。

 違いはそこに搭載されているAIの学習具合だ。

 ラーニングの違いによって、例え同じ車種でも変化が生じる。

 例えば、走行中に退屈しないように話し相手になってくれたりする車両もあるらしい。

 浩一郎の場合は、完全に無言だけれど。

「……ふー、着いた」

 浩一郎は車から降りて、ぐっと大きく伸びをする。

 全然眠れなかった。まあ危うく事故を起こしそうになったのだから無理もない。

 神経が昂っているのだろう。ああいうシーンは苦手だから。

 浩一郎はパタンとドアを閉め、目の前の建物を見据える。

 絢爛豪華――とは程遠い。どこまでも無駄を省いた鋼鉄の城。

 ガラス張りの全面と外観より機能性と優先したたたずまい。

「……相変わらず、色気なんてないなあ」

 とはいえ、そちらの方が浩一郎にとっても都合がいい。

 変におしゃれな感じを出されても、彼のような人間には入りづらかったりするのだから。

 なんて事を思いながら、建物に入ろうとした、まさにその時だった。

「よう、コーイチロウ。今からか?」

 同僚が声をかけてくる。浩一郎は下手な苦笑でそれに応じていた。

 相変わらず、この時間は苦手だ。誰かと顔を合わせて話をするのは疲れる。

 浩一郎が自分のラボに着く頃には、既にへとへとだった。こんな事ではだめだと自覚はあるのだが、どうにもならないものはどうにもならない。

「……ふー」

「ふふ、毎日毎日お疲れね」

「……リンダ?」

 浩一郎が声の主に目を向ける。そこにいたのは、コーヒーカップを片手に微笑む女性だった。

 整っていてキリッとした美しい顔立ち。高い身長と抜群のプロポーション。

 しかしそのどれをとってしても、彼女から漂ってくるのは暖かな雰囲気だ。

 リンダ・J・フォールマン。浩一郎をこのラボに連れて来た張本人だ。

「まあ……ね。僕は一人が好きだから」

「あら? なら、私はいない方がいいかしら?」

「いや、そんな事はないが……」

 こういう女性は時として冷徹な雰囲気を纏うものだ。が、リンダにはそれがなかった。

 その理由は、彼女の性格にあるのだろう。

 周囲への気遣いと笑顔を忘れず、それでいてしっかりと自分の芯を持っている。

 天性のリーダーシップを持っている人物だと浩一郎は思っていた。本人に言った事はないけれど。

「ふふ、わかっているわ。それより、何だか臭いわよ?」

「え? ……ああ、何日もシャワーを浴びてないから」

「だめよ、そんな事では。ラボのシャワーを使うといいわ」

「いいよ。僕は別に平気だ」

「だめよ。それではサラが悲しむわ」

 娘の名前を出されて、浩一郎はむっと言葉を詰まらせた。

 確かに、サラはこのままの浩一郎をよしとしないだろう。

 病室からは逃げるように出てきてしまったため、そんな指摘はなかったが。

「……わかったよ。それじゃあ少し浴びてくるよ」

「ええ、それがいいわ。研究者には身嗜みにも気を使わないと」

「僕は研究者ではなく技術者なんだけれど……」

「そんな事は重要な事ではないわ」

 リンダはひらひらと手を振って、浩一郎をシャワー室へと送り込む。

 全く……と独り言ちながら、浩一郎は脱衣室で衣服を脱ぐ。

 と、確かにリンダの言う通りだ。むわっとした不思議な匂いが鼻を突く。

 自分でもわかるくらいなのだから、相当だ。

 浩一郎はシャワー室に入ると、蛇口を捻った。すぐに暖かいお湯が出てくる。

「……ふう」

 こうして温水を浴びていると、汚れと一緒に疲れも流れていくようだ。

 考えてみれば、ひまわりを作る際にまともな休息はとっていなかった。可能な限りはやく作りたかったし。

 浩一郎は吐息とともに思案する。

 もし、ひまわりが完成しなかったら自分は今頃どうしていただろうか?

 たぶん、這いずってでもここに来ただろう。生活もあるし、何よりサラの治療もある。

「サラ……」

 思考の波は娘の事へとシフトする。大切な、たった一人の家族へ。

「ねえ、ちょっといい?」

「どぅわああッ!」

「ぷっ、あははははっ! 何今の声?」

「君が突然話しかけてくるからだっ!」

「乙女かって話よ」

「ぐっ……それで、何の用だい?」

「んーと、まあ何というか、コウイチロウは私が連れて来たわけじゃない?」

 ピーンと、その時浩一郎の頭の中で何かが光った。いや、閃いた。

 これは、限りなく面倒な話をされると。

 しかしここはシャワー室。つまり逃げ場はない。

「君……それは今しなくちゃならない話なのかい?」

「あたり前でしょ。いえ、何だったら遅かったくらいよ」

 遅かったとは一体どういう事なのだろう? 

 ともかく、今はだめだ。逃げ場がない。

「サラもそろそろ、新しいお母さんが必要だと思うの」

「……あ、ああ……ええと、まあそうかも」

 いや、だからこそひまわりを作ったわけだけども。

 なんて事を思ったりもしたが、そういえばその事は話していなかったなと思い出す。

「大丈夫だよ。サラには母親なんて……」

「だめよ」

 優しく、ふんわりと。それでいて力強く否定され、浩一郎は二の句が継げなかった。

 無論、それはリンダにとっても計算の内だったのだろう。彼女は話を続けた。

「サラの母親の事は、私はよく知らないけれど、でも……」

 リンダはそこで一端言葉を区切った。すぅっと息を吸い込む気配がする。

「きっと……素敵な人だったんだと思うわ。サラがあんなにいい子に育ったんだもの」

「…………」

 リンダの手放しの称賛を受け、浩一郎は返事を躊躇った。

 いや、何も言葉が出てこなかったというべきだろうか。

 サラの母親は研究職とは無縁な人物だった。

 死因は殺人。しかし彼女が誰かから恨みを買うような事はなかったはずだ。

 強盗の線が濃厚だと警察は言っていた。けれど、その後捜査に進展はなかった。

 それからおよそ一年。捜査は続けられているようだが、これ以上新しい発見は望めないだろうと浩一郎は思っている。

 彼女をこの世から葬り去った人間を見つけ出して、八つ裂きにしてやりたい。

 当時はずいぶんとそう思ったものだけれど、今はそんな気は少しもなかった。

 サラがいるから。彼女の母親がいなくなってしまった以上、血の繋がらない娘だけが浩一郎の生き甲斐だった。

「……僕は、その気持ちだけで十分だよ。ありがとう、リンダ」

「……はあ、わかったわ。でも忘れないで」

 一呼吸置いて、リンダは続ける。

「私は、あなたの事もサラの事も大好きだわ。愛してると言ってもいい」

「むぐっ……!」

 相変わらず、恥ずかし気もなくそんな事を言ってのけるリンダに、浩一郎は口の中から何かが飛び出しそうになった。

 日本を発ってだいぶ経つけれど、今だにこの部分は慣れなかったりする。

 浩一郎はカーッと全身が熱くなるのを感じた。

恥ずかし気もなくそんな事を言わないで欲しい。こっちがおかしいみたいだ。

 すぅっと息を吸った。それから左胸に手を当て、呼吸を整える。

「……気持ちは嬉しい。でも、僕は誰かと一緒になる気はないよ」

「あらそう?」

「ああ……」

「でも、サラはどうするの? これからもずっと?」

「ああ、僕一人で育てていくつもりだ」

 なぜなら、あの子は彼女のたった一つの置き土産なのだから。

 浩一郎は今は亡き恋人の顔を頭の中に思い浮かべ、苦笑する。

 これも執着なのだろうか? おそらく、そうだ。

 彼はシャワーと止めた。水音がしなくなり、ポタポタと貧相な体から流れ落ちる滴だけがその場の沈黙を破る。

「……まあいいわ。別に今じゃなくてもチャンスはあると思うし」

「今の話を聞いて、まだ諦めないのかい?」

「一度や二度の失敗で諦めてたら、研修者なんて務まらないわ」

 それはそうだ。研究なんてそれこそ、失敗の連続なのだから。

 浩一郎はリンダの言い分に思わず納得してしまっていた。

 浩一郎が感心していると、リンダが扉から体を離す気配がした。

「じゃあ私はそろそろ行くわ。今日はこれから用事もある事だし」

「用事? それって一体……?」

「……例のあれよ」

 例のあれ……と言われたところで、思い当たる事はなかった。

 むーん、と浩一郎は考え込む。が、いい答えは見付からなかった。

「じゃ、私はこれで」

 スタスタとリンダはシャワールームを出て行ってしまう。

 まあ何はともあれ、これでとりあえず外に出れる。

 浩一郎はふぅと吐息して、シャワールームを出たのだった。

 

 

                      ○○

 

 

 まだ朝も早いからだろうか。研究所にはほとんど人影はなかった。

 浩一郎はきょろきょろとあたりを見回す。本当にリンダはいなくなってしまったようだ。

 その事にほっと安堵する。ちょっとこれ以上彼女の顔を見るのは心臓に悪い。

 浩一郎はそのまま、トボトボと歩き出す。自分が普段使っている作業部屋へと向かって。

 と、その途中でばったりと人と出くわした。

「ん? ああ、なんだ浩一郎か」

「……鈴村。どうしてこんな時間に?」

 浩一郎の前に現れたのは、同僚の鈴村だった。

 鈴村錬太。浩一郎と同じ日本人で、ここでの彼の一番の親友だった。

「俺は昨日から徹夜だよ。今から帰って寝るところだ」

「徹夜って……一体何を?」

「まあちょっとな。バイオテクノロジーを活用した新しいセクサロイドを……」

 言いかけて、鈴村は大きくあくびをした。本当に眠たそうだ。

 それに、さっきの単語で何となく彼のやっていた事がわかった。

 浩一郎は苦笑して、大変だな、と声をかける。

「そっちこそ、すげー眠そうだぞ?」

「いや、僕の方は大した事はないよ。仮眠も取ったし」

「仮眠って……それでも二徹はしてるだろ?」

「大丈夫だって……」

 本当は何日も寝ていないのだが、それをわざわざ言うつもりはなかった。

 浩一郎は錬太に手を振ると、そそくさとその場を離れる。

 これ以上追及されたら、余計な事を口走りそうだった。

 それはよくないと自分に言い聞かせる。それにしても、だ。

「……相変わらずだな、彼は」

 浩一郎は独り言ちて、ほうっと息を吐いた。

 次の瞬間には、浩一郎の意識は親友から愛する一人娘と世話をしているはずのアンドロイドへと移っていた。

 二人は、大丈夫だろうか。……少し心配だった。

 

 

                     〇〇

 

 

「……ねえひまわり、あなたは一体何ができるの?」

 浩一郎が姿を消して少ししてから、サラは目の前の女性へと声をかけた。

 正確には、彼女は女性ではない。ロボット――アンドロイドだと父親は言っていた。

 自分の身の周りの世話をさせるために作ったロボットだと。

 父、浩一郎のその心遣いはありがたかったが、サラとしては不要だと考えていた。

 なぜなら、彼女は自分の事は大抵何だってできるし、時々浩一郎の事さえサラが取り仕切る事があるからだ。

 今更そんなロボットなど不要だ。

 とはいえ、せっかくのプレゼントだ。無下にする事も出来ずに受け取ってしまった。

 そしてこれまたせっかくなのだから、活用しようと考えるのは自然の道理だろう。

「……私ですか?」

「あなた以外にこの部屋には誰もいないわ」

「私は何でもこなせます。料理に運動、勉強を見て差し上げる事もできます」

「ふーん? ……でもあたし、一人で何でも出来てしまうわ」

「一人で何でも……ですか」

「ええ、その通りよ」

 サラは年の割にはしっかりしていた。いや、しっかりし過ぎていた。

 まあ父親があれなのだから仕方がないのだが、それでも子供らしさという点ではきっと同年代とは比較にならないだろう。

 どうとは言わないけれど。

 ひまわりはふとそんな事を考えた。が、すぐに必要のない事だと記憶領域から抹消する。

「では、サラは私に何も望む事はないと?」

「それは……」

 サラが言葉に詰まる。それほど返答が難しい事を言ったつもりはなかった。

 ひまわりはサラの様子に小首を傾げ、思案する。

 今のはなかった事にして、何か別の話題を探すべきだろうか? サラが困った様子なのだから、そうすべきなのだろう。

 ひまわりは自身の中にある検索エンジンを起動する。今の状況に妥当な話題を探した。

 もちろん、ヒットは多い。けれど、サラが気に入りそうな話題は見付からなかった。

「ねえ、ひまわり」

「はい、何でしょうか?」

「あなたは……あたしのママについてどれくらい知ってるの?」

「お名前くらいです。後は何も知りません」

「……そうなんだ」

 サラはどこか寂しそうに呟いた。その事に引っ掛かりを覚えたが、ひまわりにそこまでの機微が理解できるはずもなかった。

 何はともあれ、話題は逸れたようなのでよしとしよう。

「時にサラ。私に何かして欲しい事はありますか?」

「ひまわりに? んー……だったら、りんごが食べたい」

「りんご? ええ、構いませんが、そんな事でよろしいのですか?」

 きっと、目の前の小さな少女が願う事なら、何だってできる。

 もしかしたら、サラが望むのなら世界征服だって可能だろう。そんな謎の地震がひまわりには存在した。

 自信……人間ではない身分で自信を持つなど、おかしな話だ。

 ひまわりは首を振り、不意に浮かんだその考えを抹消する。

「どうしたの? 大丈夫?」

「ええ、問題ありません。少々お待ちください」

 ひまわりは踵を返し、サラの病室を出た。

 どこかで看護師を捕まえて、りんごを手に入れなくては。場合によっては買いに出かけなくてはならないだろう。

 幸い、ひまわりはネットバンクと連携されている。買い物は可能だ。

 なら、何も問題はない。と、ひまわりが廊下を歩いていると、看護師と遭遇した。

 自動化、機械化が進む現代社会において、それでも看護師は人間の仕事だ。

 一昔前まではここも機械によって代替されると言われていたが、実際にはそうはなっていない。その理由は様々だが、一番の要因は人間の傲慢さ故だろう。

 機械に看護師としての仕事は務まらない。そんな意地が、彼らをいつまでもこんなところに閉じ込めていた。

「あの、すみません」

 ひまわりが声をかけると、看護師はくるりと振り返った。目一杯愛想を振り撒いているその姿は、あまり幸せそうには映らない。

「はい、どうされました……か?」

 一瞬、看護師の笑顔が引っ込んだ。なぜなのか、考えずともわかる。

 ひまわりがあまりに人間らしいからだろう。それでいて一目で人間ではないとわかるのだから、相手からすれば奇妙に映るかもしれない。

 ひまわりはそんな事を冷静に分析しつつ、当初の目的を遂行するために言葉を発する。

「りんごを一つ頂きたいのですが?」

「りんご……ええと、申し訳ありませんが、当院ではそのような事はできない決まりになっておりまして……」

「そうですか。それは失礼しました」

 ひまわりは看護師に一礼して、彼女の脇を通り過ぎる。

 ならば、後は買いに行くだけだ。

 一瞬の逡巡もなく、ひまわりは病院を出た。

 この辺りの地理や周辺店舗などは把握している。

 一番近いりんごを売っている店はわかっているのだから、そう時間はかからない。

 ひまわりはきょろきょろとあたりを見回しながら、目的地へのルートを検索する。

「――ルートを確立。これよりミッションを開始する」

 独り言ちて、ひまわりは歩き出した。

 なんて大袈裟な事を言ってはいるが、歩いて五分くらいの位置にスーパーマーケットが存在するのだから、やはり大袈裟以外の何ものでもなかった。

 ひまわりは店舗内を歩き回る。顔は常に正面を向いているが、三六〇度カメラのお陰で人や物、商品などを見落としたりする事はない。

 すぐに青果コーナーへと向かう。

 このあたりは日本人も多く暮らしているからだろう。店舗内は割と日本よりの作りになっていた。

 ひまわりは自分の中にある日本のスーパーのデータと照合し、そう判断する。

 細かいところで違いはあるものの、全体的に日本風だ。

 購買層に合わせている、というのももちろんあるのだろうが、この店の店長の趣味も兼ねているのだろう。

 ひまわりは青果コーナーでりんごを手に取る。

 店内はいくら日本風でも、売られているものは地元の物が多い。

 日本にはない品種だった。これは、彼女の中にデータとして存在しない。

 おそらく、浩一郎がこの手のデータを集めるのを面倒臭がったのだろう。

 それに対して、ひまわりは特段何も思わなかった。元々そういうふうに設計されていないのだから、当然と言えば当然だが。

「後はこれを購入すれば、ミッションの第一段階はクリアですね」

 ひまわりは感動した様子もなく、そう呟いた。無論、これくらいで感動など人間ですらしないだろう。

 踵を返し、レジへと向かう。人が並んでいた。

 最後尾へと並んだ彼女を、前の客がちらりと振り返る。

 彼女の顔を見て、それからその手の中にある物へと視線を落とした。

 ひまわりが持っていたのりんごだけだった。人の好さそうな婦人はにっこりと微笑み、彼女へと声をかける。

「よかったら、先にどうぞ」

「え? ええと……しかし」

 言われて、ひまわりは困惑した。ルールに反しているからだ。

 社会秩序は遵守しなければならない。そうプログラムされているからだ。

 ひまわりが困惑していると、婦人はふふ、と上品に微笑んだ。

「いいのよ。だってあなた、それだけなのでしょう?」

「…………」

 ひまわりは自分の手の中にある物を見て、また婦人を見た。

 はて、一体どうするべきなのだろう?

 こんな事はインプットされていない。

 ひまわりが迷っていると、婦人はふふ、と含み笑いのようなものを漏らした。

「ごめんなさいねえ、困らせてしまったわね」

「あっ……いえ……」

 咄嗟に否定しようとすると、婦人の順番が回って来た。

 婦人は自分の買い物かごを置いて、それからちょいちょいとかごの中を指差す。

 ひまわりは婦人の行動の意味がわからず、更に首を傾げる。

「ここにそれを入れてちょうだい」

 言われて、ひまわりはわけもわからないまま、りんごをかごの中に入れた。

 会計が進む。たくさんの婦人の購入品。その中に、りんごもあるわけで。

 そしてひまわりのりんごはレジを通り、合計金額が算出される。

 婦人はにこにことした笑みを浮かべたまま、会計を済ませた。

 鮮やかな手際、というより他になかった。ひまわりが口を挟む隙などなく。

「す、すみません。あの、私電子マネーしかなくて……」

「いいのよ、これくらい。それよりこれ、手伝ってくださる?」

「え? はい、もちろん」

 ひまわりは婦人の購入品を袋に詰めていく。このあたりは何年も変わる事のない光景……らしいのだが、ひまわりにはよくわからなかった。

「次は車まで運んでほしいわ」

「ええ、わかりました」

 ひまわりは婦人に言われた通り、彼女の後ろに付いて行く。

 婦人の車にたどり着いた。婦人が車に向かって話しかけると、ドアが一人でに開いた。

「ありがとう、助かったわ」

「いえ、これくらい……それで、何かお礼をしたいのですが……」

「あら? お礼ならもうしてもらったじゃない」

「え……?」

 婦人は言うが、ひまわりとしては全く覚えがなかった。

 困惑していると、婦人は例のにこにことした顔のまま、続ける。

「ここまで荷物を運んでもらったわ。それで十分」

「しかし……」

 これでは、彼女の中にある倫理規定と齟齬が生じてしまう。

 平たく言って、気持ちが悪い。何かお礼をしたいと思うのだが、では何をするべきかがわからなかった。

「気にしなくていいのよ。……あなたって何だか小さい女の子みたいなんだもの」

 ふふ、とまた婦人が笑う。

 小さい女の子。そう言われて、しかしひまわりはきょとんとしていた。

 それはそうだ。自らの見た目年齢くらい把握している。

 彼――浩一郎は元恋人の姿を模して作った。なら、少なくとも二〇代後半のはずだ。

 それを子供のようだとは。申し訳ないが、この婦人は少々ガタが来ているのかもしれない。

 ひまわりはひっそりとそんな事を思ったが、もちろん口にはしなかった。

 いや……彼女からしてみれば、この姿は十二分に子供と言って差し支えないのかもしれない。

 ひまわりはぼんやりとそんな事を考えながら、どうしたものかと思案する。

 せっかくの申し出なのだから、ここは素直に受け取っておくべきだろうか? それとも、お断りをするべきだろうか?

 まだ小さな子供、という表現は、一面では真実だった。

 ひまわりはまだ起動して間もない。子供と言えば子供と言える存在だ。

 その証拠に、今まさに対応に困った事態に遭遇している。こんな時、人間の成人ならうまい切り返しができるのだろう。

「ええと……では、お言葉に甘えて……」

 ひまわりが言うと、婦人はにこっと更に笑みを深くした。

「ええ、それがいいわ。だけれど、一つお願いがあるの」

「お願い……ですか?」

 ピンとひまわりの中で何かが結び付いた。

 なるほど。こうやって最初に相手に施しを与えてお願いを断りにくくするのか。

 ざっとネットをさらう。と、返報性、という言葉がヒットする。

 何かをされたらお返しをしなくてはならないという人間の心理だ。

 ひまわりははてどうしたものかとこれまた思案した。

 ここでそのお願いとやらを突っ撥ねるの簡単だ。どれだけ人間に似せて作られていたとしても、ひまわりは人間ではない。人間の心理が当てはまるはずもなく、故に断るのは容易い。

 ここはもう少し話を聞くべきだろうか? 下手を打つと人間ではないとバレてしまう可能性もあった。

 ダメなのか? と問われればひまわりにはわからなかったが、おそらく浩一郎はその点かいを望んではいないだろう。

 だから、ここは慎重に行動するべきだ。

 ひまわりは聴覚センサーと資格センサーを可能な限り高出力で稼働させる。

 婦人の言質から一挙手一投足に至るまで、何もかもを見逃さないように。

 そうして待っていると、婦人はふふ、と笑みを漏らした。

「別にいいのよ、そんなに身構えなくても」

 よほど表情が強張っていたのだろうか? いや、そんな事はなかったはずだ。

 ひまわりは自分の表情を手でなぞる。平静と何も変わらない、普通の顔だ。

 けれども、婦人はひまわりの異常を感じ取った。警戒心が何らかの形で表に現れていたのだろうか。

 ……後で浩一郎に報告をしなくては。

 ひまわりはそう決め、それから婦人を見詰める。

 余計な事は言わず、婦人の言葉を待つ。

「ふふ、ただ……あなたも誰かが困っていたら、助けてあげて欲しいだけよ」

 婦人は何てことない事のようにそう言った。

 ひまわりはわずかに目を見開いた。そんな事をとは、露ほども思っていなかった。

「え、ええと……」

 ひまわりは返答に窮していると、婦人は車に乗り込み、パネルを操作する。

 それから「じゃあね。また会いましょう」と言ったきり、走り去ってしまった。

 ぽかんとその場に立ち尽くすひまわり。彼女の右手には、りんごが握られていた。

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