ルージュの弾丸
岩井喬
第1話【第一章】
【第一章】
西暦二〇四八年、八月十五日。午後十時三十分。
「いらっしゃいま――」
と言いかけて、バーテンダーはグラスを磨く手を止めた。いや、グラスを取り落とさなかっただけ肝が据わっていた、というべきだろう。その代わり、私を直視しながら目を丸くしている。
私は赤いジャケットをを軽く揺らしながら、店内を軽く見まわす。
手狭な店内は隅々まで磨き上げられ、木目を意識した装飾に反射する照明が柔らかだ。バーテンダーの背後の棚にはボトルが並び、そこが怪しい闇を演出している。いかにもオトナの空間、といったところ。
密告者との接触場所がこんな洒落たところだとは思わなかった。もし分かっていれば、まだ服装を考えてきたのに。
それに、胸ももう少し盛って――いや、それは叶わぬ願望だ。それでも、せめて華島課長の胸の三割でもあれば、などと不埒な想像をしてしまう。
すると、バーテンダーは私に小さく手招きし、グラスを置いた。
「特警の新任捜査官が、あんたみたいな女だとは思わなかったぞ」
きっと私の身のこなしから、『その手の人間』だと判断したのだろう。
私は言葉を交えることなく、胸元から一枚のシートを取り出す。シートはくるくると展開し、そこに私のプロフィールが表示される。
バーテンダーは無言でそれに目を通し、諦めたようにため息をついて、一枚の薄いディスクを手渡してきた。
私もまた、無言でそれを受け取って、店の奥へと踏み入っていく。
「お、おい、そっちは化粧室だぞ」
細い声で告げてくるバーテンダーの前で、私はありったけの愛嬌を込めて笑顔を作った。
「バディと合流します。これからも、警視庁特別警戒局をご贔屓に」
無論、私が化粧室に入ったのは用を足すためではない。そこには、ちょうどよく大きな窓が配されていた。
小雨が降っている。だが、風が強い。これで上手く着地できるだろうか。
私が窓をスライドさせた、まさにその瞬間だった。
《紺野! 紺野美咲警部補! 今どこだ?》
耳に装備した端末から、やや慌てた様子の男の声が聞こえてくる。
《こちらはビル裏口で待機中だ。密告者からの情報は受け取ったんだろう? さっさと降りてこい!》
あーはいはい。分かりましたよ。そう胸中で呟いて、私はヒールを脱ぎ捨て、デイパックに圧縮収納していたコンバットブーツを展開。ちゃっちゃと履き替える。
プリーツスカートもその場で脱ぎ捨て、登山にも用いられるような強繊維の長めのズボンに足を通す。
こんなところ、山路幸雄――私のバディが見たら卒倒するだろう。ま、実際にはいないからいいんだけれど。
件の山路は、まだ何か言い足りないのか、もごもごと不明瞭な言葉を漏らしている。
それでも、『さっさと合流しろ』という意図であることは明白だ。
「はいはい、せっかちね」
そう呟いて、私は何の躊躇もなく、ひょいっと窓から飛び出した。地上四五〇メートルの高みから。
びゅわっ! と下方からの風に打たれ、黒い長髪が靡く。雨粒よりも私の落下速度が速く、足元から私のズボンとジャケットを這い上がってくる。だが私には、それを心地よいと感じるほどの心理的余裕がある。
短絡的? 無計画? 批判は大いに結構。どうせ、同様の文言で山路警部補の愚痴に付き合わされるのは明らかなのだ。
私は落下途中でありながらも首を曲げて、周囲を見渡した。背後には、今私が飛び降りた高層ビル。遠くに目を遣ると、東京湾岸の工業地帯が目に入る。赤、青、緑といったランプがチカチカと私の瞳を刺す。
その微かな痛みは、二酸化炭素や有毒廃液を垂れ流しながらも、未だに人類が生存を図っていることを明確に示している。
そうそう、この雨もそれなりに強い酸性雨。私の髪質にはよくないのよね。
そんなことを思っている間に、ぐんぐん地面が近づいてくる。私は無造作に右の拳を突き出し、ブーツの裏を水平にする。
さらに腰を折り、背中を丸めるようにして拳に全神経を集中して――。
ドガァン! という轟音と共に、私は着地した。衝撃に揺さぶられ、そばに停車していた車が二、三メートルほど跳び上がり、ぐしゃん! といって地面に落ちる。
この車が一般車両だったら、四つのタイヤはすぐさまパンクしたところだろう。だが、私と山路の通信内容が確かであれば、この車こそ、山路の搭乗する警察車両だ。この程度の衝撃で穴が空くほど、柔なタイヤを使っているわけではあるまい。
代わりに大変だったのは私の方だ。四肢に異常なし。着地は成功。と、言いたいところなのだが、流石に落下に伴う私の運動量を相殺しきれず、アスファルトが五十センチは凹んだ。のみならず、私の周囲三メートルは地面が褶曲し、周囲にアスファルト片が降り注いでいるという有り様だ。
「おい、紺野! 危ねえだろうが!」
「失敬」
私は肩を竦めながら、おどけた調子でそれだけ言った。
「たまたま夜中で人通りがなかったからよかったけどな、お前みたいな人間が空から降って来るなんて、一般市民が見たら絶叫ものだぞ!」
「そう?」
私のバディ、山路幸雄警部補は、窓から身を乗り出しながらぐしゃぐしゃと頭を掻きむしった。
「ああもう! いいから乗れ! それと、ディスクを寄越せ! 通信して本部で解析させる!」
「はいはい」
私はポケットからディスクを取り出しつつ、山路の隣、助手席へと乗り込んだ。
山路は早速、ディスクをハンドル下の通信装置に読み込ませ、情報の転送を開始する。
山路幸雄警部補とは、そこそこ長い付き合いになる。少なくとも、先月二十歳を迎えたばかりの私の記憶にある限り、家族を除けば古参の部類に入る。
ふと、両親と弟の顔が脳裏をよぎったが、今は無視。任務に支障を来す恐れがある。
私が軽くかぶりを振っていると、山路の運転する車――覆面パトカーは急発進。思いがけず、私はシートに背中を押し付けられる。
「紺野、ちゃんと密告者には顔を覚えてもらったんだろう?」
「まあね」
「お前は刑事としてはまだ駆け出しだ。階級は同じ警部補だが、指示には従ってもらうからな」
再び『はいはい』と答えようとして、止めた。何だか山路の機嫌を無駄に損ねるような気がする。それよりも。
「ディスクのデータ、まだ返信来てないんでしょ? どうして発車したわけ?」
「お前が無茶して飛び降りてくるからだろうが! ここは民間人の居住区画内なんだ、今の音で跳び起きた住民に、所轄に通報されたら面倒だろう?」
「ああ」
それで移動したわけね。取り敢えずこの場からは離れよう、と。
私は納得していたが、一方の山路はハンドルを握ったまま深いため息をついていた。私が『ああ』なんて呑気に答えたのが原因かもしれない。
横目で見ると、山路がいかに冴えない男か、非常によく分かった。
長身痩躯なのはいい。問題は顔つきだ。叫ぶ時以外は、大体目に力がない。ジトッとしていて無気力そうだし、いつも眠そうだ。
無精髭を点々と纏った頬はげっそりとこけていて、とても健康そうには見えない。
幸いなのは、刑事という職にありながら煙草を嗜まない、ということだ。もし吸われたら、私の髪に臭いがついて困ること間違いなしだろう。
さて、車が環状線に入ろうとした時、タイミングを計ったようにディスクの解析結果が来た。
「あら、早いじゃん」
「早いじゃん、って、悠長なこと言ってる場合か! これで、今日の狩場が分かったってのに」
狩場――私たちが管轄する中で、制圧目標と定めた場所のことだ。
私たちは警察の人間だから、当然狩りの対象となるのは犯罪者。大体は麻薬の密売をしているゴロツキが多い。早い話、大した獲物ではない。
「今回の獲物は?」
私が欠伸混じりに問うと、山路は運転席に座り直し、やや姿勢を正した。
「カナダからの大麻の密輸だ。ったく、あの国は大麻を合法化してるんだぞ? 全く考えられん」
「あっそ」
「おい紺野、俺たちの仕事が増やされてるんだぞ? もっとこう、感情的にならないのか? 許せないとか、とっ捕まえてやるとか」
「うーん」
私は両腕を後頭部に遣って、『特にそこまで考えないかなー』と呟く。案の定、山路はやれやれとかぶりを振っている。
正直、私にもよく分からない。犯罪を取り締まるという今の仕事に不満はない。というか、不満を覚えるほどの愛着がない。
「ま、今の私の仕事だから、ってだけかなー」
「お前、よくそれで命張れるよな」
ちらりとこちらに一瞥を寄越す山路。
「で、現場到着までは?」
「あと十分ほどだ。旧横浜港に近い沿岸エリア。やっぱり、違法薬物の売買が目的のようだな」
今度は私がため息をついた。
「変わらないねえ、今も昔も」
これには山路も頷いて、『全くだな』と肯定した。
私と山路は古い付き合いだが、私が警察の、それも警視庁特別警戒局に配属が決定されたのはつい一週間前のこと。
私の事情を知る山路が、私のバディになってくれたのは好都合だった。多少の無茶は許してくれる。山路にしてみれば、私はとんだトラブルメーカーだろう。
だが、私にもいろいろ事情はあるし、山路はそれを知ったうえで、こうしてそばにいてくれる。有難いのは山々だが、それをわざわざ言葉にするほど、私は野暮にはなれない。
などと考えていると、『着いたぞ』という彼の声が、私の黙考を止めさせた。
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