第2話

 何がどうなっているんだ。


 もう一度、今の状況を頭の中で整理してみよう。


 今日は学校が始まる日だったので、朝早くに家を出た。


 そして不運にも吹雪に見舞われてしまった。


 そのせいで凍った道路に足を滑らせて転倒。立ち上がるもまた転倒し、後頭部を強打。多分だが、このときに意識を失ったのだろう。


 歯車に挟まれた後、目が覚めたら、やたら高級感が漂う屋敷の一室みたいなところで寝かされていた。ここがどこなのかは見当もつかない。スマホも圏外。


 すると突然、扉から赤い髪の小さな女の子が現れて、俺を召喚したやらこの世界は異世界やらなんやらと説明になってない説明をし始めた。


 で、いきなり。


「キスしてくれ!」

 

 こう言い放った。俺は今、彼女にソファーの上で仰向けに倒されている。


 長い紅色の髪から春に咲く花のようないい匂いがする。大きなつり目の瞳は、決意を固めたような瞳だった。


「え、え?」


 小さく柔らかそうな唇がどんどん迫ってくる。


 俺、キスされるの? 


 そういえば今までキスされたことって一度もないような――


「って! ちょっと!」

「ど、どうしたんだ!?」

「いやいや! どうしたもこうしたもないだろ!」


 我に返って慌てて女の子を払いのけ、ソファーから立ち上がる。女の子はなにか間違えた? みたいな顔で俺を見つめている。間違いなく間違えている。


「キスするのって、もう少しこう……順序? みたいなのがあるだろ! お互い好きになって、ロマンチックな雰囲気になって、そこでいよいよ……的な!」

「そ、そうなのか?」

「少なくとも俺の中ではそうだよ!」

「なるほどな……」


 フランスとかでは、挨拶としてキスする風習(チークキスというらしい)があるらしいが、それでもいきなり唇同士を思いっきり合わせるようなことはしないはずだ。女の子がやろうとしていたのは、間違いなくそういう挨拶の類のものではなかった。


 女の子は俺の言葉を聞き、腕を組み何やら考えているようだった。そして改めて口を開き始めた。


「順序が大切だというならまずは自己紹介からだな。私はマゼンタ。この国、ブーゲンビリア王国の姫、だった者だ。今は訳あって山奥にあるこの家で一人で暮らしている」

「は、はあ……」


 マゼンタ。それが女の子の名前であるらしかった。


 マゼンタとは確か、色の三原色の一つだ。でもその色は明るく鮮やかな赤紫色で、彼女の髪の色とは異なる。彼女のそれはブラッドレッドとかの、もっと暗い感じの色だ。


 名は体を表すともいうけど、割とどうでもよく付けられているものだとも俺は思う。俺の名前の「早斗はやと」だって、計算よりも早く生まれたからという理由で名付けられたものだし。


 それに、姫だった者。という言葉が少し引っかかる。そのまま解釈すれば今は姫ではないということだろう。


 でも元とはいえお姫様なら、もっと口調とかが丁寧な気がする。「~ですわ」みたいな感じ。でも彼女はお姫様、っていうか普通の女の子としても、ぶっきらぼうな言葉遣いだ。


 それにここが異世界だというのなら、俺がいた世界では俺の存在はどうなっているんだろうか。


 行方不明? それとも……どうなっているんだろうか。考えるのが怖い。


「おい。次はお前だ!」

「え?」

「お前の紹介をしてくれ。私はとにかく異世界の人間を召喚したいってだけで必死だったから、お前のことは何も知らないんだ」


 女の子……マゼンタの乱暴な声で現実に引き戻された。いや、これは本当に現実なのか? もしかしたら、夢を見ているんじゃないか? 本当の俺は意識不明で病院かどっかで寝てるんじゃないのか?


 ふにっ。


「ほ、ほうひたんは!? ひひなり、ほほをひっはるはんへ!?」


 ソファーに座って、隣にいるマゼンタの頬を指でつまんで、引っ張った。もちもちで柔らかくて、よく伸びた。そしてほのかに温かい。女の子特有の柔らかな肌だった。感触は確かにある。


 ひょい。


「な、なにをするんだ……?」


 今度は逆に、マゼンタの手を動かして、俺の頬を引っ張らせた。マゼンタはいきなりの俺の奇行に動揺しているようで、大きな目をぱちくりさせていた。マゼンタの手は細くて小さく、ちょっと力を入れて握るとそのまま折れてしまいそうだった。


 しばらく引っ張らせていたが、やっぱり痛かった。


「ここは、現実、なのか?」

「だから言っただろう。お前がいた世界とは違うけどな。でも、ここも現実だ。夢の中などではない」

「じゃあ俺は今、一体どうなってるんだよ!?」

「向こうの世界でお前は消えたよ」

「え?」


「お前は消えた。そうでなければ、私はお前をここに召喚することができていない」


 毅然とした態度できっぱりと言われた。表情と口調からして、とても冗談とは思えなかった。


 俺が、消えた? いつ、どうやって?

 

 まさかあのとき、後頭部を打ったとき……?


「それよりもだ。早くお前の紹介をしろ」

「ああ、うん……」


 脳内の整理が追い付いていないが、マゼンタが不機嫌そうな声で脱線しかけた話を戻した。


 とりあえず、自己紹介はしておいた方がよさそうだった。

「俺は竹浦早斗たけうらはやと。北海道夕張郡ゆうばりぐん由仁町ゆにちょう出身。でも今は札幌市で一人暮らし中。札幌彩盟さっぽろさいめい高校の一年生だ」

「竹浦早斗……タケウラハヤト…………ウラハヤ?」


 彼女は俺の言葉を聞いてから、考え込むかのようにこめかみに手を当ててそう呟いた。ウラハヤなんて呼ばれたことないし普通に呼んでいいのに。


「それならハヤトでいいよ。あだ名とかは別にいらない」

「いや、でもな……」


 どうやら彼女は俺にあだ名を付けたいらしかった。でも今まであだ名なんて付けられたことないし、欲しいとも思っていなかったのでどうしろと言われても困る。


「まあ後で考えることにしよう。私のことはマーちゃんと呼んでくれ」

「マーちゃん?」

「それはだな……えっと……」


 俺が聞き返すと、マゼンタの目はきょろきょろと泳ぎ始め、強気だった態度が一気に変わった。思いもしなかった反応に、なんだかこっちまで不安になってくる。


「……笑わないで、聞いてほしい」


 彼女は俯きながら、小さな声で呟いた。髪で隠れて表情はよく見えないが、さっきまで獲物を喰らいつくす肉食動物だったのに、今は臆病に逃げ惑う草食動物になってしまったような印象を受けた。


 そしてそのままの体勢で、ぽつりぽつりと言葉を続けた。


「ずっと、夢だったんだ」


「あだ名で呼び合うことも、キスすることも」


 彼女の声は、梅雨のようにしんみりと湿っていた。

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