第29話 case10# YOU GIVE A NICE DAY TO ME
上映終了は朝の五時。田所に揺さぶられて目を覚ます。
目が覚めて百々が初めて気づいたのは、映画をほとんど見ていないと言う事実だった。手をつなげばもう少しドキドキするものかと思ったものの、その実、眠ってしまっていたらしい。
それにしても警察病院まで送ってくれた田所は、あまり目を合わせようとしてくれない。そのぎこちなさにほんの少しでも期待していたお別れのキスなど夢のまた夢となり、帰った時は一番に連絡する、とだけ約束して別れる。
などと浮ついた気分を引きずっていられるのもそこまでだった。地下駐車場の冷ややかさが、乗り込んだエレベータの駆動音が、ここに来た目的を百々に思い出させる。
みな泊り込んだのだろうか。こんな時間にもかかわらずオフィスは通常稼働と騒がしく、仮眠室のシャワーを浴び終えた午前六時、百々はペレーティングルームへと足を踏み入れていた。
目指す丸テーブルではオスロー行きのハートにストラヴィンスキー、ハナが曽我を交え最終確認を行っている。立ち会っているのだろう。腕組みしたままで耳を傾けるレフもまた昨日と同じオレンジ色のTシャツとジーンズで、傍らの椅子に腰かけていた。
決して遅刻したわけではないが最後なら慌てずにはおれない。駆け寄り百々は輪へ加わる。だがそうして交わされた挨拶はといえば、緊張感を伴う目配せだけに終わっていた。
何かあったのだ。感じたそのとき追いかけるようにして百合草は姿を現していた。
歩み寄る百合草は背広をはおっていない。加えてワイシャツの袖もまたまくりあげていたなら、たどり着くなり丸テーブルへその腕を突き立てていた。
「現地時刻、二十時四十五分。日本時刻、本日、四時四十五分。乙部らの踏み込んだIPアドレス先の家屋が仕掛けられていた手榴弾により爆破された」
まさかと目を見開いたのは百々だけだ。
「負傷者は出てるんですか?」
漂う緊張感の正体はこれだったらしい。すでに知っていたと思しきストラヴィンスキーが珍しくも鋭い口調で問い返す。
「現地署員が三名、重体。彼らほどではないらしいが、乙部も病院へ運ばれたとのことだ。まだ本人からの連絡はない」
答える百合草にその服装以外、乱れたところはない。
「一人、ボツワナへ向かうことになるのかしら?」
ハナが確かめる。だが迫られた決断の土壇場加減は昨日の比ではなかった。百合草の頬は苦々しく削げ、やがて決断は下される。
「いや、当該家屋へ人の出入りは確認されていない。証拠物件のほとんどは爆発で粉砕したとも報告を受けている。向かったとして手がかりを失った後なら十中八九、調査は行き詰まることが考えられる。我々は当初の予定とおりジェット・ブラックからのロン追跡に集中。乙部には今後も単独で行動してもらう」
聞き取った頭は周囲で緩慢と揺れ動き、向けて百合草はさらに続けた。
「あの場所からアクセスしていたことは事実だ。ロンの手がかりが残されていたからこそあえてトラップは仕掛けられていた。いいか、今後も同様に手掛かりの周囲にはトラップがあることを頭へ叩き込んでおけ。接近の際はいかなる状況であろうと慎重を極めろ。単独での行動は許さん」
「聞いたか、ミスタースタンドプレー」
すぐさまハートがレフへ目玉を裏返す。
「そっちこそ。家族を泣かせるな、ビッグダディー」
突き返すレフにもスキはない。
「心優しい支援者様が一番の危険人物、ってわけね」
聞き流してハナはこぼし、その横顔を盗み見たストラヴィンスキーも分厚いレンズを押し上げていた。
「でも熱烈歓迎、好きですけどね。僕は」
言わせておいて百合草は、そこでなお表情を引き締める。
「我々の最終目的は SO WHAT 支援者ロンの確保だ。場合によっては次なるテロの阻止を必須とする。入口はオスロー、コートジボワール、ボツワナと三方に分かれるが目的はいずれも違わない。各自、身の安全を考慮したうえで優先順位にのっとり行動を取れ。間違ってもこれ以上、私の肝を冷やさせるな」
そうしておいた一呼吸に思いを強く滲ませた。
「一人残らず戻って来い。終われば好きなだけ飲ませてやる」
などと豪儀な提案にそれぞれの視線はいっとき宙で絡む。見届けて百合草は「以上」とこの場を締めくくった。
経た七時半。ハートにストラヴィンスキー、そしてハナの手が、空港へ向かうべくそれぞれの荷物を掴み上げる。今生の別れでもあるまいし、いや、そうしないためにもそのさい何か特別な挨拶を交わしたことはない。投げたいってらっしゃい、は百々にとってもありきたりな言葉であり、入れ替わりに曽我からコートジボワールまでの旅程を、目的地で蔓延しつつある病原菌についてを、地元警察の協力体制に、WHOに掛け合いミッキー・ラドクリフの身元を確認するよう要請が出されたことを、聞かされる。終われば最後、コートジボワールまでのチケットが挟み込まれた通常のモノとは異なる旅券を受け取っていた。
レフが思い切ったように曽我へ声をかけたのは、百々が支給品の詰まったスーツケースの中身を確認している最中だ。百々たちもオフィスを離れる時間が近づきつつある九時前のことだった。
「裏付けは何もない」
「何の話?」
次々と舞い込んでくる通信をさばく曽我は、その唐突さに片手間と返してる。
「そのせいでチーフに報告しそこねたが……」
瞬間、ヘッドセットのマイクを握り絞めた曽我は振り返っていた。
「それ、どういうことなの?」
何しろ報告し損ねたという言い回しは現状、許されるものではない。
「俺はどこかでジェット・ブラックに会っている」
しかしながら言い切るレフはある意味タフだろう。とたん曽我の口はまさに唖然の「あ」の字に開いて固まり、途中となっていた通信をどうにか片付け改めレフへと向き直っていった。
「あなた、それを今さらわたしがチーフへ言う気持ちになって」
もっともだと目を瞬かせるレフは、さすがに気まずそうだ。
「だがどうしても、いつどこで会ったのかが思い出せない。俺の感覚の中では確かだが、報告すべく現実が曖昧だ。思い過ごしのような気もしてきている。言えば混乱させるだけだと、はっきりするまで控えていた。だがコートジボワールへ発つならやはり耳へ入れておくべきだと判断した。遅くなったことは詫びる」
唇を噛みながらうつむき聞いて、どうにか曽我はうなずき返している。
「わかった。わたしから伝えておく。けれど何か思い出したのなら今度こそすぐに連絡して。あなたが無口なのは私生活だけで十分よ」
きびすを返したレフが足元に転がっていたグレーのボストンバッグを掴み上げていた。
「行ってくる」
「ええ。気を付けて」
低く送り出す曽我の声には少なからず不安がある。
背に聞いてレフは丸テーブルの傍らを横切った。
だがやり取りを見つめていた百々には悲しいかな、会話の全てが聞こえていない。ただそうしてオペレーティングルームの外へ向かうレフの様子に、出発するのだと気づかされる。
「わ、行くなら行くって言って下さいってばっ!」
スーツケースを閉じるとパスポートやなけなしの現金が入ったセカンドバックを肩へかける。ずんずん先行くレフを八方破れで追いかけた。オペレーションルームを飛び出したところで中へ身をひるがえす。
「いってきますっ!」
深い一礼で誰もへ放った。
残念ながら手の離せないオペレーターたちは振り返りもしなかったが、曽我だけがきつく組んでいた腕を解いて手を振り返してくれる。様子を力に変えて今度こそ、百々は通路へ飛び出した。レフはもうエレベータに乗っており、一瞬でもこの調子でゆけば自分はアフリカのど真ん中で置き去りにされるのではなかろうか。心配を過らせる。隣へ飛び込めばエレベータはゆったりドアを閉じていった。
コートジボワールまでおよそ二十四時間。
その手始めに二人を乗せて、地上を目指し動き出す。
そんな日本からオスローへはヘルシンキ経由でおよそ十六時間。
などと一口で言ってしまえば、機内で持て余した時間も光陰矢のごとし。相応の労力を費やしハートにストラヴィンスキー、ハナは日本時間で同日の二十三時。現地時刻で十七時。ノルウェーもオスローの地に降り立っていた。
マイナス八時間の時差のせいで時差ボケは一日が少々長いという程度におさまると、もとより白夜よろしく日照時間がきわめて長い北欧の夏だ。それは馴染むにぴったりの誤差となっていた。
木目が香ってきそうなナチュラル仕様の空港を歩けば周囲は、すっかり色の白い金髪のゲルマン民族ばかりだ。ジェット・ブラックもここならたいして目立つ面構えではなさそうに思え、むしろ三人の方が異質と浮いた存在になっていた。
紛れて今もロンと共謀しているのか。
入国審査を別ゲートで抜け、拾った荷物を手に空港を後にする。夕暮れはそこで夕暮れとも呼べぬほどあいまいな高さを保つと三人を出迎え、見回してロータリーに止まるタクシーへストラヴィンスキーが手を挙げた。協力を仰ぐのだから、オスロー警察へは大きな荷物で押しかけるわけにはゆかないだろう。滞在も一日や二日で終わる予定にないなら焦って駆けつけたところでみあう収穫が得られはずもない。加えて欧州をテリトリーとするCTセクションもまたここでそれなりに動いていると聞いている。本腰を入れた捜査は明日からだ。
街並みは色も形も誰かがデザインしているかのようで、眺めながら一路、ホテルへ向かいタクシーを走らせた。
そしてこれはおよそ七時間後、同日の深夜にあたる。
三人が後にしたオスロー国際空港の搭乗ゲートでは、パリ経由の最終便が離陸準備を整えていた。
無論、彼はその機に搭乗するつもりでいる。だが荷物はといえば彼と行き先を違う予定にあった。それが彼をいまだチェックインロビーの片隅に押し止めている理由にもなっている。
二十三時を過ぎた地点で全てのサービスが終了した空港は昼間のことがウソのように静まり返り、客のほとんども搭乗ゲートをくぐったせいで辺りはなおさら人影がない。
少々不自然が過ぎただろうか。様子に自動販売機の傍らで心配してみるが、もう手遅れだと諦めることにした。何しろ荷物を託す相手は初対面で、勝手気ままと場所を変えることは許されない。
まださほど時間は経っていないはずだったが持ち上げた左腕をひねり、再び時間を読む。それにしても遅いな、と指先で耳を掻いた。だが気をもんだところで機に乗り遅れた時はその時だ、と思えるのが彼の自由な所であり無責任な一面だろう。ゆえに潰す時間などそう残されていないにもかかわらず、あえて時間を潰すためもう一杯、コーヒーを買うことにする。
決まればロックは鼻歌ともれだしていた。
尻ポケットへ突っ込んだ指先から順に自動販売機へと小銭を落としてゆく。
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