紅葉

夢美瑠瑠

掌編小説・『紅葉』



掌編小説・『紅葉』


うらぶれたビルの3階のテナントには、「猫田瞳私立探偵事務所」という看板が架かっていて、

まだ新米で、しかし東大卒でそれなりに頭のキレに自信がある、おなじみ美人探偵の猫田瞳氏の、探偵稼業の本拠地があった。

「あー今日も暇だなあ・・・」キャスター付きの椅子で、机の周りをぐるぐる移動したりして、一人の気楽さで、角度によってはパンティが丸見えになるくらいに机に乗せた両足を開いたりして、門前雀羅の退屈を紛らわしている猫田探偵は、もう午後もだいぶ晩(おそ)くなり陽も傾いてきたので、フィリップ・マーロウよろしく、バーボンウィスキーを呑んでみようかな、と漠然と考えた。彼女はレイモンド・チャンドラーの熱烈なファンなのだ。探偵になったのも彼のハードボイルド小説の影響が強いのだった。・・・飾り棚から茶色いフォア・ローゼスの壜を取り出して、小さめの、秋の陽の光を受けてプリズムのようにキラキラ輝いているグラスに注いだ。

グラスを取り上げて、呷ろうとした刹那に、間の悪い事に、

「RRRRRRR・・・」と、着信音が鳴った。

「チッ」と小さく舌打ちをして、取り敢えず電話を取った。

「こちらは猫田探偵事務所ですが・・・?」

「探偵さんかね?尾行というのも引き受けてくれるんかね?」

「はい。尾行ならお手の物ですよ。日時や場所、人物の特徴、それから尾行の目的、そういうことが明確であれば、特に条件は付けません。多少危険な仕事であっても原則的には厭いません。費用は依頼内容次第で・・・」

電話の主は中年らしい男で、要件はつまり、「ワケがあって、詳しい事情は明かせないが、自分はいわゆる“脛(すね)に傷を持つ身”で、警察とかには頼むことができないのだが、どうも誰かに身辺を嗅ぎまわられているらしい、だんだんに分かってきたのは、相手は刑事ではなくて、やはり私立探偵か何かで、巨額の裏金が絡んでいる自分の“秘密”を何とか暴き出そうとしているらしい。つまり、相手も自分と同じく身許などを明かしにくい裏勢力の関係者に雇われている可能性が高い。現れるポイントや外見の特徴とかは分かってきたので何とか正体をはっきりさせてくれないか。探偵なら名前やら所在を割り出してほしい、そこまでしてもらえれば、あとはこちらで適当に始末をする・・・」そういう話らしかった。「危険と言えば危険な依頼なので、成功報酬で120万円いただきます。詳しいお話はそちらに伺ってお聞きしたいのですが・・・?」

交渉はまとまって、美貌が目立つということを除けば理想的な尾行者の資質を具えている猫田探偵はいつも尾行者が何となく現れるという

東京タワー界隈を、依頼者の「テツオ」氏から適当な距離を保って徘徊することになった。もし、件の尾行者・・・中肉中背、五分刈り、銀縁眼鏡でいつもやくざ風のスーツを着て黒いネクタイをしている男・・・が、現れたら、合図をして、テツオだけは用意していた車でその場を離れる。男がどうするかは分からないが、とにかく後は猫田探偵の判断に任せる・・・そういう手はずになった。

約束の日、テツオ氏が日頃日参している水道橋の不動産会社に、嘘の用事を作って、何度か訪れて、その後しばらく会社付近をうろうろするという「囮作戦」で尾行者の出現を待ち伏せすることにした。

・・・ほどなくして、二度目の「囮」の撒き餌?に、まんまと尾行者が引っかかって、話通りの特徴の胡散臭い50前後の男が現れた。

テツオの合図を待つまでもなく猫田探偵は尾行者をロックオンしていた。距離を保っている三人が平行してしばらく移動した後、あちこちに複数用意していた自動車の一つが素早く接近して、テツオを拾い、どこへともなく姿を晦(くら)ました。

尾行者は明らかに焦って、タクシーを拾おうとしていたが、なかなか捕まらず、やがてどうやら尾行をあきらめたという様子になった。ここからが本番だ。猫田探偵は目立たない服装にサングラスをして、小型のバンに乗って、不即不離に尾行者を尾行追跡していた。男は元来た道を引き返していって、やがて地下鉄の駅に通じている階段口に入っていった。猫田探偵はバンを乗り捨てて、すばやく後を追った。・・・「いた!」さっきの男がプラットフォームに立って、煙草をふかしている。「また不即不離に尾行しなくては・・・」無関心を装って、瞳はそちらに歩き出した。と、視界が真っ暗になった。「静かにしろ!」耳元で低い声がした。誰かが手で瞳の顔を覆いつつ、抱きかかえているらしい。

口を覆ったハンカチのような布からは、クロロホルムに匂いがした・・・と、思った数秒ののちに、瞳の意識は途切れた。

・・・気が付くと、視界はやはり真っ暗だった。

瞳は、空気の肌寒さで自分が素裸であるのが分かった。そうして後ろ手に

縛られている。猿轡(さるぐつわ)も噛まされているらしかった。

部屋の外で、誰かがしゃべっている声が聞こえてきた。

「・・・監禁していましてね。アジトのあるのは例の「紅葉の名所」近くですよ。

ちょっと事務所が他の件でゴタついていて、引き取りに来るのは丸一日かかるそうです。

散々いたぶって、おもちゃにして、シャブをやってから

売り飛ばしましょうや。

親分に煮え湯を飲ませた報いでさあ。

どうせこの女も裏稼業みたいなもんです。

まずバレずに迷宮入りになりますね。ヒヒヒ。」

電話が切れたらしく、静かになった。

ガチャガチャ、と鍵を開ける音がして、キー、とドアが開き、

部屋の中に明かりが入ってきた。

「おや、目が覚めていたか、探偵さん。

うら若い女性には随分ひどい仕打ちをしてすまないな」

「尾行者」を装っていたらしい銀縁眼鏡の例の男が、

ニヤニヤ笑いながら瞳の露わな肢体を舐め尽くすように眺めつつ、

ねばりつくような口調で話しかけた。

「話を聞いていたかい?あんたはまんまと嵌められて拉致されたってわけだ。

あんたは俺等「海鼻組」の親分の身辺調査をして麻薬取引の現場を警察に

タレこんだことがあったろう?

親分やら幹部やらがそのせいで芋づる式に摘発されて、

組は散々な有様になって、鳴かず飛ばずになっちまった。

元凶のあんたには、だから俺たち取り残された組員たちは恨み骨髄なんだよ!

ちょっと酷かもしれないが、組員たちの鬱憤晴らしに性的な慰安を与えてもらった後で、

香港かマカオに売り飛ばさせてもらうぜ。ヒヒヒ。

女だてらに裏社会にたてつくからこういうことになるんだ。悪く思うなよ」

男が言い終わるか終わらないうちに瞳は行動を起こしていた。

迂闊にも瞳の脚を自由にしていたという隙に乗じて、

身体をパッと起こした瞳は、柔道5段、少林寺拳法6段、空手7段の

柔軟でアグレッシヴな潜在能力を秘めている全身をしなやかに躍動させて、

精確に、少しやにさがっていた男の顎のあたりに足蹴りをかました!

「ゴキッ!」と嫌な音がして、男の顎が砕けて、男は失神して床に頽(くずお)れた。

瞳はドアノブの尖った部分で、手首の拘束を引き裂いて、

自由になった全身で、そのアジト内をくまなく探索して、奪われていた着衣や

スマホや捜査の七つ道具やらが入ったハンドバッグを取り返した。

「ここ、どこなんだろう?「例の紅葉の名所」?窓が小さくて、見えるのは

海岸に生えているらしい松の枝だけ・・・

出口のドアは万が一のためか外からロックされているし、

見張りだったらしい男の会話からすると一日くらいは猶予があるらしいけど・・・

でも助けを呼ぶにも場所が分からないとどうしようもない・・・

固定電話はあるけど、スマホは充電切れ。地図アプリも使えない。

「紅葉の名所」なんてあまりにも漠然過ぎるし・・・

手掛かりは窓からのぞく松の枝だけか・・・

いったいここはどこ?

紅葉、松、海岸・・・

紅葉・・・紅葉・・・

ああっ!そうか!わかった!」

・・・ ・・・

猫田瞳探偵は警察の、知り合いの刑事に電話をして、

事情を話して至急に救助を要請した。警視庁の屈強な刑事たちの

チームが駆けつけて、ドアを壊して、無事に猫田探偵を援け出した。

もうお分かりだろうか?「紅葉」というのはモミジの紅葉ではなくて、例の金色夜叉、

寛一お宮の物語を書いた「尾崎紅葉」のことで、その名所とは、

主人公の二人の名場面の舞台の、熱海にある「お宮の松」のことだったのだ!

・・・ ・・・

・・・海鼻組の組員たちは誘拐と監禁の廉で、全員逮捕された。

瞳は安堵したが、こういうことがあるから、今後危ない依頼については、

十分吟味して、わが身の安全についてもっとセンシティヴでなければ・・・

と自戒した。

「金色夜叉」というのは、つまり「銭ゲバ」のことであろう。

いたずらにダイヤモンドには目が眩むなよ、悲劇になるよ、という

尾崎紅葉の遺した教訓を生かさなければならない、

瞳はそうしみじみ思うのだった・・・


<終>

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紅葉 夢美瑠瑠 @joeyasushi

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