File:1.5 箱庭の駒
警視庁。AM12:29.
蕗二と竹輔は、黙々とパソコンに向かっていた。
窓の外の方が騒がしい。部屋には時々キーボードを叩く音と、蕗二か竹輔が身じろいだ時に椅子が
その静寂を破ったのは、ピピッという短く甲高い電子音だった。
蕗二は丸めていた背を伸ばし、ドアのある方向を見つめる。もちろんドアは書類の詰まった段ボールの壁で見えない。だが、あの音はドアの鍵を開ける解除音で間違いない。そして、この場所を知っているのは、ごく限られた人間だけだ。
蕗二と竹輔が立ち上がって背筋を伸ばすと、予想通りよく見知った顔が段ボールの隙間から出てきた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
よっこらしょっと、わざとらしい声を出して足元に下ろす。
「タブレット端末が捜査会議で出払っててな、仕方なく紙の資料を借りてきた」
興味津々に覗き込む。中には分厚い紙束が入っていた。黄ばんだ色の具合から、そこそこ古い物のようだ。
「さて。さっそくで悪いんだが、君たちに臨場してもらいたい未解決事件がある」
「未解決?」
眉間の
蕗二たちが所属する【特殊殺人対策捜査班】は極秘で連続殺人を早期に解決するための部署だ。
未解決の事件に関しては、専門部署である警視庁特命捜査対策室がすでに30年前から存在し、
それなのに、こうやってわざわざ要請があったと言う事は、結論はたったひとつ。
「未解決から連続殺人事件になったって事だ。そして、ともかくすぐに解決してほしいと柳本警視監からのご要望だ」
やっぱりそうだ。蕗二は溜息を堪えていると、菊田が腰を折ってコンテナボックスから紙束を取り出そうとする。蕗二と竹輔は素早くノートパソコンをどけて、机の上にスペースを確保した。
どさりと重い音を立てて置かれた紙束はふたつ。片手で持つにはギリギリのぶ厚さだ。左端に穴がふたつ開けられ、黒い紐で
表紙の厚紙には、堅苦しい字体の帯状シールで『2032年 足立区内廃棄倉庫内グリセリン詰め死体遺棄事件』と『2035年 足立区内公園グリセリン詰め死体遺棄事件』と張り付けられている。
菊田は『2032年』の紙束をパラパラとページをめくり始める。
「10年前の2032年12月、足立区内の廃倉庫で、グリセリンで満たされた透明な箱に遺体が詰められた状態で発見された件だ。被害者は
菊田は蕗二と竹輔に見えるように大きく紙束を開いた。紙に印刷された写真には、つい数時間前に見たものと同じ、透明な箱の中に青と赤で着色され透明標本化されたご遺体が映っていた。
「あ」
蕗二は声を上げて、勢いよく顔を竹輔に向ける。竹輔ははっと息を飲んで、すぐさまパソコンに文字を打ち込んだ。そして蕗二に画面を見せる。そこには机の上にある事件名と同じ名前が表示されていた。蕗二と竹輔はお互いの顔を見つめ合い、そして同時に大きく溜息をついた。
「検索のワードか……」
「これはちょっと難しいですよ……」
蕗二と竹輔の会話についていけず、菊田は二人を交互に見ながら困惑する。
「なんだ、どうした?」
「すみません。実はその事件、自分が現場に一番で入ったものでして。念のため、過去の事件を調べていたんです」
事件の捜査をする時は、まず過去に似たような手口や犯行があったかどうか調べ、初犯による犯行か連続殺人かを見極める。今回はあまりにも特徴的な遺体だ。透明標本で警察のデータベースに検索をかけていたのだが、検索結果は
よく考えてみれば、遺体は箱の入ったまま鑑識に引き渡し、現在結果待ちの状態だ。さすがにあの中の液体の正体までは知るはずがなく、検索できる訳がない。
「そうだったのか。いや、検索項目は改善すべきだろうが……しかし、
菊田は重い溜息をつき、首の後ろを掴むように撫で、ついでに
椅子をすすめる竹輔を横目に、蕗二は紙束をめくる。
発見現場の写真がいくつも印刷されているようだ。さまざまな証拠写真が写る中、なぜか透明標本はどの角度も美しく映りこんでいた。
ときどき手ブレた画像から、カメラを担当した鑑識の動揺が伝わってくる。
同じ撮影者が同じカメラを使い、同じ現場を撮ったとは思えない。目の前にあるのは殺されたご遺体であるはずなのに、まるで死を感じさせなかった。その異質さに、この世のものではない気さえしてくる。
「菊田さんはこの事件、担当したことは?」
「いいや、その頃は大阪に勤務していたからな。ただ、変わった事件だと県を
肩を
「発見者は弁護士と不動産鑑定士。発見現場の廃倉庫の管理者はすでに他界。倉庫及び土地の相続について親戚同士で揉めに揉めている状態だった。その関係で弁護士と不動産鑑定士が土地を鑑定するのに敷地に入る際、鉄柵のチェーンが切断されていたのを
開かれたページには、頑丈そうな太い鎖がだらりと垂れた写真と、
「鉄柵のチェーンが一体いつから切られていたかは不明。靴痕から男性サイズの靴だろうと言う事、現場に残っていた車の
菊田は紙束を手前から奥へ滑らせてスペースを確保すると、もう一冊の紙束も先ほどと同じようにページをめくり始める。
「その3年後、2035年5月。足立区の中規模公園で、グリセリンで満たされた透明な箱に遺体が詰められて白昼堂々と置かれていた事件があった」
大きく開かれたページに、やはりさっきと同じく、透明標本化されたご遺体が映っていた。
「被害者は
「でも発見できなかった、って事ですよね?」
「いいや、被疑者はいた。当時、捜査上に浮上したのは」
菊田の言葉を遮るように、突然ピピッと電子音が鳴り響く。
ドアが大きく開く音、カツカツと床を叩く硬い音が近づいてくる。この音には聞き覚えがある、と蕗二が思い浮かべた顔の人物が段ボールの陰から出てきた。
「やっぱりいた」
獲物を追い込んだメスライオン同様、犬歯を見せて笑う女性に竹輔が飛び上がり、菊田は驚きに声を上げた。
「
段ボールの陰から
「書類をチェックしていたら、ご遺体搬送手続きをした刑事の名前にすごく見覚えがあったの。ちょっと聞いてみようと菊田を訪ねたら席を外してるって言うし、もしかしたらと思って、ね?」
「君も好き者だな」
「変死疑いの現場への臨場、変死についての状況捜査、捜査一課への捜査方針の助言、鑑識の可愛い後輩たちから回ってくる山のような書類チェックも、検視官の職務なもんで」
得意げに顎を上げる東に、ふと蕗二は疑問を感じた。
「菊田さん。この事件って、まだ
「ああ、これから
そこで菊田は、左腕を持ち上げる。手首に巻きつけた時計の長針と短針の位置を確認して、大きく首を傾げた。
「待て? 蕗二くんが遺体を発見して、報告があって、鑑識が現場に入って、ご遺体の搬送と科捜研への依頼、書類にまとめて提出したら……東くんに書類が届いたのは、ついさっきか? まだ事件の詳細も分からないはずだが……」
東の余裕だった表情が強張った。よく見れば手ぶらだ。それだけ慌ててやってきたのだろう。蕗二は口元に拳を当てて、さらに続ける。
「鑑識や科捜研が検死の結果を出すには時間がかかります。結果が出るまで警察もぼーっと待ってるわけにはいかない。犯人確保のため、初動はスピードが命。だから検視官は、ご遺体の状態や犯行現場だけを見て、捜査の方針を決める大事な役割もあるんですよね? でも今回のご遺体の状況を見て、判断を迷った。だから、捜査会議に出席する前に、うちの野村からも意見を聞こうと思った、とか?」
蕗二の視線を、東は露骨に避けた。何も知らないと言わんばかりに明後日の方向を向いていたが、やがて三方から突き刺さる視線に耐えられなくなったのか、チッと大きな舌打ちをして、開き直ったかのように
「バレちゃしょうがないわね。そうよ、何か文句ある?」
「どうした、東くん。いつもの君らしくない。何をそんなに慌ててるんだ?」
菊田が心配そうに問うたが、よほど腹の虫の居所が悪いのか、東は大声で噛みついた。
「うるさいわね! 私だってひとつでも事件のヒントが欲しいに決まってるでしょ! 絞殺とか刺殺とか
だんだん声が小さくなり、頬を両手で挟むように手を当てた東は、とうとう意味もなく歩き出したかと思えば、部屋の壁と壁の間を左右に往復し始めた。さながら狭い檻の中、ノイローゼになったライオンのようだ。心なしか体も縮み、顔色も悪くなる。
「やだああ、どうしよう、プレッシャーがすごい、誰に相談したらいいの…………あーもう、優秀な人材が目の前にいるのに、なんで協力してもらっちゃだめなの? 極秘部署なんてまどろっこしい。ただでさえ鑑識はグロいとかキツイとか3Kだか5Kだか言われて万年人手不足なのに、ネコだろうが犯罪者予備軍であろうが手を借りたいに決まってるでしょ……あーもうこうなったら紅葉だけでもどうにか鑑識に正式採用できないかしら……」
「≪ブルーマーク≫は適性検査ではじかれて、警察官にはなれません」
「知ってるわよ、そんなこと!」
うっかり真面目に答えてしまった蕗二に、東は歯を剥いた。見かねた竹輔がまあまあと間に入る。
「東検視官でも悩むほど、今回の事件は難しいって事ですよね?」
「当たり前でしょ! 何、あんただったら分かるわけ!?」
「検視官の東さんが悩むほどなら、もう僕らにはさっぱりで。とくにこの部署は捜査会議にも出席できなくて、僕らも困り果ててるんです。だから東検視官の意見をぜひ聞かせていただきたいです」
「なんの根拠も証拠もない、私の、女だか刑事だかの、勘みたいな
「もちろんですよ! だって数々の事件現場を見てきた検視官の東さんの意見ですよ? 僕らとは経験値が違うんですから、勘は勘でも当てになる勘です!」
「ううう、そうかしら……」
「そうですそうです。それに、頭の整理ができないから余計に
「ぐ、う、……絶対他言しない?」
ぐるぐると喉の奥で
「僕は口が
さっと液晶端末を取り出した竹輔に、東をぎこちない動きで端末を取り出し、お互いの連絡先を交換する。
「その約束、破ったらタダじゃ置かないから」
喉元に食らいつかんばかりの鋭い視線で竹輔を睨みつけ、そのまま菊田へと視線を移す。
「で、どこまで話したの?」
「被疑者について話そうとしていたところだ。東くんが資料を読んでいる間に、我々も……」
「いい、すぐ終わる」
菊田を押しのけた東は、机の資料を掴み取った。
一度資料を閉じ、背表紙を机に置いてトントンと紙束がそろうように整える。そして、最初のページに親指をかけ、紙をしならせて弾いた。
ページがパラパラと音を立てて
「
「忙しすぎて覚えたのよ」
舌打ち交じりに
深く息を吸うと、目を閉じて天井を仰ぐ。濃い
「当時、被疑者としてあがったのは1件目の被害者、
「で、ここからは私の
「どういう意味ですか?」
東はふたつの資料を開き、2つのご遺体の写真を並べる。交互に見比べ、口元に拳を当てると低く唸り声を上げた。
「1件目のご遺体は、まるで隠すように置いてはいたけど、わざわざご遺体を加工するなんて、正気の沙汰じゃない。何か目的があると思った。たとえば自己顕示欲。変わったことをして自分は他人とは違うって主張したい、とか。で、2件目は不特定多数の目に
「確かに。3件目は隠しているようにも感じますよね」
「そうじゃない」
「え?」
思わず蕗二が聞き返すと、東は親指と人差し指で
「まるで、真反対の人間がやったような気がする」
「同じ犯行方法なのに?」
意味が分からないと眉間を寄せた蕗二に、竹輔が手を上げた。
「事件がマスコミから漏れて、犯行を
「それはない。警視庁が厳重な緘口令を敷いたから、警察関係者も詳しい状況を知るのはごく一部だったはず」
「まったく同じ犯行ができるのは、犯人のみ。ってことですね」
「そう。でも、何かね、雑なのよ」
「雑?」
「1件目と2件目は現場に残っていた
盛大な溜息をついた東は、怒りの矛先を向けるように蕗二の鼻面に指を突きつける。
「ともかく! ご遺体はかなり特殊な状態だから、科捜研に運んだわ。結果がわかり次第一番に連絡する。だからあんたたちも、情報があったらすぐ知らせなさいよ」
肩で
ドアが開錠され、再び閉まる音を聞いてから、三人は大きな溜息を吐き出した。
「東くんがあんな我を失うほど追い詰められるなんて、見た事がないんだがな」
「竹、ナイス」
「いえ、大したことはしてませんよ。約束を破ったら僕がボコボコにされるってだけの話です」
「約束を守ればいいんだろ。とりあえず、野村に連絡するぞ」
「あ、さきほど野村さんに連絡を入れたら、OKって返事がきました」
竹輔が液晶端末を蕗二に見せた。すでに
「でも、なんだか野村さんを駆け引きの材料みたいにしてしまって、心苦しいです」
「理由はどうあれ、どっちみち呼ばないって選択肢がねぇよ」
蕗二も同じメール画面を開く。竹輔がグループメールで送っていた文章に目を通していると、既読マークがさらに増えた。数は4つ。メール文を送った竹輔以外の全員が目を通したことになる。
「さて。東検視官があの反応だったんだ、野村はどんな反応をするか」
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