第5章 衝突

第16話 第1回衝突

 カスミがミツキの身体を乗っ取ったまま、朝が訪れた。


 アオイの自宅では、アオイが荷造りを急いでいた。元々いつでも持ち出せるだけの私物しかないから、それをスーツケースに詰め込むだけだ。

 ケースを閉じようとして、机の上の紙片に気づいた。イズミから出題されて満点近くを叩きだした英語のテストだ。丸めてゴミ箱に捨てようとして、手が止まる。フッと鼻から息を吐き、クシャクシャの解答用紙をスーツケースの隅に押し込んだ。


「準備はできたか?」 幸田がドアの向こうから尋ねる。「いいよ、いつでも、出られる」

「『M』から指定された奥多摩の山小屋に移動する。そこが、当座の隠れ家だ」

「わかった」と応えて、アオイは、一年間、自分の城だった部屋を見回した。国防総省に見つかってしまった以上、次の隠れ家にも長くはいられない。その次も、また、その次も……。アオイは、息をつき、部屋を出て、後ろ手にドアを閉めた。


 アオイが幸田に続いてマンションの自室を出た時、カスミは、イズミの車でアオイのマンションに向かっていた。今朝、いつもより早く園に現れたイズミは、太一先生からアオイが病欠と聞かされ、カスミを引き立てるように自分のクルマに乗せた。

 駐車場に追ってきた太一先生が「体調不良なのに見舞いに行くと、かえってストレスになります」 と引き留めるのを振り切り、イズミは車を発進させた。


 イズミはステアリングを握りながら緊張した顔でカスミに話しかける。「アオイに感づかれたかもしれない。逃げ出される前に仕留めるわよ。アオイは、伯父さんと 名乗る男と住んでいる。そいつは私が始末するから、あなたはアオイに集中して。いいわね」

「わかった」

カスミは、つい、自分のいつもの口調で答えてしまいドキッとするが、イズミはカスミがミツキと入れ替わって言葉遣いが変わったことなど気づかないらしく、前方に視線を移して車を加速させた。

 カスミは、ミツキの全身にアドレナリンを駆け巡らせた。お姉ちゃん、待ってて。もうすぐ、お姉ちゃんの悩みの種を除いてあげる。


 アオイは、幸田に続いてマンションを出た。幸田はアウトドア仕様のハーフコートを着て、登山用のごついリュックを背負っている。ボトムズと靴も登山仕様だ。アオイも同様に登山スタイルに着替えている。

 マンションは駐車場が足りないので、幸田は、クルマを近くの月極駐車場に停めている。幸田がアオイを振り返り「走るぞ」 と言った時、一台のハッチバックが大通りからマンション前の生活道路に飛び込んできた。


「幸田、あのクルマ」

 とアオイが声をかけた時には、幸田はハーフコートのポケットから、非殺傷性のプラスチック弾を詰めた自働拳銃を抜いていた。

 ハッチバックが急ブレーキをかけ、車体を九〇度回転させてマンションの玄関前に停止する。ハッチバックが正面からアオイたちに向き合い、運転席と助手席に人影が見えた。


 幸田がアオイに「伏せろ!」と命じて、車の正面に立った。

 運転席と助手席のドアが同時に開く。運転席からサプレッサー付きの自動拳銃を手にした女性が、助手席からは丸腰らしき少女が現れる。


 幸田は、銃を持った女性の頭部にプラスチック弾を二発浴びせた。プラスチック弾でも、頭部を直撃すれば気絶させることができる。当たり所が悪いと死んでしまうこともあるが、この際、正当防衛だ。仕方ない。


 助手席側に銃を向けなおすと、思いがけない光景が飛び込んできた。ハッチバックから出てきた少女が路面にあおむけに倒れ、その傍らにアオイがかがみこんでいる。

「アオイ、そいつは殺し屋だ。離れろ」

 幸田は慌ててアオイと少女の間に割りこみ、左手でアオイを後ろに押しやりながら、右手の銃を少女の頭につきつけた。

「田之上ミツキか?」

幸田が少女に訊く。


 ミツキは、自分に銃を突き付けている男性の問いに「はい」と答えながら、自分が、いつ元の自分に戻ったのだろうと不思議に思う。夜中にカスミに身体も意識も乗っ取られて、次に、自分に戻ったら、こうして道路にあおむけに倒れて銃を向けられている。男性の傍らでは、アオイが心配そうに見守ってくれている。

 

「アオイさん、私を一緒に連れて行ってください」

ほとんど無意識に、言葉が飛び出していた。アオイが驚いたように見えた。理由を言わなくてはと、ミツキは思う。

「私は、アオイさんと闘いたくないのです。だから、私を連れて行ってください」

今度は、しっかり意識して言っている。そうだ、私は、大好きなアオイと殺し合いするなんて、まっぴらだ。そんな事を命じてくる国防総省、CIAと、オサラバしたい。


「アオイ、こいつは君を殺しに来ておいて、何を言ってるんだ?」

幸田が眉をひそめた。

「幸田、ミツキは本気だ。あたしには、わかる。連れて逃げよう」

 アオイは止めようとする幸田の手を振り払って、ミツキの身体におおいかぶさった。

「アオイ、どけ、そいつは、危険だ」

「危険じゃない! あたしには、わかる。ミツキは、本当に、あたしと闘いたくないんだ!」アオイが、ミツキを抱きしめて叫ぶ。


 幸田がアオイの身体をミツキから引きはがそうとした時、ピーポーピーポーと救急車のサイレンが聞こえ始めた。早い! なぜ、こんな早く来るんだ?

 イズミがアオイの死体を回収するために呼び寄せた『肉屋』の救急車だが、幸田は、そんなからくりは知らない。消防庁の救急車だと思い、それが来るからには、すぐに警察も来ると思う。

「アオイ、逃げるぞ。そいつから離れろ」

「嫌だ、離れない。あたしが逃げる時は、ミツキも一緒だ」


 幸田は天を仰いだ。アオイが言い出したら聞かない性格だということを、この二年間で思い知っている。

「わかった。連れて行く。私がその子を担いで走る」

「本当か?」

「ウソついてる場合か!」

幸田は、つい怒鳴ってしまう。時間がない。

 アオイが起き上がる。幸田は拳銃をアオイに渡してミツキを肩に担ぎあげた。

「誰かが襲ってきたら遠慮なく放電しろ。その銃も使っていい」

アオイは国防総省の秘密研究所で「ストレス発散のため」に射撃訓練をしていたから、拳銃の扱いには慣れている。

「急ぐぞ」

ミツキを肩に担いだ幸田は、クルマを置いてある月極駐車場めがけて駆け出し、アオイは時々、後ろに目を配りながら後に続いた。


 五分後、都心の混みあった幹線道路で、幸田は、スピード違反で捕まるギリギリの速さでクルマを飛ばしていた。前方を見たまま、幸田がミツキに尋ねる。

「君の生体トラッキング・システムの有効範囲は、何キロだ。急いでその圏外に出ないといけない」

「私には、生体トラッキング・システムはついていません」後部座席からミツキが答える。

「えっ、じゃ、あんたは、連中から追尾されないの!」ミツキの隣でアオイが驚く。

「私は電波アレルギーだから発信器を付けられないと、レノックス博士が言っていました」

「『あいつ』がそう言ったのなら、本当だな」


「アオイ、簡単に信じるな。スマホのおかげで地上には電波が充満している。電波アレルギーの人間が生きていられるわけがない」ルームミラーの中で幸田の顔が曇る。

「アレルギーといっても、電波が皮膚を通さず体内細胞を直撃した時だけ起きるんです」

「そうなんだ」とアオイ。

「そうなのか?」と幸田。


「本当です。信じてください」ミツキがすがるように言う。

「あたしは、信じる。ていうか、あたしは、元々ミツキを信じてる」

アオイは、幸田の肩に手をかけた。

「幸田、安心しろ。何かあったら、あたしが、あんたを守る」


 幸田は、全身の力が抜けそうになった。

「私が、誰のために心配していると思っているんだ?」と言い返したかったが、やめた。ピントはズレているが、アオイが幸田を思ってくれる気持ちは伝わってくる。 その気持ちに水を差すのは友情に反する。

「何にせよ、事故らない範囲で急ぐに越したことはない」幸田が自分に言い聞かせるように言い、少し速度を緩めた。


 アオイたちは、西荻窪駅近くのコインパーキングにクルマを停め、三鷹市まで歩き、市内のコインパーキングに停めてあった車を拾った。クルマのカギは車止めの裏にガムテープで張り付けてあった。新しいクルマで、アオイたちは「M」から指定された奥多摩の山小屋を目指した。

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