第92話 「大人のふるまい」とは「勘違いを受け入れる」こと

 

 先日、知り合いのご家族にひな祭りディナーにお誘い頂いて、いつもテニスをしている大学生(Rick)とご相伴に預かった。手作りのちらし寿司、お刺身、黒豆、お吸い物と一人暮らしでは絶対に食べられない料理に感動しながら、豪華な晩御飯と素敵な時間を楽しんだ。


 そこで、よくある問題が発生する。お刺身が3枚ずつだったのだ。つまり、最後の1枚は必然的に一人しか食べられない。しょうがない。「かぶっちゃやーよ」で決めよう。そして、二人ともが指差したのは鮮やかなサーモン。そうか、じゃあ勝負するしかない。僕とRickはじゃんけんで決着をつけることになった。


 結果、僕の負け。

 

 男の勝負だ。僕はなんの異論もなくサーモンをRickに譲った。そして負け惜しみを言った。

「俺は大人だからね」


 美味しそうにRickがサーモンを食べるのを見てから、僕は再度提案する。よし、このブリを賭けてもう一度じゃんけんしよう。


 そして、あっけなく負ける僕。

 美味しそうに食べる育ち盛りの大学生。


 僕はまたも言う。

「まぁ、俺は大人だからね」


 和やかな夕餉のひと時。みんな、笑っていた。


 


 次の日、Rickのお母さんからメッセージが届いた。

「わたしはいつも負けたら粘って3回戦まで持ち込むのに○○は大人だって話してたんよ。えらいね。いつもお兄ちゃんでいてくれてありがとね」


 僕はなんだか恥ずかしくなった。

 僕がサーモンとブリを譲ったのはジャンケンに負けたからだし、たとえRickが年上でも僕が勝ったらムカつく顔で美味しそうにお刺身を食べていたに違いない。そして、落ち着き払って言った言葉も負け惜しみである。僕はサーモンが食べたかったし、ツマから腰を上げたブリを口惜しそうに見ていたのは事実だ。僕は大人ではない。


 そして、思い至った。

「そうか、大人は勘違いされるものなんだ」と。



 〇



 そんなことを考えていたら、ちょうど郷倉さんのエッセイが狙ったかのようなタイミングで公開され、その内容に感動しながらこの文章を書き始めました。


 郷倉四季――オムレツの中はやわらかい方がおいしいのか?

 59 祭は世界を変えないけれど、言葉は容易に人を変えていく。

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054890981690/episodes/16816452219007048684


 Twitterで話題になった村上春樹の言葉を受けて、言葉でラベリングされる怖さを書いているのですが、非常に共感しました。

 郷倉さんと同じく、僕は自然体でいたい。つまり、。僕は自分の性格を一言で表せるような語彙は持ってないし、僕にかぎらず「あの人はこうだ」って何を持って言えるのか、といつも疑問に思っていました。


 あいつは最低だ。

 こいつはつまんない。

 彼女は性格が良い。

 お前は女好きだ。


 そういった言葉を聞くたび、そして誰かが誰かをそのように扱う度に、苦々しいような、息苦しいような気持ちになったのは数回ではないんです。その人はそれ以外の面もあるじゃん、反例を探せばいくらでも反駁できるんじゃない、って(説教や揶揄を聞きながら)心の中で思っていました。


 そして、郷倉さんのエッセイはこうして締められます。一部引用します。


 ―――――

 僕はこういうラべリングされた人間です、と周囲にちゃんと伝えることが大人の振る舞いの一つだと僕は考えている。

 ―――――


 この考え方が僕の思考にぴったりとハマりました。以上を踏まえて、子供と大人の違いを書きだすとこうなります。


 子供は、自分を自分として受け入れて欲しい人。

 大人は、自分は自分とした上で、誤解されることを厭わない人。


 〇


 異論はあると思いますが、先に進みます。

 

 僕は昔から「大人になることはない」という確信を持っています。理由は「足りないところが多すぎる」から。至らない部分を自覚しているうちは、僕は決して自分を大人とは認めないし、認められないと思っています。


 恐らく、多くの人は同様の理由で「自分は大人ではない」と感じているのではないでしょうか。「大人になろう」と勉強や考えを重ねるたびに、自分がどれだけ何もかもが足りてない人間かを思い知る。そして、それは原理的に終わりがない。その意味で僕の言う「大人」はいわば「全てが足りている」理想の自分なんですね。理想なので決して手は届かない。いつまでも今の僕の先にある憧れが大人です。


 だから、僕は決して大人になれません。いつまでも「僕は子供だなぁ」と思わざるを得ない。


 もちろん歳をとったという自覚はあります。ですが、それは「身体が重い」とか「怪我が増えた」という身体的・物理的なものですし、年齢をもって大人になったというのであれば、誰でも大人になれます。

 でも、大人って身体的なものだけではありませんよね。だからこそ「見た目は子供、頭脳は大人」みたいなフレーズが意味を持つのでしょうし。

 

 話が逸れましたが、僕の基準だと「大人の世界」は頭の中にしか存在しません。そこにいる人は全員、余裕のあるイケメンや美女で、家ではパートナーと可愛い子供が待っており、人の心が読め、素手で銃に対抗でき、鍛え上げた筋肉で爽やかに犯人を縛り上げながら、シャンパン片手に超ひも理論を語っているはずです。すべての能力値がカンストしていることでしょう。


 しかし、そんな世界は妄想です。この世に大人はいないのです。


 その上で、自分は大人だ、って言説を受け入れる。つまり、あえて「他人の勘違いを受け入れる」こと。これが「大人のふるまい」なんじゃないかと思うんです。


 ここで重要なのは「ふるまい」であること。それが出来るようになったからと言って大人ではない。未熟なのは変わらない。あくまで「ふるまい」なんです。その区別は僕にとってとても大切。


 その決定的な違いを混同すると、僕は大人から更に離れてしまう。だから、慎重に僕は僕への勘違いを勘違いとして受け入れる必要がある。


 僕はこの年になって年下も多くなりましたし、お子さんを持つ親御さんとも話す機会も増えました。そこでは慕ってもらったり、誉めてもらうことが多いです。それ自体は単純に喜ばしいこととして受け取っていますし、そう言って頂けることは幸せです。


 でも、その言葉が示すのはあくまで僕の一面であって、大人の証明にはなりません。それが良いことであっても、悪いことであっても、それらは理解やコミュニケーションの手段であって、その人の本質じゃない。逆に言うとその言葉の分かりやすさに引っ張られる必要も理由もない。そうしたメリット・デメリットを理解して、僕は「勘違いされること」に慣れていきたい。


 畢竟ひっきょう、何が言いたいかというと、僕は大人にはなれません。大人の基準を満たせないからです。でも、周りの人のおかげで大人としてことは出来ます。そして、その違いを意識していたい、ということです。



 どうしてみんな大人に見えるのか。

 それは、自分の足りない部分を他人に見るからです。その人の足りない部分に憧れる人はいません。だから、大人がたくさんいるように思えます。


 しかし、最近思うのは「みんな、勘違いを受け入れているんだな」ということです。偉人のインタビューなどでは典型的ですが「僕は何もしていません」のような言葉。これは、本心でしょう。ただ周りが誉めそやし、それを受け入れているだけだと思うんです。


 そうした違和感や矛盾を意識しながらも、受け入れる。

 それが大人(のふるまい)なんでしょうね。


 これは大人だけでなく、夫、父親という自意識にも当てはまると思っています。僕は決してそのようなものになれたと思う日はこない(予感を持っている)。

 でも、それでいいと思います。そのようにして僕は僕を慎重に見定めながら、決して到達できない呼び名を受け入れていけたらと思っています。勘違いしないように、それでも少しずつ。


 とりあえず、筋トレして、シャンパンを片手に持ちましょうかね。僕が今できることはそれくらいです。残念ながら。

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