二章 十二節
ディーラーで貰った壁掛けのカレンダーを捲ると最後のページが現れた。
月の下旬の日付を見遣るとローレンスは携帯電話を取り出し、日程を確認する。
良かった。仕事の予定は無い。
胸を撫で下ろしたローレンスはアメリアを呼ぶ。十分程前まで彼女はリビングで携帯電話をいじっていた。しかし呼べど待てども彼女が来る気配はない。リビングに向かうが彼女はいない。
頬を掻いたローレンスがどうしたものかと佇んでいると、玄関のドアが開く音がした。
「アメリア?」
返事はない。その代わりに重い足音が近付く。帰宅したのはイポリトらしい。
「じゃじゃ馬なら駐車場で擦れ違ったぞ。メット被ってたな」リビングと廊下を隔てるドアを開けたイポリトはライダースジャケットを脱ぐ。そして革張りの黒いソファに放るとキッチンへ向かう。
「何時頃戻るか、とか聞いた?」冷蔵庫から瓶ビールを取り出したイポリトにローレンスは問うた。
「年頃の娘にンな事聞くかよ。『うるせぇバーカ』で舌打ちされるだろうが」鼻を鳴らしたイポリトは歯に王冠を充てがう。顎に力を入れ表情を顰めると、開栓音がキッチンに響き渡った。
「そうだよね。……詮索しちゃいけないよね」
「あんだ? 急ぎで聞きたい事があればメール投げりゃいいじゃねぇか」
「うーん。帰りが心配なだけだから」
「親馬鹿か」
「親じゃないよ。教育者だよ」
イポリトは瓶の口に唇を当てるとビールを呷った。胃が二酸化炭素で充満する。表情を歪めると豪快にゲップをした。
隣で苦笑いしつつも携帯電話をちらちらと見遣るローレンスにイポリトは鼻を鳴らす。
「そろそろ命日だな」
「う、うん」ローレンスは顔を上げる。
「今年は漸く顔を出せるな」
「うん。だからその日の予定、アメリアに聞こうと想って」
「……墓参りでも誘うつもりか?」
「まさか。知らない女性の墓所に行っても困るだけだろうよ。その日、僕は家に居ないよって伝えておこうって」
「女性ねぇ。享年五、六歳がなぁ」イポリトは苦笑を浮かべた。
ローレンスは小さな溜め息を吐く。
「……ロリコンだってなじるが良いさ。僕にとってユウは掛け替えの無い女性……お嫁さんだもの。ランゲルハンス島に置いて来たって二度と会えなくたって、彼女は大切な人なんだ」
「……直系の子孫を作る事を嫌がった奴が今度は嫁に操立ててんだからどうしようもねぇよなぁ。島で独りぽっちの嫁さん、泣き暮らしてんじゃねぇのか? 本当にこのまま人類が死に絶えるまで仕事続けるつもりかよ。ちゃっちゃとヤる事ヤって子供残してばっさり死んだ方が嫁さんに会えるじゃねぇか」
ローレンスは苦笑を浮かべる。
「そんな訳にはいかないよ。現世(こっち)で子供を作るなんてユウに対する裏切りじゃないか」
鼻を鳴らしたイポリトは携帯電話を取り出す。
「そう思うんだったら周りをよく視るべきだな」
電話口で娼婦を呼びだすイポリトを残し、ローレンスは外に出た。
死神が集うバー『ステュクス』で時間を潰そうと河辺に向かった。右手の包帯を解き、爛れた皮膚で護岸に触れ店が存在する歪んだ空間に入る。しかしバーのドアを開けようにも開かなかった。時々起こる現象だ。身分が明るみに出てはならない客が居る際に起きる現象だ。込み入った話をしたい時、ローレンスも人払いを頼む。マスターたるパンドラがそれを快く受けてくれるのは自分が多くのタナトス神から恨みを買うタナトスの祖であるが故だ。
諦めたローレンスはアパートの側のカフェで時間を潰す事にした。
紅茶を頼み、窓際のボックス席に座すと大通りを見詰める。通りの側に掛かる橋の彼方から時計塔がこちらを見詰め返す。眼を細め文字盤を睨むと四時を過ぎていた。
暗くならない内に帰って来て欲しいな。
溜め息を吐いたローレンスは携帯電話を取り出すとアメリアにメールを打つ。早く帰るようなら自宅には戻らない方が良い、近所のカフェに居るからそこに避難した方が良い、と送った。すると眼前を影が覆う。給仕が注文した紅茶を運んで来たのだろう。顔を上げて礼を述べようとする。
しかしそこには給仕ではなく女が佇んでいた。ローレンスと同じく長い黒髪を滝のように流した若い女だ。フクロウ装飾のハンドルの杖を突いた彼女はシトリン色の瞳を細めて微笑む。
ローレンスは思わず口を開き呆けた。
「あらあら。久し振りの再会が嬉しくて口が塞がらない?」杖に重心をかけた女は対面のシートに腰を掛ける。
言葉を失ったローレンスは目前の女を見詰める。何百年、いや何千年振りだろうか。夜の女神であり原初の神たるニュクス女神がふらりと現れるとは。男と交じる事を忌み嫌い単性生殖で神々を生み続け、夜の帷を下ろす仕事を恨み続け、悲しみに暮れる彼女には独立してから一度として会っていない。
ローレンスに紅茶を差し出した給仕にニュクスはコーヒーを注文する。伝票に注文を書き足した給仕の背を見送ると言葉を紡ぐ。
「仕事は巧くやっているの?」
ローレンスは苦笑を浮かべる。
「……仕事嫌いな母さんが開口一番にその話なんてね。母さんはどうなの? 地上に居るって事は休暇を取らせて貰えたの?」
「ええ、少しの期間だけ。この国のみでの仕事を条件に。ヘリオス御する太陽の馬車が地平線に潜めば仕事に出たけれども。他の国々は他神族の夜の神に任せたの。今日が最終日よ。休暇は充分楽しめたわ、ハデスから誠実で優秀な付き人を貸して貰ったし。付き人さん、今頃ステュクスで一息吐いているんじゃないかしら? ……タナトス、あなたも休暇?」
「偽名で呼んでよ。……恨みを買っているが故に同業者に聞かれると乱闘になるから。今は教育でアメリアって娘に仕事を任せているんだ。偶に実地に出るけど僕は専ら書類仕事ばかりだよ」
「私の孫?」
「まさか。……預かり子だよ。タナトスの育て屋が不足しているらしいんだ」
ニュクス女神は苦笑を浮かべる。
「息子の名前が役職になってから偽名を名乗るなんて母としては寂しいものよ。……以前ランゲルハンス島に流された際に可愛いお嬢さんと知り合ったって噂で聞いたけど」
「ユウね。……置いて来たよ」
「クローンの子孫達に仕事を任せて島に残る事も出来たでしょうに」
「僕には使命があったから……。ユウを残すのは胸が引き裂かれる程に悲しかった。僕を忘れても良い、他の男と幸福になっても良い。それでも僕のお嫁さんだ。僕は忘れない。愛しているから忘れない……それで良いんだ」
どうもしようもない事実に母と息子、夜の神と死神は黙す。重い空気を察した給仕は気まずい表情を浮かべてコーヒーを差し出すと、風のように去った。
「それより……どうして僕の許に? エリスやネメシスとか他の兄弟にも会ったの?」ローレンスは冷めた紅茶に口を付ける。
「いいえ。あなたが一番心配だったから」
ローレンスは眉を下げて微笑む。十一神兄弟の中で一番要領が悪くて頼りないから仕方ないかもしれない。
「……と言いたいけれど、あるお嬢さんに惹かれてね。その娘と話をしたいが為にお忍びで地上に降り立った訳よ。そのお嬢さんには身分を証せないから、死に瀕した老女優に体を貸して貰ったの。命尽きるまで体を借りる代わりに一等星にしてあげるって取引を……ハデスには内緒よ? バレてもハデスは何かしようなんて出来っこないけれども冥府の最高神としての立場があるからね」
「流石原初の女神だね」古い神と言えどもハデスに仕えているローレンスは規則を破れば罰せられる。悪戯っぽく笑う母が羨ましくもあり、誇らしくも想えた。
「可愛い娘だったわ。正義感溢れて凛としてて、お菓子も焼いてくれる優しい子よ。……心根の優しい所があなたに似てるわね。ちょっぴり頑固なの。好奇心旺盛で明るくてひたむきで素直で泣き虫で……まるで子猫ね。許されるなら手許に置きたい程。以前も素敵な双子のお嬢さんに出会って連れ去りたくなったけれども我慢したわ。別れ際に星を一つ上げたっけ」
明るくてひたむきで素直で泣き虫で子猫みたいだなんて……まるでアメリアだ。ローレンスはくすり、と笑む。
「それ程気に入ったのにどうして連れ去らなかったの? やっと母さんにも分別がついた?」
「神生の先輩に酷い言い方するわね。前回は兎も角今回は犯罪に巻き込まれた所を助けられて……と言っても彼女と接点が無かったから故意に巻き込まれたのだけれども」
「……人間相手とはいえ危険を冒さないでよ」ローレンスは眉を下げる。
「あら。心配してくれるの? 嬉しいわ。そのお嬢さん、武術に心得があったの。巧く事が運んで屋敷で御礼をしたいってお茶に招いたのよ。……楽しかったわ。孫が出来たみたいで。事件で怪我した彼女のお腹を治したり、彼女から鈍感なお父さんの愚痴も聞いたりした。お嬢さんね、お母さんがいらっしゃらないの。今は仕事で縁があってお父さんと暮らしているんですって。でもお父さんは自分の娘だと知らないの。上司の命令で自分が娘だと名乗る事も出来ないんですって。苦労しっぱなしだわ」
「へぇ」
「とても良い娘なの、その死神のお嬢さん。天使みたいよ」
「へぇ。近くの管轄区に子連れが居たんだ。知らなかった」
「『おばあちゃん』って呼んで貰えてキュンとしたわ」紙のように白い頬に赤みが差す。ニュクスは火照った頬に両手を当てると小さな溜め息を吐いた。
「でもどうしてそのお嬢さんにわざわざ会いたかった訳さ? 今まで取れなかった休暇を無理して取ったんだろう? どうせなら血が濃いエリスの娘の方が」
カップに唇をつけるローレンスに災難が降り掛かった。魚が跳ねたような音がした刹那、ぬるい液体が顔から垂れ、コーヒーの香りが鼻を突く。顔を拭いつつも視線を上げるとニュクスがこちらを睨みつけていた。今まで上機嫌に『お嬢さん』について褒めちぎっていた母は指に引っ掛けた空のカップから残り僅かなコーヒーを滴らせる。
「……ごめん。失言した」顎からコーヒーを滴らせるローレンスは俯く。
長い溜め息を吐いたニュクスは杖を取ると重心をかけて腰を上げる。
「可哀想に」
「……え?」
ニュクスはシトリン色の瞳でローレンスを見下ろす。
「……ここまで話しても気付かないのね。今のは『あの子』の分よ」
眉を下げて瞳を伏せたニュクスは踵を返すと杖を突いているものの女王を偲ばせる足取りでカフェを後にした。
「おまー……どうしたんだよ?」読みかけの聖書を片手にイポリトはローレンスを見詰めて眉を顰めた。
男女の匂い……嫌な匂いがする。きっと事後なのだろう。それにも関わらず空気を入れ替えしていない。しかしローレンスの背に手を当てるアメリアはそれすら気にしない。今はそんな些細な事を案じる場合ではない。彼女は眉を下げていた。
「カフェで待ち合わせして駆けつけたらこうなってたの。……何も答えてくれないの」
二柱の視線は茫然としたローレンスに注がれる。白いカッターシャツに大小様々な茶色いシミを咲かせたローレンスは黒い髪を湿らせていた。頭からコーヒーの香りが漂う。
「豪快だな。ヨルダン川で洗礼でも受けたか」
キッチンに向かったアメリアはキッチンペーパーを巻き取ると水で湿らす。リビングに戻り、ローレンスの頭部を拭ってやった。
ローレンスをソファに座させ甲斐甲斐しく世話を焼くアメリアを見詰めたイポリトは頭を搔き毟ると溜め息を吐く。
「俺が面倒見るから、じゃじゃ馬はすっこんでろ」
「なんで!? あたしだって父さんが心配」
「男なりの理由があんだよ。分かってくれやお嬢ちゃん」
「また子供扱いする!」アメリアは唇を尖らせた。
「任せろって言ってんだよ。ほれ。大人の女はステュクスで呑んで時間潰せ」イポリトはジーンズの尻ポケットから紙幣を取り出すとアメリアに押し付けた。
それでもアメリアは文句を垂れたがイポリトが睨みつけると不承不承紙幣を受け取った。『そんな所だけ大人扱いしても嬉しくない! クソおっさん!』と吐き捨てると足音を荒げ玄関に向かった。
乱暴にドアが閉まる音が家中に響く。
長い溜め息を吐いたイポリトはローレンスが座す革張りの黒いソファに勢い良く腰を下ろす。そしてコーヒーテーブルに読みかけの聖書を置く。
「ドジ踏んで茶碗引っくり返したって訳じゃ無さそうだな。大方女にやられたんだろ? 気が強いおねーちゃんだ」
苦笑を浮かべるイポリトを横目に見たローレンスは瞳を閉じると小さな溜め息を吐く。
「……ユウに頬を張られた以来だよ」
「ユウにしろそのおねーちゃんにしろ、じいさんは気が強ぇ女好きだな」
「……母さんだよ」
「ああ。そう」
イポリトは何とはなしに鼻に小指を突っ込んだ。鼻腔に巣くう老廃物の塊を指で追いつつローレンスの言葉を噛み砕く。そして飲み込み解する。
「『母ちゃん』って……まさかばあちゃんか!?」いつも鋭い光を放つイポリトの瞳が大きく見開いた。
「そうだよ。太古の神にして夜の女神のニュクスだよ」
「まじかよ。ゼウスのじじいやヘパイストスの引きこもりおっちゃんに会えるよりもレアじゃねぇかよ。俺もちらりと拝みたかったぜ。……再会早々に親子喧嘩か?」
「うん、まあ……色々と世間話した訳さ。どうしても会いたい娘が居るって纏まった休暇とっていたようでこの国に居たんだ」
「んで攫った訳か? ばあちゃん、美形コレクターだもんな」鼻をほじるイポリトは苦笑を浮かべる。
「いや、攫わなかったんだ。見守っていたに近い感じなんだ。死期が近い老女優に体を借りる契約をしてあるお嬢さんを見守って居たんだ」
老女優という語にイポリトの小指は止まる。
「……じゃじゃ馬が親しくしていたエスターの中身って」
「母さんだと想うんだよね」瞼を開いたローレンスは溜め息を吐くと杯に唇を付けた。
「そら……驚くわな。回りくどい事されちまえばぁな。正体隠していたってなるとハデスに箝口令敷かれる訳だな。アメリアに正体バラしたら俺らの首飛ぶわな」
「だろうね。ハデスよりも古い、ガイア女神と並ぶ原初の神だもの。そんな神が一介の死神に接触したとなればその死神は恨みを買うだけだよ」
「……じゃああの付き人のじいさん紳士も神の息がかかった奴だろうな。……ってかあんでンな話で喧嘩になったんだよ? お袋と言い合いになった程度でしょげるんじゃねぇよ。ミレニアムもんのじじいの癖によぉ」
ローレンスは眉を下げる。
「それで気落ちしてる訳じゃないよ。その時は『お嬢さん』がアメリアだなんて想ってもみなかった。でも頬を張られた後によくよくと考えると辻褄が合うんだ」
「そうだな」
「僕、アメリアを見守りに来た母さんに不遜な事言っちゃったんだ。『どうせなら血が濃いエリスの娘の方が』なんて……」
「阿呆すぎるわ」イポリトは鼻を鳴らした。
「うん。あさはかだ。……でもそれで落ち込んでる訳じゃないんだよ」
「あんだよ?」
ローレンスはもぞもぞと口を動かす。しかし言葉が声にならない。ちらりと横目で隣を見遣る。鼻を掘っていたイポリトはじれったいのだろう、眉間に皺を寄せている。ローレンスは瞼をぎゅっと瞑り、意を決する。
「『ここまで話しても気付かないのね。今のは『あの子』の分よ』ってコーヒーを掛けられて気付かされたんだ。よくよく考えてみれば母さんの話とそのお嬢さんの話は符牒が合うんだ。……アメリアって僕の娘なの?」
「……ンな大切な事を俺に聞くかよ?」
「うん……ごめん。でも君なら何か知ってると想って」
「『父さん』って呼ばせているから娘なんじゃねぇのか?」イポリトは鼻を鳴らす。
「それは彼女が『父さん』って呼んでいいかって」
イポリトは片眉を顰めた。ローレンスは話を続ける。
「母親を苦役で取られているし、死神は人間の親と早くに別れなきゃいけないから寂しがっているんだろうなと思って。こんな娘が居たら僕も楽しかっただろうなって」
「家族ごっこか」イポリトは舌打ちする。
「ごっこじゃない! 僕は君を本当の家族だと思ってる! だからこそ君に相談して」
ローレンスは口吻を飛ばして訴える。しかし言葉を言い終えぬ内に破裂音と共に片頬に痛みが走った。驚いたローレンスは頬を押さえイポリトを見詰めた。
イポリトはローレンスを張った掌を握り締める。
「相談だと? 阿呆抜かすな。手前ぇの娘が本当の娘なのかと他人に相談する内は本当の親父じゃねぇ。血が繋がっていようがいまいがそれは一緒だ。生半可な想いでアメリアに『父さん』なんて呼ばせてたのか。あいつの気持ちを考えろ!」
怒鳴られたローレンスは両肩を瞬時に上げた。
イポリトは唇を噛み締めた。それでもむしゃくしゃするのか短く刈り込んだ髪を乱雑に搔き毟る。
「……エンリケにしてもお前にしても『親父』って奴はどうも嫌いだ」
鼻を鳴らしたイポリトは腰を上げた。
「……ど、何処へ行くの?」ローレンスは問う。
「碌な親父を持たない同士、ヤケ酒してくるわ」
「……そう」瞳を伏せたローレンスは確信した。
舌打ちするイポリトは背を向ける。
「……どんな経緯にしろ生まれちまったモンだ。ましてや成人だ。腹決めろ。ちんまいくせに独りで育て上げたユウに申し訳立たねぇからな」
荒げた足音が遠ざかったと想うと玄関のドアが乱暴に閉まる音が響いた。長い溜め息を吐いたローレンスは頭を抱える。
未だに信じ難い事だけれどもアメリアは僕の娘だったんだ。道理でユウに似ていると想った。背丈こそ違うけれども面立ちや仕草なんて彼女の名残がそこかしこにちりばめられている。子猫のように愛らしい笑顔、ひたむきな姿勢や気が強い性格、恥ずかしがったり都合が悪くなったりすると膝をモジモジする癖……皆、ランゲルハンス島で過ごした際にユウが僕に見せてくれた事だ。
僕はユウを愛していた。彼女が現世で生きている時から死んでもずっと彼女を愛し続けていた。試練としてハデスに記憶を奪われ現世でも冥府でもないランゲルハンス島に流されても再び彼女を愛した。愛さずにはいられなかった。
決して想いを吐露してはならなかった。現世に戻ってハデスが与える罰を受けなければならなかったから。しかし彼女の胸の内にも気付いていたし何より想いを言葉に変えたかった。だからこそ卑怯を承知で去り際に胸の内を明かしたんだ。ユウと僕が子供を設ける隙なんて無かった。だのに……どうして。
唇を噛み締めたローレンスは瞳をグルグルと動かし考えを巡らす。しかし分からない。
長い溜め息を吐くとコーヒーテーブルに置かれた聖書が眼についた。おちゃらけていても勉強家であるイポリトの蔵書だ。他神族の聖典ばかりか演劇の専門書にまで目を通す。
聖書は『ソドムとゴモラ』の章が開かれていた。天の怒りを受け炎上するソドムの街からロトの家族達が命からがら逃げ落ちる話だ。
『振り返ってはならない』と天の遣いに厳命されたのにも関わらず炎上するソドムが気になり振り返ったロトの妻は塩の柱と化した。娘二人と命からがら逃げ延びたロトは山の洞窟に住む。跡継ぎがいない事を案じた娘達はロトを酔わせ、眠っている内にロトに跨がり子を設けた。……わざと愛する父を眠らせ事に及んだ。罪の意識を愛する者に与えずに全てを娘達が負ったのだ。切ない話だ。
ローレンスは唇を噛み締める。するとある事に気が付いた。
……もしかしてあの七日間か? ハンスと共に太陽神と死闘を繰り広げた日、僕もハンスも倒れてしまった。深い眠りに落ちた僕は七日間目覚めなかった。ユウの動向なんて知る由も無い。もし彼女が……眠りに落ちたロトに跨がった娘達のように僕の子を設けたとしたら……説明がつく。
どうして彼女は僕の子を……。
愛していたから?
長い溜め息を吐いたローレンスは顔を上げる。すると空のグラスに自らの顔が映った。
……こんなご面相だから女性に相手にされなかった。こんなウジウジした性格だから。でも理由はそれだけじゃない。記憶を奪われ島に流されるまで何千年と、僕は死神タナトスの仕事を嫌っていた。辛く悲しい仕事だと想っていた。辛い想いを子孫に継がせたくないから結婚なんて考えられなかった。でもそれを『尊い仕事だ』と気付かせてくれたのが人間の友人ヴィヴィアンだ。僕と関わった事で彼女はハデスに命を奪われ、僕は記憶を奪われランゲルハンス島に流された。それでも足掻き、記憶を取り戻し彼女の転生を望むべく罪を償う道を選んだ。……ユウを島に置いて行く事は胸が引き裂かれる程に辛かったけど……。
しかしアメリアは何故、僕を追いかけて来たのだろうか?
島主たる悪魔ランゲルハンスやユウが黙っていればアメリアは島でのんびりと暮らせただろう。またランゲルハンスやユウが『死神の務めを果たせ』と無理矢理アメリアをハデスに引き渡すようにも想えない。アメリアは自ら『死神として生きたい』と望んだのだろう。……辛い想いが多く、また始祖たる僕さえも厭っていた程の仕事なのに何故?
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