二章 九節
「泊まって行けば? 雨止んだようだけど日が落ちたから走り辛いでしょ?」服を纏い、ピンクのガウンを放ったイザベラは化粧水を付ける。
「んー……明日は予定が詰まってるから帰らなきゃ」バスタブから上がりマットで足を拭いたアメリアは乾燥機に掛けてあった白いガウンを羽織った。
「そう……」瓶のキャップを閉める手を止めたイザベラは俯いた。
「また遊びに来させて。レオが居ない時に」アメリアは悪戯っぽく微笑んだ。
乾燥機に掛けていた服を着るとアメリアはイザベラとアドレスの交換をした。その際『友達じゃないからね』と念を押されたが、微笑んで頷いた。
「見送る」イザベラは洗濯機に立てかけていた杖を握った。
「大丈夫だよ。暖気するから時間かかる。湯冷めしたら風邪引いちゃう」
「家に招いたのは私。客を見送らなければ無礼でしょう?」
アメリアは微笑む。
「少し元気出たみたいで良かった」
イザベラは眉を寄せる。
「何? 急に年上ぶってムカつく」
「いつものイザベラに戻った」
悪戯っぽく舌を出したアメリアは浴室を出ると階段をゆっくり下る。階下は玄関がある。一軒家にも関わらず浴室と玄関が割と近いお蔭で廊下を派手に濡らさずに済んだ。
イザベラはアメリアの後を追うように手すりを片手で掴みつつゆっくり階段を下った。
慣れた家の中とは言え杖を突くイザベラが気になる。アメリアは耳を澄まし階段を下る。規則正しい音が背後から響いていたが突如止まった。
アメリアが振り返るとイザベラが目をこすっていた。
「どうしたの?」
「かすむ」手すりを掴んだイザベラは杖を握った手で瞼をこする。
「疲れ目? 本の読み過ぎ?」
「大丈夫。時々起こるヤツだから。直ぐに治まる」
「時々って……眼医者かかった方が良くない?」
「民間療法に頼るこの国じゃこれぐらいで行ったら笑われるだけ」鼻を鳴らしたイザベラは瞼から手を離すと、杖の先を階段に付けた。
小さな溜め息を吐いたアメリアは前を向く。そして下ろうと右足を階段から離した。
その刹那、鍵を差し込む音が玄関から響いた。
驚いたアメリアは段を踏み外す。バランスを崩し階段を転げ落ちた。
「アメリア!」
イザベラの叫び声が響き渡る。緋色の絨毯に覆われた階段にアメリアの体が打ち当たる。痛みを堪えたアメリアは手すりを支える木製の柵を片手で掴む。
肉塊が階段を打ち付ける音が止んだと同時にイザベラの叫びに驚いたレオが玄関のドアを開けた。
痛みに表情を歪めつつもアメリアは笑みを作り、親指を立てた。
イザベラは胸を撫で下ろすが、瞳を丸くしたレオが階下に佇むのを見て眉間に皺を寄せた。
「怪我は?」ブリーフケースを放ったレオは階段を昇り、アメリアの側に寄る。
「だ……大丈夫です。勝手に上がってごめんなさい」身を起こしたアメリアは眉を下げた。
「私が上げたの。ずぶ濡れだったから」イザベラは段の下で屈むレオを見下ろした。
「友達を……捨て犬のように言うね」レオは苦笑する。アメリアは口をへの字に曲げた。
「友達じゃない。アメリアとは友達になるなってレオも言ったでしょう? それにもう帰る所。うるさいのが戻る前に帰そうとしてたのに不意打ちするんだもの」イザベラは鼻を鳴らす。
苦笑を浮かべたレオはブロンドを搔き上げる。
「当人の前で……。馬鹿正直と言うか無礼と言うか」
「父親ぶらないで」
「はいはい」
眉間に皺を寄せるイザベラと呆れ笑うレオを余所にアメリアは立ち上がろうとするが痛みに表情を歪めた。幸いな事に骨折や捻挫の痛みではない。しかし体中を打った。アメリアは奥歯を噛み締めて立ち上がった。
それを眺めていたレオはアメリアを制した。
「無理に動かない方が良い」
「ただの打ち身です。大丈夫」
「表のバイクは君の?」
「はい」
「今日は泊まりなさい」
「でも……」アメリアは俯く。明日からまた仕事をしなければならない。それに自分を快く想わない者の家だ。長居しては迷惑になる。
「そんな体で高速に乗って首都へ戻るなんて危険だ。言う通りにしておきなさい」レオはアメリアを見据えた。
「……首都に家があるって……どうして」驚いたアメリアは顔を上げる。
「イザベラと移動する際に車窓から君を見かけたんだ。イザベラの知り合いだと知ってね。軽装だったし路地裏も知っている風だったから近くに住んでいるのだろうと想ってね」
「路地裏って」
「花束を持った長い黒髪の男性を引っ張って行っただろう? 渋滞に巻き込まれていたから見えたんだ」
「『見えた』んじゃなくて『見ていた』んでしょう?」イザベラが茶々を入れる。
レオは両肩をすくめて悪戯っぽく微笑んだ。
長い黒髪の男性、花束、路地裏って……。アメリアは青白く光る不思議な瞳をぐるりと動かし思案する。あの日の夕方の事だろう。
「ああ……。父さんか」アメリアは独りごちた。
驚いたレオとイザベラは互いを見合わせると直ぐに視線を外した。
「お父さんだったのか……。随分と若いね」レオは苦笑する。
「よく言われます」
レオは懐から名刺を取り出すとアメリアに差し出す。
「お父さんに連絡しなさい。今日はここに泊まるって。弁護士の家に泊まると言えば安心するに違いない」
「こんな時だけね。弁護士って職業が物を言うのは」イザベラは鼻を鳴らした。
レオが用意した夕食を馳走になった後、アメリアはリビングでイザベラと推理ゲームをして過ごした。しかしイザベラの瞼が重い。暖炉の火に照らされた彼女は舟を漕ぐ。
テーブルで書類を整理していたレオは『風邪を引く』とイザベラを起こす。しかしイザベラは余程眠いのか直ぐに瞼を下ろす。見かねたレオは彼女を抱き上げると寝室へ連れて行った。
レオの背を見送ったアメリアは暖炉で揺らめく炎を見詰め、小さな溜め息を吐く。
この国へ来て余所の家に泊まるのは初めてだな。……エスターおばあちゃんのお屋敷で眠った時でさえ泊まらなかったもの。だのにあたしに良い想いを抱いていないレオは泊めてくれた。
あれだけ可愛がってくれたエスターは何故泊めてくれなかったのだろう。……こんな事を想うのは図々しい。だけど少しでも共に居たいのなら泊めても不思議ではない。『夜は仕事があるから』とエスターは必ずあたしを帰していた。……引退した大女優……高齢の女性が夜にどんな仕事をしていたのだろうか。
ぼんやりと炎を見詰めていると、火が爆ぜた。
驚いたアメリアは両肩を瞬時に上げる。
すると背後からくすくす、と抑えた笑い声が響いた。
「まるで猫だ」レオの声が響く。
振り返ったアメリアは眉を下げた。
「イザベラが君を好くのが分かるよ。彼女は猫が好きだからね」
アメリアは唇を尖らせた。自分を疎ましく想う人間に泊まらせて貰っている以上、文句を言えない。
レオはマントルピースの置き時計に視線を遣りつつソファに腰掛ける。
「疲れ易いみたいでね。最近は八時過ぎでも眠くなるらしい。『こんな時間に眠くなるなんてガキ臭くて嫌だ』と愚図っていた癖に君が居ると素直に寝た。助かるよ」
「精神的にも疲労してるんじゃ?」アメリアは問うた。
髪を搔き上げたレオは瞳を伏せる。
「……仕事で失敗してね。それを引きずっているらしい。心が疲れると肉体にも影響する。体調が戻ればまた復帰出来るさ」
「そればかりとは想えません。このまま仕事を続けるとイザベラは命を落としかねない」アメリアはレオを見据えた。
冷たく響く若い女の声にレオは視線を上げる。
「……色々と抜きで話したいって事かな? 死神のお嬢さん」
アメリアはレオを睨みつけた。レオは足許を見遣り、ふと微笑んだ。
「……撤回するよ。猫じゃない。小さなライオンだ」
アメリアは視線を外さない。やはりレオはあたしの正体を知っていた。しかしイザベラには話していないし、口外する気は今の所無いようだ。何を想って口外しないのだろうか。
「レオさん」
「レオ、でいいよ」レオは苦笑を浮かべる。
アメリアは小さな溜め息を吐く。
「レオ。あなたはあの時……死体安置所に居た時あたしが見えていたの? 何故あたしの正体を知っているの? 何を想ってあたしの正体を黙っているの? どうしてイザベラからあたしを遠ざけようとするの?」
「ぼんやりとした娘だと思いきや、結構しっかりしているんだね」腕を組んだレオは喉を小さく鳴らして笑う。
「答えて!」アメリアは睨みつけた。
真顔に戻ったレオはアメリアを見詰める。唇を震わせたアメリアはレオから視線を外さない。
レオは穏やかな笑みを浮かべると左眼に手を充てがった。そして眼球を摘まむと指を外す。
レオの左眼を見たアメリアは言葉を失った。レオはアメリアと同じ色の左眼を伏せ、指先に乗った密色のカラーコンタクトレンズを見下ろす。
「左眼だけの不完全な遺伝だ。俺は死神として半端者、人間としても異質な者なんだ」
レオは昔話を紡いだ。
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