二章 四節


 いつの間にか渋滞が始まったようだ。


 先程から全く車が進まない。


 携帯電話を取り出すと時刻を確認する。帰宅ラッシュの時間だった。


 暮れなずむ街をイザベラは後部座席から眺め鼻を鳴らす。


「……お腹減ったかい? 苛ついているようだけど」運転席からレオが声を掛ける。


 イザベラはルームミラーを睨む。ミラーに映る男の目許は笑っていた。


「ガキじゃあるまいし空腹で苛立ったりしない」イザベラは溜息を漏らす。


「じゃあ渋滞に捕まって苛ついてるのか。それも子供っぽいね」


「うるさい。新刊の発売日は気が気じゃないの」


「本くらい俺のカード使って通販で取り寄せればいいじゃないか。予約販売ってのがあるだろう? 帰宅すれば郵便受けに新刊が投函されている。茶色い紙に包まった余暇の相棒を一刻も早く、そして確実に君は拝める。いいサービスだ」


「嫌」


「けんもほろろだな」レオは苦笑を浮かべる。


「本屋で本を買う事に価値があるの。発売日、店頭に平積みされた新刊を手に取るから気持ちがいいの。無論一番上の本じゃないわ。上の本を退かして二冊目以降の……自分と気が合いそうな本を手に取るの。じっくり選ぶわ」


「本なんてどれも一緒じゃないか」


「危険思想ね。『人間なんて皆一緒じゃないか』って話と一緒よ」


 肩を震わせ笑いを堪えていたレオは噴き出した。イザベラは鼻を鳴らす。


「そんなに笑う事ないでしょう? 通販は気の合いそうな本を選べないから」


「だったらもう少し早めに休暇を切り上げればいいだろう? そうすれば早く本屋に行ける」


「行きたいのは山々よ。でもあの本屋、新刊を並べるのがいつも夕刻だもの」


「店員が腰の曲がったお祖父さんしかいないからね。老人に本屋の仕事は重労働だ」


「それでもお客が居ればお金を得られるわ」


「そうだね。君みたいなお客がいるからまだ本屋を営んでいるんだろうな」


「……何それ。子供の私が腰曲がった老人苛めてるって言ってるの?」


 レオは目を丸くする。しかしまた『堪え切れん』とばかりに笑い声を上げた。


「何よ」イザベラは眉根を寄せた。


「そんな風に思った事なんて一度も無いよ。この不況の中、年をとっても仕事に就いているのは難しい。かと言ってリタイアしてもスズメの涙の年金だけじゃ生きていけない。まだ仕事をして食べて行けるんだろうな、あのおじいさん。夕方になるまで待ってくれる俺の優しい家族のお蔭で」


 後部座席の仏頂面を見遣り、レオはクスクスと笑む。


 立腹したイザベラは脚を組み替える。


「ああ! レオが揶揄うから余計にお腹減ったじゃない!」


「やっぱり減っていたんだ。何処か寄ってく?」笑みを浮かべたレオはハンドルを人差し指で小突く。


「ここら辺の店なんて高が知れてるわ」


「渋滞見送ってから空いた道を走る方がスマートかと想うよ。あの本屋、八時くらいまで開いてるし」


「馴れ馴れしい給仕に世話されて不味い料理を食べる方が精神的にも肉体的にも良くない」


「この前の件を深く根に持っていらっしゃる」


 喉を小さく鳴らし笑うレオにイザベラは鼻を鳴らすと、瞼をこする。


 それをレオはバックミラーから目敏く見ていた。


「……最近よく目をこするな」


「そう?」


「ああ」


「……乾燥してるから」


「薬局へ寄って行く? 目薬買った方がいいだろう?」


「要らない。ムカつく事想い出せば目が潤むから」


「君らしいな」


 腕を組んだイザベラは鼻を鳴らすと窓の外へ視線を向けた。


 すると数時間前に別れたアメリアが居た。イザベラは瞳を見開く。


 歩道でアメリアは眉を下げていた。目前に佇む骸のように細い男が何かを叫んでいる。


「ああ! そんな所が似てるんだよ!」白い大きなブーケを下げた男の声は車窓を震わせる。


 驚いた通行人達は一斉に男を見た。呼吸を荒げた男は肩を上下に動かしている。


「ひたむきな所とか笑顔とか気が強い所! あと恥ずかしがったり都合が悪くなったりすると膝をモジモジする所!」


 男の叫びが人々の視線を更に惹き付けた。


 レオにも聴こえていたらしい。彼は口笛を鳴らす。


 イザベラがルームミラーに視線を遣ると彼は目を細め笑っていた。


「熱いねー」


「公衆の面前で……。私がアメリアなら引っ叩いている所だわ」


「あれ? 知ってる子?」


「知ってるも何も墓地で話した子。デカパイだけどガキっぽいおねーさん」


「へぇ……」


 イザベラは再び窓の外を見遣る。いつの間にか出来たギャラリーを余所に頬を真っ赤に染めたアメリアは路地裏へと男を引っ張って行った。


「……男選びは慎重にした方がいいわね」イザベラは鼻を鳴らす。


「そんな言葉を聞くと寂しくなるな。いつ彼氏を連れて来るかと想うとね」


「うるさい。さっきから父親面して! やめてって約束したでしょ。私とレオは仕事のパートナー」


「そうでした。君があまりにも遠慮ないから」レオは苦笑する。


「……まさかレストランの給仕のおべんちゃらを本気にしてるんじゃないでしょうね? あいつ私を間接的に『老け顔』なんて言い飛ばしたのよ? 三十路のレオが兄さんだなんて」


「年が離れた兄妹も居るさ」


「呆れた。父親じゃなくて兄貴気取りだったとは……。間接的に『人を苛つかせるのが得意な顔に似てる』って言われたのも気に喰わない」


「道理で。法廷に立つとある検察官に目の敵にされてるんだ。『面構えも動作も一々鼻につく』って」肩をすくめるとレオは悪戯っぽく笑った。


 イザベラは鼻を鳴らした。


「……でもイザベラ」


「何?」イザベラは眉を顰める。


「……友達選びも慎重にした方が良い」レオはルームミラーに映るイザベラを見詰める。


「友達のつもりは無い」


「無くても、だ」


「……どう言う意味?」


「そのままだよ。アメリアとやらは君に良い影響を及ぼさない」


 イザベラは眉を顰めた。




 亡き父から受け継いだ革張りのカウチでレオは長い溜め息を吐いた。


 夜更かししたがるイザベラを寝かしつけた後、漸く残りの仕事を終えた。この職種はオフィスだけが仕事場ではない。現場に赴き、調査するのは勿論、帰宅してからも調べものをしなければならない。


 助手がいればもう少しは楽になったかもしれない。今の所、あの一見風采が上がらない医者のダグとイザベラだけが理解者であり協力者だ。協力者が増えれば仕事は楽にはなるがリスクが高まる。少人数だからこそ何とか運営出来ている。


 デスクのウィスキーを手に取ったレオはショットグラスに中身を注ぐ。そして引き出しからある身許調査書を取り出した。


 書類にはまだ幾分幼いイザベラの写真がクリップで挟まれていた。写真の中の彼女はカメラのレンズ越しにこの写真を眺めるであろう者を睨みつけていた。


 それを眺めつつレオは一杯引っ掛け彼女と出会った頃を想い出す。あれは孤児院に出向いた時だった。


 イザベラは孤児だった。


 代理母出産により生を受けた子供だった。代理母が彼女を妊娠中、彼女の存在を望んだ父親が死亡した。代理母は中絶を望んだが法により彼女の命は護られた。しかし誰も彼女を引き取り育てようとする者は現れなかった。生まれながらにして天涯孤独になった彼女は孤児院に引き取られた。


 大まかな話はイザベラを引き取った時にしている。『君の存在を望んだ父親は亡くなった』と。また『君を腹に宿していた女性は仕事として妊娠したので血が繋がっているものの赤の他人だ』とも。


 孤児院で育ったイザベラは誰にも馴染まなかった。彼女は反魂の力を有していた。いつだったか『生きている人間程うるさいものはない』と鼻を鳴らしていた。こっそり飼っていたハツカネズミが死んだ際、唯一の友人であるネズミの最期の言葉を聴くべく宿った力だった。生まれながらにして脚の自由が利き辛く杖を突いた彼女は墓地に出向いては片っ端から墓に手を当てて耳を澄ませた。初めの内はハツカネズミ同様小さな声しか聴こえなかったものの、数千と繰り返している内に強い力に変わった。埋葬されたばかりの墓でなら死者の声に耳を傾けられるまでに至った。


 それが彼女の人生の真の始まりだった。


 孤児院時代、彼女は友人を作らなかった。家族がないばかりかたった一匹の友人にまで先立たれてしまった彼女は新しい関係を築くのを恐れた。得たらいつかは失う。ならば得なければ悲しみは胸に広がらない。孤独を好み、接する者には冷淡な態度を示した。努力あって孤独な生活を得た。しかし勝因はそれだけではない。周囲の子供達やスタッフ達が彼女を避けていたのも一因だ。


 ある朝、孤児院で世話をしていた猫が死んだ。


 無惨な状態で猫は発見された。何者かに危害を加えられ血達磨になって息絶えていた。


 可愛がっていた子供達は泣き叫び猫の死を悼んだ。スタッフ達は子供らを宥め、猫を埋葬してやった。


 イザベラも彼女なりに悲しんでいた。日中、猫は常に子供達に囲まれていた。いや追いかけ回されていた。彼女は近付けなかった。しかし夜、床に就く前に彼女は猫を可愛がった。友人ではなく隣人として。イザベラには悪い癖があった。皆が寝静まった頃に孤児院を散歩する。その際、自由気ままに夜回りする猫に出会った。勝手気ままを好む者同士、気が合ったのか行動を共にするようになった。子供達が付けた名前を呼ばず、自分だけの名前を付けて猫を可愛がった。


 猫が死んだ日イザベラは日課にしている読書を止め、部屋で壁を見詰めては考えを巡らせていた。


 数日後の晩、子供達が寝静まりスタッフ達が退がった後、イザベラはいつもの通り人目を忍んで部屋を出た。しかし火の元の点検をしていた院長が外へ出るイザベラの後ろ姿を捕えた。杖を頼りにしっかり歩いていた。


 院長を始め、スタッフ達はイザベラの徘徊癖を知らなかった。猫が死んだばかりなのに深夜に出歩くとは……イザベラなりに寂しくて寝付けないのだろうか。


 院長はイザベラに声を掛けず、尾行した。


 孤児院を抜けたイザベラは墓地へ向かう。


 天へ導く儀式を行い、埋葬した清浄な場所とは言え、死者の家たる墓地へは滅多に人は立ち入らない。ましてや深夜だ。猫が眠る冷たい土の上で共に眠ろうとでも言うのだろうか。


 眉を顰めた院長は足音を忍ばせて彼女の後を歩く。


 猫の墓に辿り着いたイザベラは歩みを止める。花に囲まれそしてまだ柔らかい土饅頭を手で掘り起こす。


 体から血の気が引くのを院長は感じた。死者に対して冒涜を犯すつもりだ。止めなければ。


 院長は声を出そうとしたが想うように声帯を震わせられなかった。また一歩踏み出し彼女を止めようとも想ったが足が言う事を聞かなかった。


 一帯に腐臭が立ち昇る。


 細菌により分解される猫の遺骸に手を当てたイザベラは白眼を向くとその場に倒れた。




「所謂、極東のイタコのようなものだと?」


 書類から顔を上げたレオは院長に問う。


 孤児院の応接室でレオと対する院長は首を横に振る。


「いいえ。イタコは術者本人が依り代になりますが、イザベラはあくまでも遺体がなければ魂を呼べません。それも死後経過が浅い者しか呼べません」質素な服に身を包んだ院長は落ち着きの無いレオを冷たい瞳で見詰める。何処でイザベラの噂が漏れたのだろうか。あれだけ隠した筈なのに嗅ぎ付けるなんて……。


「呼ぶ……」尻が痺れた。応接室の薄く質素なソファでレオは尻をもぞもぞと動かす。


「信じざるを得ない程に彼女は様々な事件を……いいえ望まれない奇跡を起こしています。猫の事件は一部に過ぎません。彼女は度々院を抜け出しては動物の亡骸の声を聴きに行きます。最後の声を聴きに行くのです」


 レオは手許の書類を見詰める。


「……死んだ猫の声を聴き、犯人を突き止めた、と」


「犯人は猫を可愛がっていた子供の内の一人でした。イザベラよりも可愛がっていたように見えましたが……人の心の内は見えないものですね」


「それは興味深い。不思議だ……イザベラは」


「……そんな普通の子供ではない少女を何故引き取りたいと?」院長は問うた。


「普通かそうでないかは問題ではありません。僕が育て易い子かそうでないかが問題なのです。いやこう言いましょう。彼女でなくてはダメなんです」


「子供は商品ではありません」院長は眉を顰める。


「失敬。そう聴こえたのなら謝ります。経歴を御存知だと想いますが僕は所謂『普通』からかけ離れている部類でしてね。そんな人間が家族を持ちたいと想った。つまり『普通』の子供じゃ僕の家族になれない。気疲れするだけだ。故に彼女のような変わった子供が望ましい」


 ……『普通ではない子』か。院長は窓の外を見遣る。庭では子供達が遊びに銘々興じている。賑やかだ。無論、そこにイザベラの姿は無い。病弱で愛想の無いあの子は部屋に閉じこもって読書に耽っているのだろう。


「……死体の声を聴くのがライフワークだとしても?」


「彼女が天から授かった才なのでしょう」


「そうでしょうか?」


「弁が立つ僕と何ら変わりませんよ。ただ才の種類が違うだけだ。……若くして僕は事務所を立ち上げ、独り身であろうとも法にも資格があると認められ子供を引き取ろうとしている」


「イザベラの能力を認めると?」


「長い人生を支える物が既にあるなら奪うのは非道だ。仕事にすればそれだけでも食べて行ける」レオは肩をすくめ微笑む。


 院長は眉を顰める。


「……あの子を仕事に使う、と言いたいのですね」


 レオは唇の片端を上げる。


「ええ。育て易い子なんてのは建前です。腹を割りましょう。僕はイザベラの能力が欲しい。バックボーンがどんなものだっていい。その能力を貸して貰えるなら彼女が成人に達するまで保護者になりましょう。彼女が望むならどんなに高額な学校にでも」


「……あの子は望まないでしょうね。ここで暮らす事さえも……集団生活さえも苦痛に想う子ですから」


「だったら一刻も早くここから出るべきだ」レオは院長の灰色の瞳を見詰める。


「あの子は体を悪くしています」


「足なんて問題じゃない」


「いいえ。足以外です。……ちょっとした気候の変化や気圧の変化であの子は床に臥せります。ここに来た当初、体は健やかでしたが最近は起きて活動する日と床に臥せる日が同じ割合に」


「医者には?」


「診せました。町医者にも総合病院にも行きました。しかし気象病でも疾患でもなく……原因は不明です」院長は長い溜め息を吐いた。


「それでもいい。彼女じゃなきゃダメなんだ」


 切実に『欲しい』と訴えるレオの瞳の力に院長は瞳を伏せた。奇妙な子、無愛想……それでも縁がありイザベラは我が孤児院に来たのだ。この男に譲り渡していいのだろうかと不安に想っていた。しかし変わり者とは言えレオは身許も確かだし何よりも財政が豊かで寄付金の額が突出している。機嫌を損ねて寄付を打ち切られると経営が悪化する。それに……イザベラが成人になるまでは面倒を見ると言っているのだ。孤児院にとってもイザベラにとっても悪い話ではない。


「……分かりました。あの子に会わせましょう。前向きなお話はそれから」


 溜め息混じりの院長の一言にレオは微笑した。


「無論あの子があなたを気に入れば、の話になりますよ」

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