二章 二節


 数日後、郊外の病院で任を終えたアメリアは足早にエントランスを出た。病院スタッフに顔を覚えられない為でもあったが、病や薬品が織りなす重苦しい雰囲気から一刻も早く逃れたかった。病院は苦手だ。毒を流したように重い空気が充満している。葬儀場で遺族の泣き声を聴くよりも息が詰まる。見習い故に比較的楽な病院での仕事が多かったが、アメリアにとって迎合するべき仕事ではなかった。


 診療科看板を通り過ぎ、植え込みの側で深い溜息を漏らすと森が見えた。付属の施設らしい。病院の塀の中に森は存在した。


 次の仕事までまだ時間があるし息抜きがてら散歩するのにいいかな。


 アメリアは森に足を延ばした。


 樹々が密集してないが故に午後の柔らかい日射しがよく落ちる森だった。吸血鬼願望少女と出会った墓地の森とは違う。患者の散歩やリハビリに使う森なのだろう。重苦しい病院の施設であったが心が軽くなる程に優しい雰囲気を漂わせる森だった。


 木漏れ日を受けたアメリアは樹々を仰ぐ。彼女の白い肌に葉の陰が揺らめく。


 最近森ばかり来てるな……。


 あの日、少女と別れてから森の奥深くを進みユウの墓を探した。しかし見つからなかった。大きな墓地だ。そう簡単には見つからないのかもしれない。


 月末になったら行ってみようかな。そしたらまたあの子にも会えるかもしれない。


 歩みを進めると青銅で作られた小さなドームが樹々の隙間から見えた。ドームからは避雷針が伸びている。


 更に歩みを進めるとレンガ造りの古びた建物が見えた。病棟程ではないがそれなりの大きさだった。小さな屋敷……と言った所だろう。エスターの屋敷と同じくらいの大きさだ。小さなドームは八角形の屋根からたん瘤のように飛び出ている。レンガ造りの建物の側には小さな礼拝堂が設えてあった。アメリアが籍を置く神族のものではない。小さな屋敷も礼拝堂も病棟に比べると驚く程に古ぼけている。外壁には枯れた蔦が蔓延り、所々レンガが砕けている。マルーン色の屋根板も剥がれ、訪れる者を威嚇し拒むように見えた。


 ……何の施設だろう? 病棟から大分離れてるみたいだけど。不気味。来ちゃいけないような感じ。


 建物を仰いでいると車の音がした。


 驚いたアメリアは右手の包帯を解き、姿を透過させた。


 それと同時に滑り込んだ白いセダンがアメリアの側に止まった。運転手が車から降りる。白い手袋をはめた手でドアを閉める仕草が鼻につく程に上品だった。気障ったらしい運転手は後部座席のドアに手を掛ける。


 すると小さな屋敷の玄関から白衣を纏った風采の上がらないだんご鼻の男が出て来た。多分医者だろう。大きな丸眼鏡は指紋と脂で曇っている。彼が腹の贅肉を揺らし小走りすると後から初老の夫婦が出て来た。夫婦は苛立っていた。銀縁眼鏡を掛けた若い運転手は医者と夫婦に深々と礼をする。一つ一つの仕草が癪に障るが運転手は青銅のライオンのように凛々しい男だった。


 医者がいると言う事は離れの病棟なのだろうか? こんな森に? まさか。


 アメリアが車を見詰めていると赤いバインダーを小脇に挟んだ運転手が後部座席を開く。中から現れたのは黒いワンピースを纏った吸血鬼願望少女だった。あの日墓石に座し不敵な笑みを浮かべていたのが嘘のように無表情だ。瞳にはまるきり生気がない。遺体のようだった。


 車から居りた少女に初老の夫婦は弾かれたように駆け寄る。


「遅いので心配しました」


 定刻通りです、と少女は答えるが夫婦は取り合わない。


「早く処置を」


 初老の夫に肩を掴まれせがまれ、華奢な少女の体は揺さぶられる。運転手は初老の夫の目前に手刀を差し出すと睨め付けた。


 初老の夫は慌てて手を離す。


「この瞬間にも時は過ぎるわ。難しくなる前にさっさと取りかかりましょう。早いのがお望みなのでしょう?」


 淡々と述べた少女は初老の夫婦を見下ろす。そして鼻を鳴らすと青銅のライオン像のように凛々しく気障ったらしい運転手と風采が上がらないモグラのような医者を従え、実に尊大な態度をもって小さな屋敷に入っていった。初老の夫婦は互いを見合わせると彼女の後を追う。


 何なの? 一体何なのだろう。


 独り玄関に残されたアメリアは腕時計を見遣る。時刻は昼の一時だ。


 墓地で会った時もそうだったが学齢の少女が平日の昼間にこんな所にいるものだろうか。運転手と医者を従え、初老の夫婦に縋り付かれるなんて……彼女は何者なのか。初めて会った時も何処かの王族のように尊大で自信に溢れていた。


 唾を飲み込んだアメリアは半開きになった玄関のドアを徐に開くと少女達の後を追った。




 無機質な廊下をアメリアは進む。余計な物がない。手すりさえ無い。無頼と言うよりも飾り付ける必要がないからそうした、と表す方が適当だった。大きな病棟と違い照明さえ点いていない。


 窓枠のシルエットから昼の森の光が入る。しかしそれでも中は暗い。人が居ない故に音も無く、ただ広い空間には少女達の遠ざかる足音だけが響く。


 不気味な所だな……。


 自分は死神であるから恐れるものは何も無いと理解していても胸がざわつく。とても嫌な感じの場所だ。動悸が激しい。


 立ち止まったアメリアが呼吸を整えていると少女達はいつの間にか姿を消してしまった。


 延々と続くリノリウムの床を進むと突き当たりに錆びた白い扉があった。血しぶきを偲ばせる程に派手な錆が纏わり付いた鉄の扉の隙間から蛍光灯の冷たい光が漏れる。ぽそぽそと話す声も聴こえた。きっと少女達が居るのだろう。


 アメリアは透過した右手で白い扉に触れる。鉄製の扉は爛れた右手を水面のように受け入れた。扉に波紋が広がる。彼女は腕を差し入れる。扉は腕を飲み込む。彼女は一歩踏み出すと扉の向こうへと姿を消した。


 そこは窓一つ無い部屋だった。経年劣化で黄ばんだ白いタイル張りの壁には巨大なロッカーが幾つも並んでいた。ロッカーには赤いシールが貼られた部屋や白いシールが貼られた部屋、何も貼られていない部屋があった。


 部屋の中央にはシンクのように無機質な陶器製の寝台が二台あった。寝台の間には金属製の小さな台が佇んでいる。


 向かって左の寝台は空、右には白い布に覆われた物が横たわっていた。布の皺や起伏からそれが人である事が一目で見て取れた。


 アメリアは瞬時に理解した。ここは死体安置所だ。死神が訪れる事は滅多に無い場所だ。巨大なロッカーに遺体を入れられてしまえば体から魂の尾を切り離せない。タナトスの仕事は死体安置所に入れられるまでが勝負だ。しかし何故少女はこんな場所に用があるのだろう?


 アメリアは少女を見詰める。少女達は寝台の頭部を囲んでいた。


 医者が白い布を剥がすと遺体が現れる。傷一つ無い青年の遺体だ。安らかに瞳を閉じる青年の顔が覗いた刹那、初老の夫婦は微かに眉を顰めた。しかし少女は眉一つ動かさない。


「何日目?」少女は医者に問うた。


「三日目です」


 小さな溜め息を吐いた少女は冷笑を浮かべる。


「……三日目で呼んだとはね。前回の二日目の方がまだマシ。初日で呼びなさい」


「これでも融通を利かせました。数分後にはこの病院の医師が来ます。対象の立場を慮るとなかなか時間が取れなくて……。それに時間を要するのがこの国のシステムです」鼻からずり落ちた黒いリムの眼鏡を医者は直す。


「遅れた国。遅れた思想」目を細めた少女は煩わしそうに瞼をこする。


「二日三日が限界です」皮脂で曇る大きなレンズの向こうで医者は濃い眉毛を下げる。


 少女は溜め息を吐く。


「二日はまだしも三日目ならどれだけ苦労するか。約束通り報酬はきっちり貰うし、術中起こった事は術者の私の責任ではなくご両親の責任となるのでご了承下さい。尚、助手はこの愚鈍な医者と付き人が務めます。術が解けるのでご両親は対象に触れぬよう。いいですね?」


 少女は初老の夫婦を見遣った。夫婦は遺体の父母らしい。しかし少女に視線を向けられても父母は気付かない。眉を顰め話し合っている。莫大な金額がアメリアの耳に届いた。骸を前に嫌な話だ。


 そっちのけで金の分配を話し合う父母の肩を力強く掴むと少女は念を押す。か細い指に掴まれた肉付きの薄い肩は深い皺を刻む。


「ご両親、いいですね?」


 少女らしかぬ力で掴まれ睨みつけられた父母は驚き、思わず首を縦に振った。


 手を離した少女は陶器製の寝台に横になると瞳を閉じた。医師は遺体の片腕をとると二台の寝台に挟まれた金属製の台に置く。運転手はアメリアの真横を通り過ぎると鉄の扉の鍵を厳重に閉めた。


 アメリアは片眉を顰める。見た所遺体と魂は既に切れている。火葬と埋葬を待つばかりの状態だ。だのにこれから何をしようというのだろうか。


 それに……あの両親、なんだか嫌な雰囲気だ。少女やその付き人の運転手、医者よりも異様な雰囲気を漂わせている。今まで幾度か臨終現場に当たったが、こんなに平然とた……いや冷淡な遺族はいなかった。長い闘病生活の末に亡くなった魂の遺族は一見平然としているように見える、しかし死を覚悟していた分悲しみよりも肩の荷が下り穏やかな表情を浮かべるのが殆どだ。


 透過したアメリアに見詰められている事など露知らず、寝台に仰臥した少女は遺体に手を重ねる。閉じていた瞼をさらにきつく閉じると肺の空気を吐き切る如く大きな呼吸をした。


 すると少女の顔からじわじわと汗が湧き上がった。細やかな毛穴から涌き出した汗は大きな露に変わる。寒さ暑さを感じない部屋にも関わらず額から目の下から鼻の付け根から次々と涌き出す。やがて少女は大きく息を吸い込むと背を仰け反らせ奇声を上げる。両親は驚き、耳を塞ぐ。医者と付き人の運転手は慣れている所為か平然と少女を見下ろしていた。


 タイル貼りで幾つものロッカーが連なる広い空間に少女の奇声が反響する。息を荒げ髪を振り乱す。背からも大量の汗が出ているのか寝台に雫が滴り落ちる。


 アメリアはジャケットの身頃を片手で掴む。恐い。深夜にイポリトが偶々観ていた極東のホラーや悪魔払いの映画よりも背筋が凍る。凄惨な現場があるタナトスの任をこなして来たが、ここまで恐ろしい光景に立ち会った事はなかった。決してここは死の現場ではないが生の現場でもないだろう。引き返そうか……いや異常状態の少女を見捨てられない。しかし自分は何も出来ない……いや、何もしてはならない気がした。引き返す事も止める事も。


 緊張し粘膜を極度に乾燥させたアメリアは少女を見詰める。


 奇声を上げていた少女の声音はいつのまにか少女のものではなくなっていた。男のものとも老婆のものともつかぬ……この世のものならざる声に変わっていた。人間に召喚(よ)ばれ受け答えをする悪魔ランゲルハンスが作った声音をアメリアは想い出した。


 悪魔を下ろしているの? 涙液が減った目を幾度も瞬かせつつもアメリアは少女を食い入るように見詰める。


 背を想いきり仰け反らせた少女は華奢な片手で体を支える。手の甲には太い血管が幾筋も浮き出、脈打つ。口から泡を吹いた少女は白眼を向いた。


 アメリアは瞼を強く瞑った。


 すると土嚢を落としたような音が辺りに響いた。奇声も止んだ。


 アメリアは瞼を開いた。


 少女はまだ白眼を向いていたが背は寝台に乗り、呼吸も安定していた。


 運転手と医師は互いを見遣る。そして医師は夫婦に『どうぞ』と声を掛けた。


 一連の行為に腰を抜かしていた夫婦はヨロヨロと立ち上がると少女に近付いた。


「お……お前、ア、ア」初老の母はかすれ声で問うが聴こえない。


「アーウェルなのか?」初老の父は再度問うた。


「……何故呼び戻した?」男とも女とも老とも幼きとも付かぬ声で少女は答える。


「本当にアーウェルなの?」初老の母は瞳に涙を浮かべる。


「アーウェル。最後の記憶を話してごらん」初老の父は少女の片手を握った。


 少女は手を振り払うと鼻を鳴らす。


「いつも通り下のショップでコーヒーを買い、オフィスで予定をチェックしていたら突然胸が締め付けられてこの様さ」


 初老の父母は互いを見遣ると頷く。


「先月うちに来て何をした?」初老の父は問う。


「屋根裏の整理と蜂の巣の駆除。芝刈りもやらされたな」少女は答える。


「ママはその時何を作って上げた?」


 少女は鼻を鳴らす。


「買って来たの間違いだろ? スーパーの見切り品のアップルパイ」


「アーウェル」初老の父は安堵の溜め息を漏らした。


「良かった。もう二度と会えないかと……」初老の母は膝をリノリウムの床に落とすと寝台にしがみついた。


 アーウェルの魂が乗り移った少女は小声で何かを呟いた。悪態のようだったが泣き喚く両親の耳には届かない。少女は顔を初老の両親へ向けた。相変わらず白眼を向いている。


「……何故呼び戻した? 既に俺は死を受け入れた。あの空間を漂うのは気持ちがよかったのに。何故引き剥がした?」


「アーウェル。サインが欲しいんだ」初老の父は懐から書類を取り出すと少女の目前で広げた。少女の白眼がぴくぴくと動く。医者と運転手は目を背け、耳を手で覆った。


「……たったそれだけの事で俺を呼び戻したのか?」少女の白眼はぎょろぎょろと動く。両親を睨め付けているようだった。


「お前だけが頼りだったんだ。残された私達はどうやって生きていけばいい?」


 初老の父は空いた方の少女の手を握った。アメリアは一部始終を見詰めていた。手を握られた瞬間、少女の表情が微かに歪んだ気がした。


「アーウェル。ママからもお願い。孤児のお前を引き取り育ててあげたでしょ? 良い大学出て企業を立ち上げ金儲け出来たのはママ達のお蔭でしょ? バウケット院長……あんな偽善者よりも長く過ごして来たでしょ? 私達の息子なら分かってる筈よ、アーウェル。このままじゃあの遺言書の所為で遺産の殆どは孤児院とあなたの会社の物になってしまう。せめて株なりなんなり私達に寄越しておくれ」初老の母は少女の前で跪くと懇願する。


 少女は口をぽかんと開けて黙す。何かを考えているように見えたが唾液が出ない口をもぞもぞと動かすと会話のような言葉を紡いだ。死者が使う言葉らしい。誰にも聞き取れない。死神のアメリアさえも意味を解せなかった。


 少女の口の動きが止まった。彼女は諦めたように長い溜め息を漏らす。


「そんなに金が必要か?」


「金さえあれば生きていける」初老の父は答える。


「院長は『少しの金と愛があれば生きていける』と言った。だから僕はエルンストに会社を託し、半分はバウケット孤児院に寄付する事に決めていた。エルンストも会社や社員を愛しているし、孤児院の皆も僕を愛している。パパとママは僕を愛している?」


「愛があっても金がなきゃ生きていけないよ」初老の母は眉を顰めた。


 少女は暫く瞬いた。口をもぞもぞと動かし何かを喋っているが聞き取れない。どうやらまた誰かと会話しているらしい。しかし口を引き結ぶと言葉を紡ぐ。


「……分かったよ、ママ。書類にサインをすればいいんだろう? これが最後の仕事ならやればいいのだろう?」


 投げやりな口ぶりだったが少女の手は書類を求めてぎこちなく動く。初老の父はペンを渡そうとしたが運転手に遮られた。


「ここからは助手の仕事です。契約規定です」医者はペンと書類を寄越すよう、初老の父に手を差し出した。


 初老の父は頷くと医者にペンと書類を渡した。医者は運転手に書類を見せる。一通り文面を読んだ運転手は一度だけ瞳を閉じるとペンを少女に握らせた。そして赤いバインダーに書類を挟むとそれを少女の方へ掲げた。


 少女は書類を白眼で追う。ぎょろぎょろと眼球が動く。眼窩の周りの皮膚から血管が浮かび上がる。両親は小さな悲鳴を上げたが直ぐに飲み込んだ。


「……分かった。この書類にサインしよう」


 初老の父母は胸を撫で下ろす。少女はぎこちなくペンを走らせる。サインを終えると運転手は書類が挟まったバインダーを閉じ、乱れた少女の衣服を整えてやった。そして医者から渡されたジェラルミンケースにバインダーを仕舞う。


 それを気にも留めない両親は胸を撫で下ろす。


「ありがとうアーウェル」初老の父は微笑んだ。小馬鹿にした嫌な笑みだった。


「お前はいい子だね」忍び笑いを押さえ切れないのか初老の母は咳払いをしつつ少女の髪を撫でた。


 少女は唇の片端を微かに吊り上げた。それを合図に医者は手を一度大きく叩いた。


 発砲音を偲ばせる乾いた音が死体安置所に響き渡る。


 初老の両親の肩が飛び上がる。驚いたアメリアも思わず声を漏らしそうになった。


 白眼を向いていた少女の瞳は元に戻った。


 今まで一言も発さなかった運転手は鼻につく所作で恭しく礼をする。その間に覚醒が不十分で動きが鈍い少女を医者は車椅子に乱暴に乗せると小走りで部屋を退出した。


 運転手は言葉を紡ぐ。


「依頼されていた内容はこれで全てですね。死者であるアーウェル氏の魂を術者イザベラへ下ろす事。その際アーウェル氏の代理人であるイザベラから書類のサインを貰う事。依頼料の確認は先程終了しました。どうぞお引き取りを」


 両親は互いを見合わせ、眉を顰める。


「書類を……書類を貰ってないじゃないか!」初老の父は声を荒げた。


「全財産を私達に譲るとサインさせたんですよ!」母も負けじと声を張り上げた。


 提げたジェラルミンケースを見遣った運転手は小首を傾げる。


「書類は私が預かりますよ?」


「何の権限があってお前が……!」初老の父は運転手の襟首につかみかかる。


「この泥棒……!」母も運転手が抱いているジェラルミンケースを引き剥がそうと加勢する。


 眉を下げた運転手は微笑む。


「年老いても強欲でお元気で何よりです。孤児だったアーウェル氏を引き取り精神的に追いつめ、彼が成人し起業し成功を治めた後に掌を返し、更には死して尚彼を追いつめる。さぞかし亡きアーウェル氏もお喜びでしょうね」


「何を言いたい!?」初老の父は大口を開け叫ぶ。黄ばんだ歯が覗いた。


「何のつもりよ!? 書類を返せ!」初老の母はジェラルミンケースに縋り付くが、脆くなった骨を包んだ薄い筋肉では若い運転手の力には到底勝てなかった。


「そんなにこのケースが必要ですか?」運転手は涼しげな笑みを浮かべる。


「当然だ!」


「返しなさい! 泥棒!」


「分かりました。ケースをお渡ししますね」


 運転手は笑みを浮かべると百獣の王の余裕と威厳をもってケースを両親に差し出した。


 白眼を血走らせた両親は運転手の大きな手からケースを奪い取る。その際に金具が運転手の親指を強く打つ。白い手袋から血が滲んだ。痛みに表情を顰めていると車をスタートさせる音が外から微かに聴こえた。運転手は微笑した。


 ケースを開けた父母はバインダーを引っ掴むと書類を確認する。しかし署名欄が空欄だった。


 初老の母は悲鳴を上げる。


 父は怒鳴る。


「騙したのか!?」


 運転手は喉を小さく鳴らし笑った。


「何がおかしい!? 他人の人生めちゃくちゃにするつもりか!?」初老の父は運転手の胸倉を掴む。


「それ以上、何かなさるのなら法的措置を取りますよ?」運転手は冷ややかな視線で老人を見下ろす。先程の少女さながらの尊大な視線だ。


「たかだか運転手風情に何が出来る!?」初老の父は唾を吐き捨てた。


 頬に付いた唾を運転手は長い人差し指で払う。


「……それが貴方達の答えなのですね」


「だ……だったら何よ! 泥棒! 訴えるわよ!」初老の母は運転手を睨む。


「特定の職業を差別する発言、子供に恩を着せ不当な契約を迫る行為、他者の所有物を強奪し傷害を加える行為……どれも強欲な貴方達らしい罪だ」


 クスクスと静かに笑む運転手を前に片眉を下げた父母は互いの顔を見合わせた。


 運転手は胸ポケットに手を入れると豆粒大の物を取り出した。


 赤らんでいた初老の父母の顔色は一瞬にして青ざめた。運転手が白い手袋を嵌めた指で摘まんでいたのは弁護士バッジだった。


「たかだか運転手風情の僕……失敬」


 運転手は口許に手を当て咳払いをすると言葉を続ける。


「若造の僕が士業の者だと知ると黙すとは……。先程の威勢はどうなさいました? 職業に貴賎はありませんよ?」


 青ざめて目を見開いていた初老の父はやっとの想いで言葉を紡ぐ。


「こっこっ……この野郎! 弁護士が噛むとは聞いてないぞ!」


「依頼の契約書に記しました。小さく記しましたので気が短いお方には読み難かったかもしれませんね」

「アーウェルに何をサインさせたの!?」腰を抜かしていた初老の母が問うた。


「この国に尽くし地球環境に尽くす偉大なる事業主であったアーウェル・アダムス氏には莫大な遺産をバウケット孤児院に寄付する書類にサインして頂きました。無論会社も貴方達の物ではありません。しかし法の保護により貴方達には最低限の額の分配が約束されています。始めの取り分に比べればスズメの涙程ですが……この際、分相応で満足しましょう?」運転手は両手を広げて小首を傾げた。


 息を飲んだ初老の夫婦は互いを見合わせる。するとある事に気付いた。


「あの娘は!? あの医者は!? お前は何者だ!?」


 弁護士は両肩を上げて長い溜め息を鼻から出すと微笑む。


「医師もイザベラも既に帰りましたよ。私がこっそり渡した肝心の書類を持ってね」


「グルだったのか! この詐欺師め!」


「あたし達の金を返しなさいよ! 泥棒!」


「詐欺師に泥棒とは心外ですね。生前のアーウェル氏に依頼され仕事をしたまでです。遺体からの遺言状作成と言う特殊な稼業をしていれば防護策を張る人間もいるんでね。貴方達に遺産を毟り取られると懸念したアーウェル氏は貴方達よりも多く、私に金を積んでくれたのですよ」運転手は銀縁眼鏡の華奢なリムを微かに上げた。


「訴えてやる!」


「訴えるわ!」


「どうぞご勝手に。……しかし誰が信じますかね? 反魂の術で甦った遺体に書類にサインをさせただなんて。声無き者の声を代弁しただなんて。……あ。失敬。まだ医師の死亡診断が終らず火葬許可が降りてないので法的には未だ遺体ではありませんね。僕とした事が……士業の癖に失言が多くて失敬失敬」天秤を掲げる目隠しの女神が彫られたピンズを見下ろすと運転手は胸ポケットにそれを仕舞う。


 それを眼の当たりにした初老の夫婦は互いを抱きしめると声を張り上げて泣いた。


「アーウェルさんもさぞかしお喜びのことでしょう。孤児院から幼い自分を引き取り、奴隷のようにこき使った義理のご両親がこんなにも涙を流して下さるのですから……」


 運転手もとい弁護士はリノリウムの床を踏み鳴らし颯爽とエントランスへ向かう。しかし何かを想い出したのか立ち止まると気障ったらしく振り返った。


 すると物陰に隠れていたアメリアと視線が合った。アメリアはぎゅっと瞼を瞑る。しかし包帯を解いて透過した自分が人間には目視出来ない事を想い出すと恐る恐る瞼を上げた。


 自分と視線があった筈の弁護士は尊大な瞳で初老の夫婦を見詰めている。


「あと数分で優秀な医師が死亡診断に来て下さるそうですよ。まあこちらも僕の息が掛かってますけどね」

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