二章 一節


 溜め息を吐く。


 肺から押し出された空気は口腔を出ると薄暗い店内を漂う。吐き出された空気は色とりどりの酒瓶が犇めく棚や虫食いの一枚板、ハロゲンライトに当たると霧散した。


 長い一枚板のカウンターでは頭を抱えたローレンスが入店して幾度目かの溜め息を吐いていた。


「今日はいつもより溜め息が多いですね」死神が集うバー『ステュクス』のバーテンダーであるパンドラはコルクのコースターを差し出すと酒を置いた。ローレンスしか居ない店内ではガラス底とコースターが触れ合うだけでも音が響いた。


 ローレンスは顔を上げる。


「……そうかな?」


「いつもより三回多いですよ」パンドラは微笑む。紫色と鈍色が混じった不思議な瞳がぬらりと光った。


「そっか」


 ローレンスは差し出されたグラスを手に取るとほんの少しだけ胃の腑へ送った。


「また休暇を満喫なさっているイポリト様に閉め出しされたのですか?」パンドラは問うた。


「うん。彼は幾度言っても目印のキーホルダーをドアに掛けてくれないからね」ローレンスは溜め息を吐いた。


「……しかしそれだけでは無さそうですね。アメリア様が今日は一緒では御座いませんもの」


 瞳を伏せたローレンスは長い溜め息を吐いた。


 すると重厚な木のドアが開く。入店したのはイポリトだった。ローレンスに気付いたイポリトはひょうきんな表情を作ると爛れた右手を挙げる。


「よっ。悪ぃ悪ぃ」


 苦り切った表情のローレンスの隣に座したイポリトは爛れた右手に包帯を巻く。


「いつもの頼むわ」


 パンドラが頷くのを見遣ったイポリトはミントの香りが漂うお絞りで顔を拭く。


 そんな悪怯れぬ態度を貫くイポリトをローレンスは横目で見遣っていた。


「まーたここでメソメソしてんのかよ。野郎一匹で侘しいねぇ」イポリトはカラカラと笑う。


「……うるさいな」ローレンスは呟いた。


「ダチ居ねぇもんな」


「君と違って人間と付き合うと自分が人間だって錯覚しちゃうから仕方ないだろ。友達は出来ると楽しいけど……死別すると辛いもの。もう僕はあまり人間と触れ合いたくない。……僕がのめり込んだ所為でヴィヴィアンを失ったし、君にも迷惑をかけたもの。人間と付き合う事は素敵だけど僕は上手に出来そうも無いんだ」


「じいさんは不器用だもんな」イポリトは苦笑した。


 ローレンスは肺に堪った重い空気を吐き切った。


「あんだ? 俺のお遊びの所為で落ち込んでるって訳じゃなさそうだな」パンドラに差し出されたマティーニからピックを引き抜いたイポリトはスタッフドオリーブを口に放る。


「……僕、先生なのに全然ダメだなって想ってさ」


 眉を上げたイポリトはマティーニを呷った。


 再び溜め息を吐いたローレンスは言葉を続ける。


「さっき『もうあまり人間と触れ合いたくない』って言った癖にアメリアには『もう少し人に寄り添って欲しい』なんて言ったんだもの。アメリアは優秀だけど淡々と仕事をこなしているように見えて……その、何だろ。そう、生と死に寄り添っているようには見えないんだ」


「ほーん。それでさっきじいさんと共に俺のケツ見たじゃじゃ馬がいねぇのか。ここに一緒に居たら気まずいもんな」


「……そう見えたとしても僕が言える立場じゃなかった。自分は器用に人間と付き合う事が出来ない癖に。最低だ」


「ぶぅあーか」イポリトは豪快に笑う。


 ローレンスは眉を顰める。


「悩んでるのに追い討ちかけなくてもいいじゃないか」


 二杯目のグラスを受取ったイポリトはオリーブを口に放るとマティーニを呷る。


「……全知全能の大神になるつもりか?」


「どう言う意味だよ?」


「一介の死神が……教育者が完璧超人な訳ねーって言ってんだよ。はったりかまして……そうだな、手を伸ばしても届かない星を掴むって心意気を育てるのが教育者だろ? 誰も彼もが『何でも出来なきゃ教える資格は無い』ってなら人間も神も疾っくに滅んどるわ」


「そう……なのかな?」


「うちの神族みてぇな多神教は能力にばらつきがある。デカい会社で例えりゃ各部門にプロフェッショナルが居る感じだろ? それを纏める代表取締役たる主神ゼウスだって裏を返しゃ雷撃てるのが取り柄の色ぼけジジイだ。完全無欠に見える一神教だって信者や弟子が居なきゃ何もしようがねぇじゃんか」


「う……ん」


「俺だって九十年生きててもエンリケ殺してもまだ『生』も『死』もきちんと分かっちゃいねぇよ。ただ状況を受け止め、自分の感情をコントロールするよう努めているだけだ。太古の昔から生きるじいさんだって未だに明確な答え得てねぇだろ」


 イポリトはパンドラにハンドサインを送った。静かに笑んだパンドラは新しいマティーニを差し出すと空の二脚のグラスを引っ込めた。


「……死とはなんだろう。生とはなんだろう。この世に存在するかしないかだけではないって事は理解してるけど」ローレンスは頭を抱える。


「それに加え、眠りについた魂や生死の境を彷徨う魂が飛翔するランゲルハンス島なんてあんだからよ。神でも易々と答えを見つけられねぇわな?」


「難しい問題を押し付けた。酷い先生だ、僕って」


「遅かれ早かれまともな死神なら打ち当たる問題だわ。早い内に問題提起しただけ親切なんじゃねぇの? 悩まない者よりも悩む者は強く賢くなる。幾らお勉強出来てもそこら辺が伴わなければ賢い阿呆だわ。ンな奴にこの仕事は務まんねぇよ。じいさんはまともな教育してると想うぜ?」


「そう……なのかな? ただ偉そうにしてるだけじゃないかな?」


 イポリトは苦笑する。


「堂々しとけ。オドオド教えられたら真面に受取れねぇぜ? 親恋しさに『父ちゃん』って呼ばれてんだろ? 少しは余裕持って甘えさせてやれ。手放すまでに一年もねぇんだ」


「……そっか。お母さんの苦役が終るまで一年もないんだったよね」


 イポリトは溜め息を吐いた。


「寂しくなるな……。ずっと一緒に居られたらって想ってたのに」


 ローレンスは目頭を押さえると長い溜め息を吐いた。




 その日の任務はアメリアの住む首都で二件だけだった。


 一件目の対象は入院先で容態を急変させて死亡し、二件目は交通事故に遭って搬送先の病院で息を引き取った対象だった。一件目と二件目が同じ病院だったので短時間の任務で済んだ。現代の人間は事故にしても病気にしても病院で亡くなる事が多い。死亡予定時刻や対象の習慣、スケジュール、病歴を調べておけば大体の当たりが付くようになった。無論、この間の地下鉄のような想わぬアクシデント、また人間関係で予定が狂う事もある。しかしここ一月程円滑にこなしている。午前中で仕事は終わってしまった。


 昨晩、イポリトに閉め出しを喰らった後ローレンスと共にパブへ行った。食事をしつつアメリアはローレンスに褒められた。『大分要領よく任をこなせるようになったね。始めの頃は手間取って心配だったけど数ヶ月でここまで成長するなんて。嬉しいよ』アメリアは満面の笑みを浮かべた。しかし次に紡がれた言葉で真顔に戻った。『でももう少し人に寄り添って欲しいな』


 人に寄り添うって……どう言う事?


 接触した人間を看取れと言っているの?


 父さんは何をあたしに求めているんだろう?


 任を終え病院から出て来たアメリアは駐車場に停めていた黒いレディに戻る。携帯電話を取り出し、新たに死亡予定者リストを確認するが更新はされてなかった。


 午後休になった。これからどうしようか。


 ホーム画面にある日付を見遣ると、月こそ違うが母のユウが亡くなった日だった。


 ……エリュシオンに逝く筈だった母さんは父さんの配慮でランゲルハンス島へ逝った。眠りについた魂が来訪し、生死の境を彷徨う魂が記憶を取り戻して選択する島で母さんは死を選んだ。母さんの亡骸が眠る死者の家……。ここからランゲルハンス島へは決して想いは届かない。でも……お墓に行ってみたい。母さんと叔父さんが眠るお墓に。


 アメリアは墓地の場所を調べると黒いレディを出した。


 海峡トンネルを潜り他国へ渡る弾丸列車の始発駅を通り過ぎ、首都近郊の大規模墓地へとアメリアは向かった。


 大規模墓地は森に囲まれていた。


 手入れされない樹木は鬱蒼と茂り、透き通った晩夏の空を覆っていた。正午を回ったばかりだと言うのに夕方のようだった。平日の昼で住宅地からも離れている所為か墓地には誰もいない。人に会ったのは門の側の墓守小屋で入園料を支払ったきりだった。


 森はランゲルハンス宅に隣接する黒い森のように日射しを嫌っていた。時折風にそよいだ葉がざわめく。白い墓石の群勢は苔生し、その土の下に眠る者達が既に忘れ去られ記憶の化石になった事を示している。


 翼が生えた女性の墓石、男の首だけの墓石、子供を抱いた母の墓石、蔦が絡まった墓石を通り過ぎアメリアは母ユウが眠る墓を探す。


 入り口で貰ったマップを片手に墓石を探し歩いていると鼻歌が聴こえた。落ち着いたトーンの少女の歌声だ。


 アメリアは腕に立った粟を撫でる。人一人も居ない墓地で鼻歌が聴こえるなんて……。自分が神の端くれでも気味が悪い物は気味が悪い。足を踏み入れちゃならない所に来たみたい。でも母さんのお墓を見つけなきゃ……。


 人の気配を窺いながらアメリアは歩みを進める。苔生した土に気を払いつつもアメリアは耳を澄ます。鼻歌は途絶えたり、紡がれたり気ままな調子だった。すると犬の墓石の隣に、脚を組んで墓石に腰をかける少女の大理石像を見つけた。思春期に差し掛かっただろう年頃の少女の彫像はワンピースをそよ風にはためかせる。


 彫像に服を着せるなんて……ピュグマリオンみたい。顔に走る斑紋が静脈のよう。生きてるみたい。それにしても白くて綺麗なワンピース。しみ一つ無い。誰か毎日来ては着せてるのかな。


 足を止めたアメリアが見詰めていると少女の像は不敵な笑みを浮かべた。


 驚いたアメリアは後退る。大理石の彫像だと想っていたが人間だったのだ。よく見れば石の無機質さは無く肌は瑞々しいし、眼窩にはシトリン色の瞳が嵌まっている。プラチナブロンドは風にそよぎ、白い睫毛は青白い頬に影を射す。


 大きな瞳を見開いて眉を顰めるアメリアに少女は口を開く。か細い声故にアメリアの耳には届かない。


「へ?」アメリアは問い返した。


 目を細めた少女は瞼を擦る。


「……つき? それとも天使……訳ないか。人間か」


 アメリアは片眉を顰める。死者の家である墓を尻に敷いているのも気になった、しかしそれ以上に人間ではない者を待っていたような口ぶりをするのが引っかかった。


 怪訝そうに自分を見詰めるアメリアに少女は問う。


「……知らないの?」


 先程とは打って変わって凛と通る声を発した少女は組んでいた脚を伸ばす。肉付きが悪く骨が目立った。


「有名な話。月末ここら辺に吸血鬼が現れるって。背の高い男の吸血鬼が昼夜問わずに現れるの、この辺をね。恋人の墓を探しているんじゃないかって噂よ。薄暗い森だから強い吸血鬼なら昼でも現れるのかもしれないわね」


「……吸血鬼を待っていたの?」


「ええ」尊大に腕を組んだ少女はアメリアを見上げる。墓石に座ってもアメリアよりは視線が下だったが何処かの王族のような気品を纏わせていた。白いワンピースが王のローブのようにはためく。


「どうして?」


「どうしてって……吸血鬼信じるの?」


 アメリアは頷いた。自分は死神だ。死神がこの世にいるなら吸血鬼だって居る筈だ。実際に悪魔だっているし、ホムンクルスも存在する。吸血鬼やネクロマンサー、動く人形だっていたってもおかしくない。


 アメリアの頭の先から爪先まで品定めするように見下ろした少女は笑む。


「そう。私よりも年上の癖にガキ臭い」


 アメリアは唇を尖らせる。


「う……うるさいな。それよりも吸血鬼に何の用事だったの?」


「野暮ね。吸血に用事なんて一つしか見当たらないでしょ?」


 気付いたアメリアは眉を下げる。今まで様々な人間の魂を切り離して来たがこの手の人間は初めてだ。


「……死にたいの?」


「逆よ。生きたいの」


「じゃあどうして?」


「血を吸われた後、吸血鬼から血を与えられると吸血鬼になれる。だから貴重なバージンの血と交換に吸血鬼にして貰うの。永遠に若く病気もしない……死んでいるのに生きているって素敵でしょう?」


「……そうなのかな?」


「少なくとも私はそう思う」少女は満面の笑みを浮かべた。

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