一章 六節


 エスターに会ってからお腹の調子は大丈夫そうだ。これなら……病院行かなくても良いよね?


 午後の日射しが降り注ぐカフェでラップトップと睨めっこしていたアメリアは下腹を撫でる。あの日から出血も止まったし、腹痛も治まった。……エスターの胸で泣き疲れて眠った時、夢現だが記憶があった。エスターに下腹を擦られたような気がした。エスターの小さな手が腹を滑る度、痛みが引くように想えた。


 不思議なおばあちゃんだったな。今度、お屋敷で寝ちゃった事を謝らないと……。


 小さな溜め息を吐いたアメリアは視線をモニタに戻す。彼女はハデスに送る報告書を作成していた。死神文字を打ち込んでいるので通りすがりの者にモニタを覗かれても大丈夫だ。しかしローレンスに見られると不味い内容の報告書を作成している。従って見られる可能性が高いアパートよりもカフェの方が低いのでわざわざこちらに足を延ばしたのだった。


 報告書は生活を記した物だった。


 モニタを眺めるアメリアの瞳の奥が熱くなる。あの時……ソファで下腹の痛みと孤独に耐えていた所をミスターに見つかった時、本当は肩に凭れて泣きたかった。


 顔を上げたアメリアは洟を啜る。すると向かいの席で若い夫婦がベビーカーの中の赤ん坊を仲睦まじそうにあやしていた。アメリアの胸は更に締め付けられた。


 目頭が熱くなったアメリアは涙がこぼれないように瞼をぎゅっと閉じると呟く。


「と……さん」


 すると聞き慣れた声がアメリアの思考を遮る。


「ここに居たんだ。探したよ」


 驚いたアメリアが瞼を開くと向かいの席に微笑を浮かべたローレンスが座していた。アメリアは慌ててラップトップを閉じる。


「ど、どうも。ミスター」


 声を上擦らせたアメリアは視線を彷徨わせた。ローレンスは苦笑を浮かべる。


「大丈夫だよ。モニタは見てないから」


 アメリアは胸を撫で下ろす。


「……ご飯を食べないミスターがわざわざカフェまで足を延ばすなんて珍しいですね」


「僕だってコーヒーくらいは飲むよ」ローレンスは店のロゴが入ったマグを掲げた。


「序でにブランチ食べて下さい」


 ローレンスは苦笑を浮かべる。


「アメリアは手厳しいなぁ。イポリトよりもしっかりしてる」


「だって先生が倒れたら弟子はどうしようもないでしょう。痩せこけてるんだから少しは何か食べないと」


「そこまで言われたら先生として面目立たないなぁ」ローレンスはカウンターに掲げられた黒板のメニューを眺める。サラダや茶菓子くらいだったら口に出来そうだ。


 メニューを追うローレンスの視線をアメリアは機敏に読み取る。


「野菜やお菓子だけじゃなくて体を作るものを摂って下さい! タンパク質!」


「……でも本当にお腹空いてないんだよ。お菓子ならまるまる一個食べれるけど」ローレンスは眉を下げて笑った。


「ダメです! 昨日あたしが叱ったの覚えてますか?」


 数分後、アメリアに食べるよう指示されたプレートを前にローレンスは苦笑を浮かべた。フライアップのプレートにはスクランブルエッグ、ベーコン、ベイクドビーンズ、トマト、マッシュルーム、ブラックプディングが盛られていた。


「わぁ……凄いボリューム」ローレンスは呟く。


「辟易しないで下さい。昨日アレだけ叱ったのに食べなかったでしょう。昨日丸一日食べなかったんだからこれくらいは当然です」


「アメリアは先生みたいだなぁ。これじゃどっちが先生だか分からないよ」


 ローレンスはふふふ、と笑むとフォークを取った。すると女性の給仕が厚切りのバタートーストが乗った皿を目前に置く。


 眉を下げたローレンスはアメリアを見遣った。


「残したら怒りますからね」アメリアは鼻を鳴らした。


「……精進するよ」


「『精進』じゃなくて残さず食べて下さい!」


 ローレンスは苦笑を浮かべつつトマトを口に運ぶ。アメリアは暫く彼を見張っていた。少しずつではあるものの様々な料理に口を付け平らげようとするローレンスから気概を感じたので視線を逸らした。


「……ところで何の御用ですか?」


 ブラックプディングを咀嚼していたローレンスは青白く光る不思議な瞳を見開くと飲み下す。


「プレートのボリュームに圧倒されて忘れてた……。アメリアさ、バイク乗らない?」


「バイク?」


「ほら。君が来て二日目に地下駐車場で紹介した鉄の馬……黒いレディだよ」


「そりゃバイクくらいは知ってますよ。いつまでも全力でバス追っかけたり改札詰まらせたり、観覧車を三十分も眺めてるような馬鹿じゃありません」


 ローレンスはクスクスと笑む。


「ごめんごめん。生まれ故郷で乗馬してたって言ってたでしょ。それに翼を広げて飛ぶのを渋ってたから……。どうかなって」


「……確かに憧れるけど見習いのお給金ではとても買える代物じゃありません」マグを手に包み込んだアメリアは首を横に振る。


「僕出不精だからさ……。君に仕事を預けてからあまり乗らないから……駐車場で黒いレディ眠らせておくのも忍びないから暫く君に乗って欲しいなって」


「あたし無免許です」


「うん。だから、免許取ってよ。助成金出すってパンドラが言ったんだ」


「でも……」


「嫌だったかな?」


 アメリアは身を乗り出すとローレンスに耳打ちする。


「この国では大型は二十歳以上じゃないと取れないでしょ? 人間の年齢では二十歳くらいに見えても本当はあたし九歳だもの……。それに身分証じゃ未だ十九歳だし……ってかパンドラって誰ですか?」


「まだ教えてなかったか。僕達の仕事のまとめ役をしてるバーテンダーなんだ。ステュクスってバーを経営してるんだ。身分証くらいどうにでもなるよ。僕も人間に混じって仕事をした時は履歴書や身分証を新たに作って貰ったもの。今度一緒に行こう」


「バーは良いですけど……免許を取るのは……」アメリアは口籠った。体一つで現世に来たので身の回りの物を揃えるのに必死だった。免許を取るには大きな金額が動く。例え助成金が出ても今の自分には難しい。


 俯きしおらしくするアメリアにローレンスは微笑む。


「お金の心配ならしないで。僕が持ち掛けた話だもの。僕に出させて」


「そんな訳にはいきません」アメリアは眉を下げた。


「黒いレディが埃を被るのが忍びないって事もあるけど、一番の理由は君とツーリング出来たらと思ったんだ。出不精の僕だって偶には遠出しなきゃいけないし、バイク仲間になれば変な遠慮が減るんじゃないかなって」


「遠慮って……あたし遠慮してません!」


「じゃあこの話受けてくれるよね?」


 アメリアは口をもぞもぞと動かす。ローレンスに見せて貰った時からバイクに憧れていた。ローレンスの愛車である黒いレディ、イポリトが有する赤いサンダーバード……故郷の島を愛馬で駆け抜けていたアメリアには眩し過ぎる乗物だった。乗りたいと想ったが見習いの立場では手が出せないと想っていた。


「ねぇアメリア。難しく考える事はないんだ。この前、君に無礼をしたお詫びとして受取って貰えたらこれ以上に僕は嬉しい事はないんだ」


 眉を下げたアメリアは両膝を見詰めて唇を尖らせていた。しかし『じゃあ……謹んでお受けします』と、ローレンスを見上げた。ローレンスは満面の笑みを浮かべた。




「時間を貰ってごめんなさいね。あれから貴女の顔を見なかったから気になってたの」


 紅茶を一口、喉に送ったエスターはカップをソーサーに戻す。陶器が触れ合う音が屋敷のリビングに響いた。


 ローレンスの勧めで大型二輪の免許の教習を受けてからアメリアはエスターに会ってなかった。短期間で免許を取りたいと考えていた。


 しかし泣きじゃくって眠ってしまったのが恥ずかしく、エスターに合わせる顔がなかったのが大きな理由だ。お詫びの品にと手作りのマカロンを持って来たが裏目に出た。セイリオスが運んで来た、目前に鎮座する大きなプレートスタンドを見て圧倒された。プレートには老舗のケーキやバターの香りが豊かなキュウリのサンドウィッチが宝石のように並んでいる。


 手作りのお菓子なんてここでは見栄えしない。持って来なければ良かったかも。ソファに座したエスターの隣に座し頬を染めたアメリアはマカロンが入った手提げの紐をぎゅっと握り締めると口を開く。


「あたしこそ……ごめんなさい。エスターさんに泣きついた挙げ句送って頂いたなんて。謝ろうと想ってたんですけどなかなか時間を」


「おばあちゃん」エスターは話を遮った。


「え?」


「『エスターさん』じゃなくて『おばあちゃん』がいいの」小首を傾げたエスターは微笑む。


「でもエスターさんは大女優だったってイポリトが」


「それは昔の話よ。遠慮はいらないわ。アメリアだって私の胸で泣いたでしょ? それに『天使さん』なんて呼ばれるの恥ずかしいでしょ? お互いに遠慮は無しにしましょ」


 アメリアは頬を更に上気させた。


「『おばあちゃん』って呼んでくれるととても嬉しいわ。ねえアメリア?」


 眉を下げたアメリアは潤ませた瞳をぐるぐると動かす。エスターを直視してそんな事言えない。気恥ずかしい。事件の日は咄嗟の事だったから『おばあちゃん』なんて叫んじゃったけど……あたしには母さんや叔父さんが居てもおばあちゃんはいないもの。でも瞳を星のように輝かせてあたしを見詰めるエスターをがっかりさせたくない。


 アメリアは深く息を吸う。


「お……お、お、おばあちゃん」


 エスターは満面の笑みを浮かべるとこっくりと頷いた。アメリアは長い溜め息を吐いたが、宝物を見つけたように笑うおばあちゃんを見ると気持ちがよくなった。


「あの、お、おばあちゃん。この間のお詫びに……お菓子焼いて来たんです」


「まあ!」エスターはこれ以上ないくらいに破顔する。


「このテーブルに並んでるお菓子に比べると大分見劣りするけど……おばあちゃんを想いつつ作ったんです。一口だけでも食べて貰えるとあたし、救われます」アメリアは手提げからマカロンの袋を取り出すとエスターに差し出した。


「ありがとう、アメリア。おばあちゃん、とても嬉しいわ。大好きなアメリアから素敵なプレゼントを貰えるなんて」


 エスターは無色透明の袋に包まれた色とりどりのマカロンを見詰める。フランボワーズ、シトロン、ピスタチオ、チョコ……愛らしいカラーの焼き菓子が眩しい。


「素敵。可愛いわ。アメリアみたい」


「そんな……」アメリアは頬を染めた。


「食べるの勿体ないけれども一つ戴くわね」シトロン色のマカロンをエスターは口にする。咀嚼するとアメリアに微笑みを向けた。


 気恥ずかしくなったアメリアは俯いた。


「とっても美味しいわ。アメリアはお菓子屋さんになれるわね」


「そんな……稚拙な物でごめんなさい」


「おばあちゃんこそごめんなさいね。アメリアのお財布を開いて身分証を見ちゃって……。気持ち良さそうに眠っていたものだから起こしたくなかったの。貴女を送るにしても住所を知らなかったから……」


 アメリアは顔を上げる。


「そんな事……! あたしが悪いんです。ごめんなさい。人の家で寝るなんて」


 エスターは口許を手で覆い上品に笑む。


「それよりもお腹の調子は大丈夫?」


「ええ。あれから全然痛くないんです。月の物もちゃんときてます」


「良かったわ」


「お医者に行かなきゃいけないかもしれないって恐くなっちゃったけど……安心しました」


「……今回だけよ? もうおばあちゃんは治せそうにないから」


 まるでエスターが治したかのような物言いだ。アメリアは小首を傾げる。


「それって」


「そうそう! 同居人のおじさん達ってどんな方なの? ちゃんと良くしてれる?」エスターはアメリアの質問を遮る。


 呆気にとられたアメリアは答える。


「え……あ、はい」


「『はい』じゃなくて『うん』でしょう?」


 アメリアは頬を染めた。どうやらエスターは祖母と孫のように接したいらしい。


「うん。優しく……してくれる。イポリトはちょっぴり意地悪。お風呂場でかち合って裸見られたり、ゴミを床に放ったままだったりハウスルールなんてあったものじゃない。でもミスターはとても優しいの」


「ミスター?」


「ローレンスさんの事」


「どうして名前で呼ばないの?」


「名前で呼ぶなんて……仕事ではとてつもなく偉い人だからそんな事出来ない。偉いのに気取らないの。だから……申し訳なくて。……でも全然ご飯食べてくれないからこの間偉そうに叱っちゃった」


「どんな方なの?」


「頼りなげな人だけど天使みたいに思いやりに溢れた人なの。……イポリトとミスターが仲良さそうな所を眺めるとあたし切なくなる」瞳を伏せたアメリアは唇を噛み締める。本当はミスターでも名前でもなく、もっと親しく呼びたい。


「彼は名前で呼ばれたがってるかもしれないわよ?」


 アメリアは顔を上げた。


「……偉い人や凄い人はね、皆が尊敬しているから寂しい想いをしているの。だからプライベートでは親しみを持って接するととても喜ぶわ」


「おばあちゃんも……?」アメリアは問うた。


「おばあちゃんはアメリアにだけ特別よ」微笑んだエスターはアメリアの長い髪を撫でてやった。


「でも……そんな事出来ない。名前で呼ぶだなんて」


「どうして?」


「……だって」


 アメリアは口籠る。こんな暗い話をしたらおばあちゃんの笑顔を曇らせる。


「教えて? 私の可愛いアメリア」


 皺が刻まれたエスターの手がアメリアのロングヘアを撫でる。優しい手が滑る度に気持ちが軽くなった。


「ミスターはあたしの父さんなの」

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