一章 五節


 エスターの屋敷に招かれたアメリアは常時肩を強張らせていた。


 貴族が住んでいた屋敷よりも小さい家で少々格が下がる。しかし気品があった。パラディオ様式の家のポーティコ(ポーチ)にはギリシア・イオニア式の頭が付いた柱が並ぶ。エスターが生まれる遥か昔に立てられたのだろう。小さなヒビが入り、石灰が削れているものの思い入れの深い家主が大切に使っているのが窺える。手入れが行き届いていた。白い柱が眩しい。小さな神殿を偲ばせる。まだ多くの人々が神を熱心に信じていた時代の建物を偲ばせた。


 アメリアはサルーンへ案内された。青い絨毯に白い家具が浮かんだ優しいサルーンだった。クリーム色の壁には神話の絵が掛かり、マントルピースには陶器の老舗のイヤープレートが飾られている。天井からは小振りのシャンデリアが吊るされていた。エスターの勧めでアメリアは白いカウチに座るとセイリオスが運んだカップに手をつける。ウェッジウッドブルーの茶器には紅茶がたゆたっていた。芳香が鼻腔をくすぐるが緊張故に味は全く分からなかった。


「そんなに緊張しなくていいのよ?」上げた肩を一度も下ろさないアメリアを見遣ったエスターはプレートスタンドのサンドウィッチやフランボワーズムースを勧める。


 アメリアはぎこちなく微笑んだ。……ミスターのアパートの一室とは全然違う。場違いな所に来てしまった。礼儀を知らぬ小娘が来ていい場所ではない。


 居心地が悪くなったアメリアがもぞもぞと膝をすり合わせているとエスターは困ったように微笑む。


「……おばあちゃんの勝手だったわね。無理させてごめんなさい」


「そんな……!」アメリアは首を横に振る。


 エスターは眉を下げて微笑んだ。


「違うんです! あの、あまりにもあたしが住む世界とは違うので……その、初めてだから……こんな凄い所……」


「驚いちゃった?」

 エスターの問いにアメリアはこっくりと頷いた。


「そうね。ごめんなさい」


「でも……招いて下さって嬉しいです。当然の事をしただけなのにこんなに良くして下さって……嬉しいのと申し訳ないのとお家が凄くて圧倒されたのとこんな凄い所に座ってて良いのかなって言うのと……心が忙しいんです」


「可愛らしいこと」エスターは満面の笑みを浮かべた。


 気恥ずかしくなったアメリアは俯くと膝をもぞもぞとすり合わせる。


「……あの時、電車で貴女の声が上がらなかったら私は気付かなかったわ。まさかセイリオスが暇を取った日に事件に巻き込まれるなんて……あれからなかなか休みを取ってくれないのよ、彼。心配性だから」エスターは溜め息を吐いた。


「大きな声出して驚かせてごめんなさい」


「いいえ。それよりも何もない所から突然現れた貴女に驚いたわ」


 言い訳を考えてなかったアメリアは窮地に立たされ、口籠った。そんな彼女を見遣りエスターは上品に微笑む。


「秘密なのよね? えっと……光学迷彩服だったかしら? この歳で科学の粋を間近で見るなんて想わなかったわ。まるで透明人間ね。それを着て軍事実験をしてたのかしら? ……あら、あまり聴いてはならない話ね? 何も言えない筈よ。それよりもそんな時におばあちゃんを助けてくれてありがとう」


 死神の透過能力に対し勝手に想像して納得してくれた。アメリアは溜め息を吐く。しかし先日男に蹴り上げられた下腹に響き、表情を歪めた。


「どうしたの?」両手でカップを握り締めるアメリアにエスターは問う。


「な、なんでもないです」アメリアは微笑を浮かべて答えようとするが痛みに表情を引き攣らせた。


「……この間蹴られた所が痛むの?」


 アメリアは青白く光る不思議な瞳を伏せる。そんな彼女を見詰め、エスターは眉を下げた。沈黙は諾だ。


 エスターはアメリアを引き寄せた。


 力弱くひんやりとしたエスターに抱きしめられたアメリアは目を見開いた。しかし優しく背を撫でる小さな手に心地良くなり瞼を閉じる。すると今まで我慢していた涙が瞼から溢れ出した。目の奥が熱い。今は何も考えたくない。苦しい事も辛い事も想い出したくない。堰を切った涙はエスターの黒いドレスの胸許を濡らした。


「一人で悪に立ち向かった勇敢なアメリア。天使のように優しいアメリア。……若い貴女にこんな想いをさせてごめんなさい。大きな力にはなれないけど貴女の悲しみも苦しみも一緒に受け止めさせて」


 エスターの穏やかな声がアメリアの鼓膜を揺さぶる。アメリアはエスターの胸で泣きじゃくるといつの間にか眠ってしまった。


 天使のように無邪気な表情を浮かべて眠るアメリアにエスターは微笑む。そしてセイリオスを呼ぶとアメリアをソファに横たわらせ、ブランケットを掛けてやる。そして彼女の側に座すと男に蹴られた下腹を優しく撫でてやった。




 眠ったアメリアをファントムの後部座席に乗せ、セイリオスは彼女の家へ向かう。


 今回の事でセイリオスは主人であるエスターの慈悲深さを思い知らされた。優しく気高くも恐ろしい『夜の女王』を演じた銀幕の女優らしいとも言える。夜は生物の命を奪い、また傷を癒す。エスターは優しきアメリアを慈しみ、そして彼女に徒なす者を排除する。途方もないお方に仕えてしまったものだ。次々と過ぎ行く車両通行帯をターコイズブルーの瞳で見遣り、セイリオスは溜め息を吐いた。


 エスターは仕事に出なければならないのでセイリオス一人でアメリアを送る事になった。しかしエスターもセイリオスもアメリアの家を知らない。エスターは深く眠るアメリアに『ごめんなさいね』と断ると、彼女の財布から偽装身分証を出した。


 偽装身分証の住所にセイリオスは車を停める。大通りから外れた、レンガ造り外壁の古いアパートだ。車から出てアパートに囲まれた裏通りの空を仰ぐと夕闇が昼を飲み込もうとしている。……奥様の仕事の時間だ。


 後部座席のドアを開けるがアメリアはまだ眠っていた。涙の跡が頬を汚しているが安らかな寝顔だった。起こすのは不憫だ。


 セイリオスは彼女の背と膝裏に逞しい腕を差し入れるとアメリアを抱き上げる。老年には辛い仕事の筈だが彼には出来た。奥様に仕える者は何かに秀でてなければならない。奥様には忠誠心と力を買って戴いたのだから……。


 アメリアを抱き上げたセイリオスは階段を昇り、アパートの共同玄関へ向かう。すると中からブロンドの短髪の男が飛び出して来た。切羽詰まった表情の男はアメリアと同じく青白く光る不思議な瞳を嵌めていた。


 セイリオスと男の目が合う。すると男は視線を下げアメリアを見遣った。


「あ!」男は叫ぶ。


 セイリオスは瞳を閉じ黙礼した。


 男は……イポリトはアメリアを抱き上げている逞しい老年の男を不審に思い表情を歪めた。しかし老年の男の足向きが外ではなくアパートへ向いている事、波風立たぬ湖面を偲ばす穏やかな瞳を嵌めている事、そして礼儀正しい紳士である事から敵意を持った相手ではないと瞬時に察した。


 自分を不思議な色の瞳で見詰める男にセイリオスはもう一度黙礼すると言葉を紡ぐ。


「エスター・ブレイクに仕えるセイリオスと申します。アメリア様は拙宅にお越しでした。しかしお休みになられ起こし遊ばすのも忍びないので貴宅までお連れ致しました。お所を存じませんので身分証を拝見しました。非礼をお許し下さい」


「いや、こっちこそすまねぇな。ガキのお守りばかりか車出させちまって。しかしエスター・ブレイクったぁ『夜の女王』の大女優じゃねぇか! 銀幕から姿を消したとは言えこの国の代名詞って言っても過言じゃねぇ。なんでそんな婆様にじゃじゃ馬が……」イポリトはアメリアを見下ろした。


「先日、地下鉄駅構内でアメリア様に奥様を助けて頂きました。本日はそのお礼に拙宅へお招きした次第です」


 イポリトが両手を差し出したのでセイリオスはアメリアを彼に抱き上げさせた。


「なるほどな。新聞の小見出しの『然るご婦人』ってのはエスターだったのか。……しっかし心配させやがって」


「どうかなさいましたか?」セイリオスは問う。


「同居人と喧嘩してこいつが家飛び出したらしいんだ。今しがた俺が帰ったら同居人が家ん中を右往左往して狼狽してんだよ。帰宅したらのんびり本読もうと想ってたのによ。んでワケ聴いたら『アメリアを泣かせてしまった』って大泣きして気絶しやがった。代わりに俺が探そうと飛び出た訳だ。……わざわざ届けてくれてありがとな。エスターに伝えてくれ」


「畏まりました。……あまりアメリア様をお叱りにならないで下さいね」


「覚えてたらな」イポリトは苦笑した。


 セイリオスは深々とお辞儀をした。停めていたファントムへ戻るセイリオスの真っ直ぐな背をイポリトは見送った。




 翌朝、アメリアは自室のベッドで目醒めた。


 あれ……? あたし、エスターさんのお家でお茶を御馳走になってたんじゃ……。


 アメリアは頭を掻く。すると記憶が甦った。エスターの胸で泣きじゃくった後、眠ってしまったのだ。送って貰ったかローレンスかイポリトが迎えに来てくれたのだろう。


 ……人ん家で泣きじゃくって爆睡して家まで運ばれるなんてあり得ない。もう子供じゃないのに。あたしって最悪。


 長い溜め息を吐いたアメリアはベッドから起き上がった。


 恐る恐るキッチンに顔を出すとローレンスが紅茶を淹れていた。


 アメリアに気付いたローレンスは微笑む。休んだ筈なのに彼の目許から隈は消えない。


「よく眠れた?」


「ごめんなさい! 心配をお掛けして!」アメリアは勢い良く頭を下げた。


 ローレンスは首を横に振る。


「心配するのが家族だよ。探しに行こうとしたんだけど気が動転して気絶しちゃったんだ。ごめんね。帰宅したイポリトが代わりに探しに行こうとしてくれたんだ。運転手さんが送ってくれたんだよ。……しかしアメリアが元女優のエスター・ブレイクと友達だったなんてね。エスターのお家で寝ちゃったらしいんだ。『起こすのが忍びない』って運転手さんが言ってたってイポリトが話してた」


 アメリアは赤面する。


「ご……ごめんなさい」


 ローレンスは眉を下げて微笑む。


「次に会った時にエスターと運転手さんに謝るといいよ。あと君を運んでくれたイポリトにもお礼を言っといてね」


「はい……。あ、と。ミスターにも失礼な事してごめんなさい」


 ローレンスは青白く光る瞳を見開くと茶器に茶を注ぐ手を止める。


「どうして?」


 アメリアはもぞもぞと口を動かしていたが言葉を紡ぐ。


「だって……ミスターが心配してくれたのに……あたしってば振り払って……」


「年頃の女の子の頭を撫でようとした僕が悪いよ」ローレンスは苦笑した。


「ミスターは心配してくれたのに……」


「でも触ろうとした事は悪いよ。家族とは言えその辺の礼節は必要だったのにも関わらず軽率な事してごめんね。僕、こんな面相だから……本当は女性と話すのが得意じゃないんだ。でもアメリアはなんか話し易くてさ。初対面でもどもらなくて済んだ。だからイポリトを相手にするみたいに気軽に触れようとしちゃったんだ。ごめんなさい」


 もぞもぞと口を動かすアメリアは俯く。違う。そんな理由で飛び出したんじゃない。彼女は唇を噛んだが直様笑顔を作った。


「きっと……お互いに悪かったんです。もうやめにしましょう!」


 カラッと笑うアメリアにローレンスは眉を下げて微笑むとポットに手をかけた。


 馥郁たる茶葉の香りがキッチンに漂う。アメリアは胸一杯に芳香を吸い込む。


「朝食作りますね! お詫びにとびきり美味しいオムレツを大切な家族にご馳走します!」


「大丈夫だよ。僕お腹減らないから」ローレンスは悪気もなく首を横に振った。


 アメリアは眉間に皺を寄せる。聞いた通りだ。場の空気を読まない事も物をなかなか食べない事も聴いた通りだ。偶にお腹が減ってもトーストに目玉焼きを乗せたものやマカロンくらいしか食べないらしい。低栄養の食事を極少しか摂らない故に痩せこけるのだ。


 仏頂面を下げる彼女に気付いたローレンスは配慮が足りなかった、と狼狽える。


「ごめん。アメリアはお腹減ってるよね」


「違います! いや、そうだけど! ミスターも何か食べて下さい! この間イポリトに怒られたでしょ? そんな調子だったら倒れちゃいますよ!」


「う、うん」険のある眼差しを投げられたローレンスはたじろいだ。

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