六章 六節
昨夜、小屋の窓から星読みをしていたら突如閃光がヴルツェルの眼を突き刺した。一瞬の事だったが山の方角と言う事は鮮明に覚えている。両眼を覆い、膝を折っていると駆け寄った家主に案じられた。
この不毛の地の住人にしては裏表のない心優しい男だった。この街の住民は皆、一様に眼をぎらつかせ他者の隙を探している。少しでも弱みや小さな幸福を見せれば全てを毟り取られる。……全ては険しい山に囲まれた作物が実りにくい痩せた土地であるが故だった。
「……大丈夫だ」ヴルツェルは紫色の瞳から手を除けると立ち上がる。
それでも家主の男は案じるがヴルツェルは頭を横に振った。街に着いた当初、強盗に髪を切られた所為か頭の動きが軽かった。首筋が涼しい。
「大丈夫だ。夜闇を眺めていれば直に眼が順応する」
ヴルツェルは背を向けると再び窓から外を眺める。先程閃光が走った山の方を眺める。しかしそこには山がなかった。丘があるばかりだった。
……誰かが大蛇に手を下したのだろうな。
大蛇の正体を看破する程に聡明なのはランゲルハンスだろう。しかしハンスは術後間もなく、魔力も体力も回復していない。北の街から遠方の南の街まで足を運ぶのはまだ難しいだろう。高潔な魔女キルケーとも考えにくい。大蛇は刃物でなければ断ち切れない。彼女は大魔女でも剣は扱えない。……では誰が?
ヴルツェルは溜め息を吐いた。
私を本島まで追いかけて来た鼻の長い男だろうか? 極力音を殺して行動していた私を見破り、握っていた刃物を落とす事すらしなかった。短絡的な男ならあの時、力をもって制止していただろう。しかし奴は止めなかった。ただ声を掛けただけだ。
……逃亡しなければ少し腹を探れたかもしれない。
誰にしてもこの街へ向かっている事は確かだろう。何も無い不毛な死の土地だ。わざわざ足を向けるとは私が狙いなのだろう。
しかし強盗を追い払えぬ程に体力は回復していない。南の街に辿り着いた日、ふらふらと歩いていたら背後から首を突かれ昏倒した。心優しい家主に助けられ意識を取り戻したら、翻す程に伸びていた髪が無くなっていた。水鏡で確かめてみれば散切りだ。裸体で歩いていても奪えるものは奪う……それがこの街の生きる術なのだろう。人々の心は荒んでいるのだ。
翌朝丘の様子を調べるべく、薄汚れたボロの服を纏ったヴルツェルは小屋を出た。ランゲルハンス宅から失敬した小瓶から白い遣い魔を出すと供をさせた。
四大精霊とランゲルハンスだけで暮らしていた時よりも粗末な服だ。風通しがやけにいい。照り返しの強い海の近くの街でなければ肌寒いと感じるだろう。通りにゴザを敷き、フードやターバンを巻いて商売をしている者達とそう変わらない服装だ。
ふらふらと通りを歩く。まだ魂が体に馴染んでいない。足を地に着けていても頭だけが乖離しているような、海から上がったような気分だ。しかしこの前の二の舞は踏みたくない。誰とも視線を合わせぬよう、人々の声や空気の流れに注意を向けつつ丘へ続く道を歩む。やはり昨夜の閃光と山の消失の話題で持ち切りだった。人々は丘を眺めるが誰一人として足を向けようとしない。今まで険しい山脈に囲まれ不毛の土地に絶望していたのにも関わらず誰一人として希望を抱き、丘を駆け上がり未知の土地を見下ろそうともしない。……不幸に疲弊してそれが当たり前になってしまったか、それとも一夜の出来事に不安を抱いているのか。どちらにしても山の消失は南の街の人々に迎合される出来事ではないようだ。
街を抜け、丘を登る。丘と言っても山を削って出来たものなので多少は険しかった。慣れない体では息があがる。沸沸と汗が滲み出る。それでも懸命に登っていると頂きに着いた。額の汗を拭いつつヴルツェルは南の街を背に下界を見下ろした。
眼下には大地が広がっていた。牧場や農園、果樹園、点在する石造りの民家、湖が広がる。群れをなした馬が地を駆け、牛が下草を食み、羊飼いが木陰で昼寝をする。……遥か西と東には緑豊かな裾野が広がり、丘の真下では草原が風に撫でられ歌を歌う。
……これが、ハンスが治める大地なのか。
ヴルツェルは溜め息を吐くと後ろを振り返った。
豊かで広大な大地とは真逆の世界がそこにあった。
草木が生えず地が剥き出しになり、その地すら砂にまみれている。日差しから身を守る為に人々は頭を布で覆い常に俯き、飲み水をめぐり争いを起こす。良くなろうと言う想いすらなく、基準すらもない。皆、遠くを見据える訳では無く、その日を生きる為に足許しか見ない。
瞳を閉じたヴルツェルは唇を噛む。
……あの時、私が反対さえしなければ、毒を水脈に投げ込まなければ、肉体の全てを失っていたのなら……否、ハンスの想いを受け止めていればこうはならなかったのだろう。心臓に取り憑いていた頃、ハンスの遣い魔からの報告に聞き耳を立てていたがここまで悲惨だとは……。ハンスは南の街を以前から案じていた。こんな様を眼の当たりにすればハンスはどんな表情をするだろうか。
アメジスト色の瞳からヴルツェルは涙を零す。
深く愛した者を幸福にしてやれずに何が義と言うのだ。魂の叫びに触れ何も出来ずに何が仁と言うのだ。
ヴルツェルは小刻みに震える手を握り締めた。深い溜め息を吐き、手を広げると掌には大粒のアメジストが乗っていた。
こんな能力が何になると言うのだ。争いの根源だ。誰を救えると言うのだ。洞窟へ戻った私がゴブリンの仲間にもたらしたのは欲と欺瞞に満ちた世界だった。
ヴルツェルは瞼を閉じ、唇を噛み締めた。
丘の向こうの豊かな土地の存在をどのようにして人々に伝えるか考えた。しかし最適な案が思い浮かばなかったので丘を下りた。
丘の麓で背後から肩を叩かれた。
「おい。頭が随分さっぱりしたな?」
背後から声を掛けられたヴルツェルは振り返る。そこには屋敷で自分に声を掛けた鼻の長い男が居た。男の側には黒髪の乙女と上半身裸の赤毛の少女がいた。
「探したぞ。ヴルツェル」男は鼻を鳴らした。
「……殺しに来たのか?」ヴルツェルは問うた。
「物騒な事言うなぁ。ファック真っ最中の部屋の前で真っ裸でドス構えていた男がよぉ」男は苦笑する。
真意を推し量ろうと男の瞳の奥を見据えていると、男は手を差し出した。
「おっさん、ノーム……いやゴブリンって土の精霊なんだろ? 俺はイポリトだ」
ヴルツェルは差し出された手と青白く光る瞳を交互に見遣った。
「何か深い理由があんだろ? それを聴きに来たんだ」
「……随分と察しが良い男だな」
「ああ、おっさんが逃亡する時に呟いた言葉が引っかかってな。『ハンスが居れば救えたのに』ってな。俺は何を救いたいのか知りたいし、おっさんの力になりてぇんだ」
ヴルツェルはイポリトの瞳の奥を見据える。
「……あの晩、貴様は私を制さずに声を掛けただけだった。察するにあの捕縛はケイプとフォスフォロの案だろう?」
「ああ。おっさんの体を造形した作者としてはもっと丁寧に扱って欲しかったがな」
「あの時、貴様は私を捕える事も出来た筈だ。だのに敢えて私を捕えなかった。……手を取っても良さそうだな」
ヴルツェルは差し出されていたイポリトの手を握った。
イポリトの隣でチラチラと窺う乙女とヴルツェルは視線が合う。
「あの……あたし……」
乙女の凛とした声音にヴルツェルは微笑む。
「君はアメリアだな」
「どうして名前を?」アメリアは青白く光る瞳を目一杯開いた。
「ハンスの体内に居る時に君の声をよく聴いたからな。君が幼い頃からよく知っている。我が子も同然だ。アメリアが信頼を置く男なら信じる価値はありそうだな」
頬を染めたアメリアはもぞもぞと膝をすり合わせる。
「なーに照れてんだよ」イポリトはアメリアの額を人差し指で弾いた。
唇を尖らせるアメリアの隣では上半身裸体の赤毛の少女が無表情でヴルツェルを見つめていた。名を問うと『ディーはディーだ』と少女は呟いた。
「そしてディーの双子の姉、ダムだ」背を向けたディーは長い赤毛をカーテンのように捲る。彼女の背には彼女と瓜二つの顔が貼り付いていた。
ヴルツェルは背に貼り付いたダムの鈍色の瞳を見据える。
「……彼女が山の正体を看破したのだな。主を手にかけたのはアメリアとイポリト、と言う所か」
ダムは悪戯っぽく微笑んだ。
「あんで気付いたんだよ?」イポリトは問うた。
「悪戯っぽく気性が激しそうだが、随分と遠くを見据えている。……賢者の眼だ。心強い」
「そうだ。ダムはディーの何万倍も賢い。医師ライセンスはダムが取ったと言っても過言ではない」ディーは鼻息を荒げる。
「え。ディーが試験受けた訳じゃないの?」眉を下げたアメリアは問う。
「当然。体内で会話して全てダムに答えさせた。実習も解剖もダムの指示で切り抜けた。のでライルと共に主席で卒業した」
「潜りの医者かよ」イポリトは顔を引き攣らせた。
「ディーとダムは一心同体だ。潜りではない!」
ポンポンと怒るディーを余所にイポリトはヴルツェルに問うた。
「ところでよ、おっさんこの街で何をしようってんだ?」
小さな溜め息を吐いたヴルツェルは街を見下ろした。
「……私はこの街を救いに来た」
「じゃあ俺、手助けしてやるよ」イポリトは悪戯っぽく笑った。
「よく知りもしない私を手助けすると?」ヴルツェルは横目でイポリトを見遣る。
「ああ。よく知りもしないから助けたいんだ。決めつけるのは短絡的だからな。ハンスのおっさんにはハンスのおっさんの、ケイプにはケイプの、フォスフォロにはフォスフォロの正義があるだろ? それと同様にヴルツェルにはヴルツェルの正義があるんだ。……例え乱暴に正義を貫いちまったとしても根底には『より良くしたい』って心意気があったと想うんだ。俺はヴルツェルの心意気を尊重したい」
小さな溜め息を吐きヴルツェルは寂しそうに微笑する。
「……気の遠くなる時を経て、漸く理解者が現れるとはな」
ヴルツェルは彼らを拠点へ招いた。小屋の主も賢者のヴルツェルの知り合いとならば快く迎え入れた。猫のような瞳の小屋の主を囲むと、南の街の現状をイポリト達は聞いた。
「……ご覧になった通りだと想います。この街は土が死に、人も死にかけ何も生み出せない土地です」猫のような瞳の主は首筋を撫でつつ呟いた。
「道すがらヴルツェルに大筋の話を聞いた。一つ解せないのは山で隔てられてたこの地にどうやって人が住み着いたって事だ」イポリトは問うた。
「……かつて私は義弟と共に東の土地で漁を生業として生活して居りました。しかし舟が嵐に巻きこまれ沈没し、義弟と共にこの土地に流れ着きました。この土地に住まう者はそんな者ばかりです。無論、死んだ土地に絶望し、脱出を試みました。しかし海には渦が御座います。漂流する者を巻き込み、出ようとする者を阻みます。山も気が遠くなる程に高く、越える事が叶いません」
テーブルに両肘を突き、眼前で手を組んでいたヴルツェルは溜め息を吐く。
「……どれもこれも私の所為だ。私がハンスの心臓に留まった所為で、血脈の一つである潮流まで異常をきたした」
「けどよ、あの高い山だって消えたんだ。出るには出られると想うぜ?」イポリトは問うた。
「山が消え、丘になっても誰も登らないくらいだ。根が深い問題だ」ヴルツェルは溜め息を吐いた。
主は頷く。
「仰る通りです。……かつてこの地を出ようとした私ですら他の土地へ歩み出す気になれません。こんな死の土地でも私にとってはもう一つの故郷です」
「確かにそう思うのかもしれねぇ。でもそんな殊勝な連中ばかりじゃねぇかもしれねぇぞ? 移動する気力さえ湧かない連中もいるだろうし、罪に手を染めて得た地位を手離したくない連中だっている」イポリトは主を見遣った。
「そうです。この土地にはそんな奴らばかりです。雷を運び、時々雨をもたらして下さるペガソスにさえ彼らは石を投げつけ撃ち落とそうとするのです。罪なき者、美しい者は男も女も関係なく餌食にされます。ヴルツェル様でさえ、見目が麗しいからと髪以外も奪われそうになりました」
ヴルツェルは瞳を閉じる。
「少ない食料を差し出して男達を追い払ったポンペオに感謝する」
「勿体ないお言葉です」ポンペオと呼ばれた主は首を横に振った。
イポリトは腕を組んだ。想った以上に荒んでいる。武術や剣術に心得があるアメリアは兎も角、暢気なディーを外に出すのは暫く控えた方がいいだろう。
「……とにかく、この土地の者が外に出る気はないのは分かった。ところでよ、さっき義弟と共に流されて来たと言ったが義弟は何処にいるんだ?」イポリトはポンペオを見遣る。
「遠い昔に死にました。彼は所属者だったので」
「……そうか。悪い事を聞いた」
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