六章 五節


 ディーがモリー一家と森の動物達を引き連れ戻って来た。ティッカは気絶していたヴィクラムを起こす。意識を取り戻したヴィクラムは母に驚いた。しかしイポリトに諭された通りに直様家出の件を謝ると経緯を説明した。真っ直ぐに瞳を見据える息子にティッカは心を打たれ、許した。ティッカに優しく舐められるヴィクラムはイポリトに悪戯っぽく微笑んだ。


「……覚悟は出来たか?」イポリトはアメリアの顔を覗く。


「……うん。辛いけど、このままじゃ大蛇もあたし達も前に進めないし……」剣の柄を握ったアメリアの手が震える。


 イポリトはアメリアの手に自分の手を添える。


「……死神の仕事以外で殺した事はないんだよな?」


「……うん。食べる為に狩りをした事は幾度かあるけど……」


「大丈夫だ。俺も共に剣を振り下ろす」


 アメリアはイポリトを仰いだ。イポリトは微笑した。


「アメリアの心意気を見届けたいんだ」


 アメリアはイポリトの瞳の奥を見据えると頷いた。


 剣の柄を握ったアメリアの手にイポリトは手を添える。そして剣を夜空に翳すと振り下ろした。


 その刹那、辺りは光に飲み込まれる。瞳を突き刺す閃光に堪え切れず、二柱は瞼を固く瞑る。


 光が止み、イポリトは徐に瞼を上げる。


 横たわっていた大蛇や細い幹の樹々は消え、遠くには街の灯りが微かに見えた。山が消え、辺りは丘陵地帯に変わっていた。


「おい、アメリア。眼を開けろ」イポリトは彼女の肩を揺する。


 眼を開けたアメリアは暫くぼぉっとしていたが、辺りを見渡して驚く。


「山が失われた事によって南の街が近くなった。後はこの丘を下るだけ」ディーが二柱に歩み寄る。


 イポリトは街の微かな灯りを見据える。何も遮る物はない。地獄耳を澄ますとヴルツェルの鼓動が聴こえた。


「……街に居るんだな」


 アメリアはイポリトを見上げる。


「……ヴルツェルさんに会ってどうするの? どう……見届けるの?」


「会ってから考える。決して悪いようにはしない」


 眉を下げたアメリアは遠くを見つめるイポリトの瞳を見ると瞼を閉じる。


「……うん。信じる。イポリトならきっと良い方に導いてくれる」


 イポリトはアメリアを引き寄せると肩を抱いた。


 街の微かな光を見下ろす二柱の背にモリーは咳払いをする。


「そろそろ俺達は丘を下るぜ」


「……そうか」アメリアの肩から手を離したイポリトは名残惜しそうにモリーを見つめる。


 モリーは鼻を鳴らす。


「そんな顔するなよ。……ここで会えただけでも奇跡なんだ」


「ああ……そうだな」


 二人の男は拳と肉球を合わせると『またな』と呟き、互いに背を向けた。


 見送りのディーを先導に伴侶、子供達、山の動物を引き連れ丘を下るモリーの背をアメリアは見送った。


 街の光を見下ろすイポリトの隣にアメリアは佇む。言葉を掛けるでもなく、背を擦るでもなく、隣に居てやった。


「……何か話しかけてくれよ。このままじゃガキみてぇに泣きそうだわ」イポリトは目頭を抑えた。


「……イポリトさ」


「……あんだよ?」


 アメリアはもぞもぞと口を動かしていたが溜め息を吐くと言葉を紡ぐ。


「……ここで暮らしなよ」


 イポリトは唇を引き結んだ。アメリアは話を続ける。


「モリーやリンダさんと折角会えたのに、先を急いでなかなかお話出来なかったもの。現世に帰る必要ないよ。今までイポリトは頑張って仕事をしてきたもの。沢山の事を犠牲にして来た。あたしは現世で任を全うして島に戻る。また会えるよ」


 イポリトは溜め息を吐くとアメリアの額を人差し指で弾いた。表情を歪めたアメリアは額を抑えた。


「阿呆抜かすな」


「だって……寂しそう……」


「俺は俺が望むものを掴みたいだけだ。それが天を掴むような事でもな。互いが互いを理解出来ずとも尊重する世界……それを望んでるんだ」


「……うん」


「だから尊重してくれ。俺はこの島での俺の使命を果たす。それに置いて来た女にも会いに戻る」


「……うん」


 イポリトはアメリアの青白く光る瞳の奥を見据えた。アメリアは頬を染めたがイポリトの瞳の奥を見つめる。


「……どうしたの?」


「ごめんな」


「え?」


「……ディーから聞いたんだ。現世にいるお前に左腕を返しに行くのは無駄だって。……一度悪魔に取られたものは付けられないと聞いたんだ。死者を蘇らす程の名医のアスクレピオスでさえ無理だと聞いた」


「そんな事……いいよ。あたしはあたしの正義の為に左腕を失ったんだから。後悔なんてしてない」


「……そうか。アメリアは誇らしい、いい女だな」


 イポリトに頭を撫でられたアメリアは頬を染めた。


 ディーが戻り、これからどうするかと話し合おうとした矢先、女が現れた。復讐の女神エリニュスの一柱、ティシポネだった。牛追い鞭を握り、腕を組んだ彼女は眉を顰めてイポリトを見据えていた。イポリトの隣に佇んでいたアメリアは彼の腕を握った。


 イポリトはティシポネを見据える。


「……言いたい事があるようだな」


「ああ」ティシポネは視線を外さない。


「肉体言語か? イポちゃん困っちゃーう」


 鼻を鳴らすとも舌打ちするともせず、ティシポネはイポリトを見据えた。


 イポリトは肩をすくめる。


「……ヘカテの姐さんやらゼウスのエロ親爺やらが『喧嘩はメッ!』って言ってるだろうが」


 おちゃらけるイポリトを余所にティシポネは彼の瞳を見据える。


「……お前、記憶を取り戻したな?」


「まあな」


「……何故島に留まる事を選択した? 吾の手の及ばぬ所がいいと?」


「選択してねぇよ。俺は記憶を取り戻すよりも大きな目的がある。だから南の街に来たんだ」


「吾を退け、先を急ぐ程にか?」


「ああ。……確かに俺は親殺しだ。人殺しだ。だがよ、ティシポネの姐さんの仕事や正義を曲げようとは想っちゃいない。俺には叶えたい事があるんだ。それが例え天を掴むような事であっても。俺には俺の義が有り、姐さんには姐さんの義がある。……俺が自らの正義を貫いたら、現世に戻ると想うんだ。だからよ、俺を罰するなら現世で罰してくれ」


 アメリアはイポリトを仰ぐ。イポリトはティシポネの瞳の奥を真っ直ぐに捉えていた。


「……ヘカテやゼウスは現世での処罰について言及してなかったな」ティシポネは鼻を鳴らした。


「ああ。現世でなら俺を好きに出来るだろ?」


「そうだな」


 大きな瞳から涙を溢れ出させたアメリアはイポリトの腕を握り締める。やだ。そんな事言わないでよ。どうして置いて行こうとするの? イポリトから離れるなんてもう考えられない! ……きっと、きっとまた置いて行かれてもあたし、魂だけ抜け出てイポリトを追いかけると想う。だったら、だったら地獄の果てまでも連れて行きなさいよ! あたしはイポリトの剣でしょ!? イポリトが居なきゃ……あたし……あたし……。


 涙を頬に伝わらせ唇を震わせたアメリアは叫んだ。


「いや! イポリトが処罰されるならあたしも一緒に刑を受ける!」


 イポリトは目を見開いた。


 アメリアは声を張り上げて泣いた。


「阿呆抜かすな! 何処に見ず知らずの罪人と共に運命を共にする阿呆がいるんだよ!?」


「見ず知らずじゃないもん! ここまで旅を共にして来た!」


「阿呆! その場の雰囲気に流されるな! 一手二手先を見据えろ!」


「考えた! でもその先にはいつもイポリトが居る! これがあたしの答え!」


 二柱を眺めていたティシポネは溜め息を吐く。


「咎無き者を罰する事は出来ない……元より折衷案を出しに来た。ヘカテに『案を飲まなければ煮るなり焼くなり好きにしろ』と了承を得た。聞くか?」


「そう簡単に問屋は下ろしてくれねぇんだな」イポリトは苦笑する。


「当然だ。タルタロスに墜とされた父親を冥府へ連れ戻る事を罰としよう。ハデスにも了承を得た。それが嫌なら吾が貴様を処す」


 イポリトは鼻を鳴らす。


「分かった。条件を飲もう。……タルタロスから引き上げたエンリケはどうなるんだ?」


「詳細はまだ決めていない。当分は吾の預かりだろうな」


「そうか」


 ティシポネは牛追い鞭を握った手をイポリトの眼前に真っ直ぐ突き出す。


「吾はお前を許した訳では無い。お前の心意気、しかと見届けよう」


「おうよ。目クソ鼻クソかっぽじって、よーく見とけよ」


 イポリトは悪戯っぽく笑うとティシポネは鼻を鳴らし、黒い粒子となって消えた。

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