三章 六節
アメリアはようやくタルタロスに足をつけた。
九日間は落とした物が地に着かない、と話があるが盛り過ぎだろう。体感時間もそんなに経っていない筈だ。
天を仰ぐが穴のようなものは見えない。そう簡単には出られない程にここは深いらしい。雲一つ無い空が広がっていた。蓋を閉じられたのかもしれない。アメリアは軽く羽ばたいたが数十メートルも飛ぶと風が吹き荒れ、それ以上先へは昇れなかった。
彼女は地に座すと辺りを見渡し思案した。
光に満ち満ちた世界には湖が広がり、湖畔では緑豊かな木々が湖面に枝を差し伸べていた。枝には太った果実が無数に実っていた。熟れているのだろう、芳しい香りが辺りに漂う。
澄んだ湖面は光を反射させてたゆたい、豊かな緑はそよ風に触れられ歌っていた。山や崖、森に囲まれる。アメリアは深く息を吸った。
なんて美しくも長閑な所なのだろう。
しかしタルタロスの住民達に気付いた彼女の感想は直に変わった。
湖の中では幾人もの乙女達が底無しの壷で水を延々と汲み上げていた。きっとダナオス王の娘達だろう。初夜で夫を殺した彼女達の顔は疲労で青ざめ、表情を失っていた。
湖畔では骸のように痩躯の男が居た。豊かに実った果実に手を伸ばす。彼はタンタロスだろう。痩せ具合はローレンスの比ではなかった。タンタロスの体は骨そのものだ。彼は枝に実った熟れた果実に触れようとしたが、枝は身を引く。タンタロスは言葉にならない叫びをあげると、今度は湖面に勢い良く手を差し入れようとした。しかし湖面はモーセの海割りの如く彼の手を除け、水滴一つを汲ませる事も許さない。
崖の上には筋骨逞しい男、シシュポスが居た。彼は頂上近くで大岩を下から支えていた。あともう少しで頂上へ戻せそうだった。しかし疲労の為かバランスを崩した。支えを失った大岩はシシュポスに襲いかかった。彼は大岩にひかれまいと慌てて崖を滑る。そして再び中腹から大岩を押さえ、頂上を目指す。
遠方では炎に包まれた車輪が回転していた。アメリアは西部劇に登場する転がる枯れ草、タンブル・ウィードを想い出した。こちらへ向かって来る。しかし車輪が近付くと彼女の笑顔は直ぐに消えた。
炎を巻き上げる車輪には男が括り付けられていた。イクシオンだ。彼は炎に蝕まれ叫び声をあげる。辺りに人体が焼ける嫌な臭いが立ちこめる。しかし肉体は常に再生を続け、他のタルタロスの住民と同じく死を許されない。
彼らは死んでいた。死んでいるが故に死を許されない。永遠の罰を受ける他無かった。
眉を下げ、指輪を握り締めたアメリアは彼らを眺めつつも思案した。
焦ったって絶望したってどうにもならない事くらい分かってる。しかし永遠に悲しい地にいなければならないと想うと涙が込み上げる。
涙を零すまい、と唇を噛み締め思考する。剣の師であったフォスフォロに教えられた事を想い出した。非常時は心を落ち着かせる為に日常的にしていた事をして、まずは欲を満たせと言っていた。
空腹だった。風呂にも入りたかった。
彼女は師を信じて水浴びをして心を落ち着かせようと決めた。
皆、刑罰に心奪われて見てないから大丈夫だよね。
アメリアは湖畔で服を脱いだ。緊張で汗ばんでいた肌が空気にさらされると気持ちが良い。下着を外すと、ワイヤーに圧されていた胸が解放されて楽になった。
一糸まとわぬ姿になると穏やかな湖面に足を差し入れた。
ゆっくりと前進し、体を湖に沈ませる。澄んだ水は冷ややかで心地良かった。アメリアは歩みを進め、肩まで水に浸かった。足は底に着き、彼女の足許から縞のある小さな魚が泳いで行った。奈落の底にも命を灯す小さな生き物に彼女は眼を細める。
水と戯れ、気持ちを落ち着かせると湖畔へ引き返す。
奈落の底タルタロスとは言え、刑罰を受ける罪人から眼を逸らせばそんなに酷い所では無さそうだ。拠点を作り落ち着いて打開策を考えられそうだ。髪から水を滴らせたアメリアが岸へ上がろうとすると、突如背後から手首を掴まれた。
驚いたアメリアは振り返る。
手首を握っていたのは、柳のように痩せこけ腰を曲げたタンタロスだった。骸のような彼の手の力は赤子よりも弱々しかった。彼は黄ばんだ眼でアメリアを見上げる。
アメリアは瞬時に片腕で胸を隠す。
「お……慈悲を」タンタロスは枯れた濁声を発した。
間近で見たタンタロスの痩せ具合にアメリアは声を失った。歴史書に載っていた写真を想い出した。強制収容所に押し込められ毒ガスで殺された人間同様にタンタロスは眼も当てられない様だった。
「お、願い……です。み、ずをひとさし。お願い、です」
タンタロスはアメリアに水を一差しすくって飲ませて欲しいと請うた。
黄ばみ、涙も枯れ果てた眼をアメリアは見つめた。あまりの恐ろしさに声が出なかった。重罪人とは言え彼の置かれた状況に恐怖する他無かった。
「お願い、です。……お願い、です」タンタロスはひび割れた声を振り絞り、アメリアに慈悲を請い続ける。
足をすくませたアメリアが頬に涙を伝わらせていると、背後で水音がした。水音の主は、アメリアの手首から古木のような手を離す。そして逞しい腕で彼女を軽々と抱えて湖畔へ上がった。
逞しい腕の主はアメリアを岸に下ろしてやると、その場に座しそっぽを向いた。ランゲルハンスと比肩はしないが樫の木のような大男だった。
我に返ったアメリアは自分を助けた大男に礼を述べた。
「礼よりもまず服を着ろ」
アメリアは畳んで置いた服を急いで着ると隣に座す。
「あの……ありがとう御座いました」
アメリアは大男を見上げた。死神と同じく青白く光り輝く瞳をした大男だった。
筋肉質な大男は風にブロンドの髪をなびかせる。
「敬語は要らん。俺はエンリケだ。君は?」
「アメリア。あの……その瞳」
「察しの通り、元死神だ。翼を切り取られた今では地獄の住民だがね。……君も罪人か?」
「……いいえ」眼を伏せ言葉の続きを探していると腹が鳴った。アメリアは頬を染めた。
エンリケは鼻で笑うと『良ければ付いて来い』と立ち上がり、歩き始めた。
アメリアは恩人の後に従う事にした。
エンリケの後を歩いていると、森に入った。背の高さを競う木々は天を覆い尽くす。枝葉から漏れる日の光は地面に落ちて揺らめく。辺りには土と苔の香りが漂っていた。時折、アメリアは鹿に会ったり枝で眠る鳥を見つけたりした。
「奈落の底とは想えんだろ?」エンリケは振り向いた。
「ええ。本当」自然の美しさにアメリアは溜息を漏らした。
森を進むと小屋が見えた。
エンリケは小屋のドアを解錠するとアメリアを招じ入れた。
小屋に入るとアメリアは驚いた。壁一面に数字が綴られ、引っ搔き傷が幾つもついていた。この人物とは関わってはならない、と悟り彼女は後退った。
正直な反応を眺めたエンリケは豪快に笑う。
「この所、禁断症状は出ないから安心すると良い。取って喰いはしないさ。こう見えても亡くした妻一筋でね」
眉を下げたアメリアはエンリケを見遣った。彼はまだ笑っていた。笑い方がイポリトを想い出させる。
「禁断症状って?」アメリアは問うた。
「酒さ。昔は浴びる程飲んだ。ここには一滴も無い。落とされた当時は酷いモンだった」
エンリケは丸テーブルの側の椅子を勧め、アメリアの前に水蜜桃を三個置いた。そして対面の椅子に座す。
「良かったら喰え。なに、喰ってもハデスに口説き落とされたペルセポネのようにその場に居なきゃならん訳じゃない。
バターを混ぜたような甘い香りにアメリアは満面の笑みを浮かべる。
「美味しそう。ありがとう、エンリケ」
水蜜桃の皮を剥いて唇を寄せるアメリアを眺め、エンリケは微笑んだ。アメリアは頬を染める。
「どうして見つめるの?」
「君は死神と言っても、随分年若いだろ?」
「ええ。でも、何故?」
「食べ方が懸命で子供っぽい。何かを喰わせたくなる男の庇護欲をくすぐらせるからな」エンリケは豪快に笑った。
アメリアは唇を尖らせて俯いた。
「そんな年若く愛らしい君がどうしてここへ?」
水蜜桃を齧りつつ、アメリアは事の次第を説明した。
「成る程。友人の指輪を取って墜ちたと……」エンリケは独りごちた。
「エンリケは死神でしょ? 何故ここにいるの?」
エンリケは脚を組む。
「酒の話をしたな。生前俺は酔う度に息子に手を上げていた。ずっと飲んだくれていたから、ずっと手を上げていた訳だな」
水蜜桃から手を離したアメリアはエンリケの瞳を見据える。
「どうしてお酒を飲んだの?」
エンリケは溜め息を吐く。
「深く愛し合っていた人間の妻を亡くしてな。酒に逃げた。死神と人間の婚姻のルールについては知っているだろ? 死神は子を連れ人間の許から迅速に立ち去らねばならない。彼女は子供が好きだった。秘密裏に子供を育ててやらせたかった。だから俺は暫く彼女から身を引いた」
アメリアはエンリケの瞳を見つめ続けた。
「命の期限を知り、死に際の彼女から息子を引き取った。美しい彼女に瓜二つだった。……憎くて堪らなかった。彼女が短命なら掟を破ってでも共に過ごしたかった。彼女と過ごせる短い時間を子供が俺から奪ったのだからな」
溜め息を吐いたエンリケは腕を組む。
「彼女を俺から取り上げたと言っても、息子は息子だ。当初は跡継ぎとして育てようと想っていた。しかしあの容貌だ。俺は憎しみを覚え彼女を亡くした悲しみを押さえ切れずに酒に逃げた。そして息子に手を上げた」
アメリアは俯いた。エンリケは組んだ二の腕をつねる。
「暴力の衝動は押さえ切れなかった。ある夜、珍しく反抗したあいつに俺は憤慨した。肋を折ろうとも内臓を破裂させようとも構わず、俺はあいつを蹴り続けた。殺そうと想った。しかし同居していた男に邪魔をされ、そいつに後ろから首を刺された」
エンリケの二の腕には爪が食い込み、血が滲む。
「暫く俺は意識を失っていた。しかしどうにか目覚めた。男に復讐しようと首に刺さっていた燭台を引き抜き、気絶している男を刺そうとした」
二の腕から血が滴り、床を汚す。
「しかし起き上がった満身創痍の息子に燭台を奪われた。幾度も幾度も燭台の先で突かれて俺は地に伏した。大男が年端も行かない子供にだぞ? あいつの力と言ったら狂人のそれと同じだった。我が息子と言えど末恐ろしい男だな、全く」
長い溜め息を吐くと、エンリケは腕から手を離した。立ち上がったアメリアはポケットからハンカチを出し、彼の二の腕に巻いた。
「……君は変わっているな。子供を虐待した男の手当をするとはね」エンリケは苦笑した。
「エンリケは罰を受けてるもの。この怪我は関係ないわ。だから手当をするの」
「無駄に優しさを振りまくから男に酷い目に遭わせられるんじゃないのか?」エンリケはアメリアの瞳を見据えた。
「何故、そんな事を?」
「罪人とは言えタンタロスを助けたいと想っただろう? 湖でそんな表情をしていた」エンリケは微笑んだ。
「……ええ」アメリアは瞳を伏せた。
「君は天使のように優しく子猫のように無防備で愛らしい。神も人間も年若い時は瞳に希望の光が宿っている。それなのに君の瞳の奥には悲しみが潜んでいる」
アメリアはコンラッドとの一件を想い出し、唇を引き結んだ。
「図星か。精々気をつけるんだな。所詮神も人間も獣と同じだ」
「セラピストかカウンセラーみたいね、エンリケって」
アメリアは椅子に座す。
「息子さんはどうなったの?」
エンリケは豪快に笑う。
「タルタロスに墜とされた俺が知った事か! ……と言いたい所だが、以前一度だけここで会った事がある」
「ここで? 息子さんもタルタロスに墜とされたの?」
頬杖を突いたエンリケは笑う。
「仕事を何度も怠ってハデスにどやされて墜とされたんだとよ。ざまあねぇな」
「仕事ってタナトス? ヒュプノス? どんな人?」
「俺程じゃないが逞しい男になったな。しかもただのヒュプノスじゃない。問題ばかり起こすとっつぁん坊やのタナトスの監視役だ」エンリケは鼻を鳴らした。
豪快な笑い方、逞しい男、タナトスの監視役……アメリアの脳内である男の姿が浮かび上がる。
「その人ってまさか……」
するとドアを打ち付ける大きな音が室内に響いた。
「どうやらお迎えが来たようだ、ローレンスのお嬢さん」エンリケは微笑み立ち上がると、ドアを開けた。
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