第40話 三人の夕食

 カ-トの買い物かごに佳苗が入れている食材でいったい何が出来るのか、竜次には見当が付かなかった。野菜コ-ナ-で買うのはキャベツかジャガイモ。時々ニンジンと時々玉ねぎ。鍋料理の時は白菜にネギが加わるだけ。赤や黄色のピ-マンなんて買ったことがない。トマトの缶詰なんて存在すら知らなかった。竜次が押しているカ-トのかごの中身は次第に色付いていった。

 目の前を佳苗が沙紀の手を掴んで食材を選んでいる姿が、何とも微笑ましかった。このス-パ-にいる誰が見ても、二人は母親と娘に見えるだろう。そして自分はその父親。三人の家族が仲良く買い物をする光景に、誰が見ても見えるだろう。竜次は一瞬そうなりたいと思ったが、亡くなった妻を思い出し二人の後ろ姿から視線を外した。そしてカラフルなかごの中にビ-ルとワインを入れ、気を紛らせた。


 佳苗が支度したテ-ブルの彩りは見事なものだった。さすがに栄養士の資格を持つ女性だと竜次は思った。野菜も魚もふんだんに入った二度聞きしないと覚えられない料理の名前。いつもと同じ銘柄のビ-ルが数倍美味しく感じられる。沙紀も自分と二人の夕食とは比べ物にならない程食べて、はしゃいで、笑って、しゃべった。

 男手で必死になって育ててきたつもりだったが、本来真っ直ぐに育つべき樹木を、どこかしら矯正してきたかも知れないと痛切に感じた。夕食が終わっても、沙紀は友達の話やお遊戯の話、佳苗は園長の話や保育士仲間の仕事の話などを語り、竜次も普段は話さない仕事の話を口に出した。沙紀が時計を見て、毎週見ているアニメの為にテレビの前に陣取った。「沙紀ちゃん、もうちょっとテレビから離れて見ようね」佳苗が言うと、沙紀は座ったまま後ずさりして、ラビちゃんのぬいぐるみと一緒にテレビに没頭した。

 二人きりになったテ-ブルで竜次は佳苗の事を聞きたくなっていた。自分が知っている保育士佳苗先生ではなく、佐々木佳苗の素顔、趣味、夢、考えている事、悩んでいる事、好きな食べ物、好きな音楽、好きな映画、好きな作家、好きな言葉、兎に角彼女の事は何でも知りたくなっていた。何から聞こうか、どんなきっかけで聞こうか、そう考えながら少なくなった佳苗のグラスにワインを注ごうとすると、佳苗は手でグラスに蓋をして「もう十分です」と言った。竜次はそれじゃぁと言ってコ-ヒ-を用意した。コ-ヒ-ドリップに湯を注ぎながら、趣味か、本か、映画かと口火の話題を選んだ。香り立つカップを佳苗の前に差し出して趣味の話を聞こうとした時、佳苗が小声で話を切り出した。それは竜次が考える方向ではなかった。

 「数日前からなんです。子供たちとお誕生日の話をしていた時、半分くらいの子供たちが自分の誕生日を答えるんですが、沙紀ちゃんは西暦も答えたんです」

 「へぇ~、五歳児は西暦知らないんですか?」

 佳苗は沙紀がアニメに夢中になっている姿を見て続けた。

 「はいっ。殆どの子供は知りません。それにお父様の、加藤さんの誕生日も話してくれました」

 「へぇ~」

 「あと、絵本も一人で読むんです」

 「一人で読めますかね?理解してますかね?」

 「はい。私も初めは絵本の挿絵だけ見ているのかなって思って傍に寄って、一緒に読もうかって声を掛けたら、お姉ちゃんと一緒だからいいって」

 「お姉ちゃん?」

 「はい。お姉ちゃんって。お姉ちゃんに読んでもらってるって。・・・先ほど話した誕生日も、お姉ちゃんが教えてくれたって言ってました」

 「お姉ちゃん」

 「はい。それと・・・」佳苗はバッグの中から丸めた画用紙を取り出した。

 「これです。先ほど保育園に行って取って来たんですけど、この間描いてもらった絵なんです。・・・題材は特になくて、何でも好きな物や好きな事を描いてねって・・・」

 佳苗から渡された画用紙を竜次は広げた。竜次は息を呑んだ。

 画用紙には四人が描かれていた。真ん中には沙紀自身と思われる女の子がいる。左手で手を繋いでいるのが、どうやら竜次のようだ。しかし沙紀の右手側には、真っ黒い服を着た女が描かれている。顔の半分を占める程赤い口を開けている。笑っているのか怒っているのかは分からない。ただこの女が、数日前から沙紀が話しているお姉ちゃんの姿である事を竜次は確信した。そして沙紀と女の間に小さく描かれた白髪の老人。無表情に正面を向いて、鳥の足のような細い手足が青い服から突き出ている。遠目に小さく描かれていた老人が、遠くから三人を支配しているようにも思えた。

 「実は、前にもおじいちゃんの事は言っていたんです」

 「・・・ええっ、どんな風に?・・・」

 「お食事の時間だったり、お遊戯してる時だったり、あとお昼寝から覚めた時とか、ついこの間も、ブロック遊びをしている時に、あっ、加藤さんがお迎えに来た時も、沙紀ちゃんが眠っていて目が覚めて、おじいちゃんは?って・・・」

 「おじいちゃん・・・」

 「・・・そして今週はお姉ちゃんが現れて・・・」

 竜次は絵をじっくりと見つめた。佳苗はテレビの前の沙紀をちらりと伺って、竜次の顔を見た。

 「済みません。私にもこの女性とおじいさんの存在が、沙紀ちゃんにどんな影響を及ぼすかは判断が出来ないんです、ただ不安です。関係は無いと思いますが、ユミちゃん親子の事故とか・・・あっ、済みません・・・」

 竜次も頷いて言った。

 「偶然ですかね」

 「偶然と言うか、全く関係ないと思います。ごめんなさい・・・ただ、お姉ちゃんとおじいちゃんと言う人が、この絵に描かれた存在である事には違いないと思うんです。・・・加藤さん、私、不安なんです。・・・この女性、お姉ちゃんて人、そしておじいちゃんって存在・・・何て言うか、加藤さん、心当たりありませんか?」

竜次は眉間に皺を寄せて、黒い女と老人の絵を見ながら答えた。

 「・・・二週間程前テレビを見ていて、・・・あの・・・話題になってる霊が出たとかいう・・・」

 「あっ、はいっ。なんかネットで知りました」

 「その、テレビを見ている時、・・・何ていうか・・・テレビの映像を見ていた沙紀が、おじいちゃんがいるって言ったんです」

 「えっ・・・」

 「・・・その日から何日もしないうちに、今度は家で遊んでいる時、誰かと会話をしているような事が続いて」

 「えぇ~」

 「・・・うん・・・そうなんです・・・誰と話しているのって尋ねると・・・確かにお姉ちゃんって答えました・・・お姉ちゃんと話している・・・お姉ちゃんと遊んでいるって・・・」

 「おじいちゃんと、お姉ちゃん・・・ですか・・・」

 竜次はテレビに夢中の沙紀の後ろ姿を見た。佳苗はその竜次の横顔を見つめ、沙紀に目を向けた。

 画面ではCMが始まり、沙紀はタイミングよく二人に振り返って言った。

 「先生はずっといるの?」

 竜次は一瞬(バカ、何を言ってるんだ)と思って佳苗の顔を見た。

 佳苗ははっとして腕時計を見た。

 「やだ、こんな時間。済みません、なんか長居してしまって」

 竜次は立ち上がる佳苗を制するように両手を上げて「いや、まだよかったら、ゆっくりしていって下さい」と言ったが、佳苗はそのまま急ぐように玄関に向かった。沙紀も立ち上がり佳苗の後を追った。

 「済みません、お邪魔しました」

 沙紀は竜次の手にしがみつき、残念そうな顔で言った。

 「先生、帰っちゃうの?」

 「うん。先生、今日は帰るの。沙紀ちゃん、また明日、保育園で会おうね」

 竜次も残念そうな表情で言った。「先生、本当に今日は、ごちそうさまでした。ありがとうございました」

 「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」佳苗はそう言うと静かに玄関を開け、外に出た。

 「下まで送ります」竜次は佳苗の後を追った。

 「わたしも」沙紀も竜次と一緒に外に出た。

 エレベ-タ-を待っているほんの十数秒の間、佳苗は隣に立つ親子に目を向けられなかった。エレベ-タ-のドアが開き、中に入って一階に降りるまでの僅かな時間も、佳苗は何も話せない。竜次も無言で時を待っていた。一瞬だけ、佳苗の肩に触れようと試みたが、手は動かなかった。

 ドアが開き、竜次は佳苗を先に誘導した。佳苗はコクリと頭を下げ狭いエントランスに向かう。竜次と沙紀も手を繋ぎながら後に付いた。マンションの外で佳苗は改めてお辞儀をし「本当に今日はありがとうございました」と笑顔で話した。竜次も「僕たちの方こそ、ありがとうございます」と言って、頭を下げた。佳苗は名残惜しそうに踝を返し、歩いていった。沙紀が「バイバ-イ」と手を振って見送った。

 佳苗は暗くなった住宅地を歩きながら、何か無用な心配を残して来た事への申し訳なさを感じていた。ただ、竜次との偶然の出会いから始まった今日の一連の出来事で、加藤竜次という人物に一歩近づけた喜びも、同時に感じていた。

 リビングに戻ると沙紀は再びテレビの前に居座った。

 竜次はテ-ブルにつき、残ったワインを口にしながら佳苗が渡してくれた沙紀の絵を見直した。赤い口を開けた女と横にいる老人は、まるで自分の命より大切な沙紀の全てを奪っていくような、不安で不気味な存在に思えてならなかった。ゾクリとした震えが全身に走った。そして仏壇がある自室の方に手を合わせ、心の中で強く思った。

 (光紀、お願いだから、沙紀を守ってくれ。頼む。変な存在から沙紀をしっかりと守ってくれ!)


 「なんでうちにはママがいないのぉ~。なんで沙紀にはママがいないのぉ~」

特に酷かったのは沙紀が保育園に入園して一年程してからだった。沙紀には「ママは遠くに行っている。遠くに仕事に出かけている」と嘘を付き続けてきた。遠くにいる。遠くに出かけている。遠くの方に仕事に行っている。だから今は会えないんだ。分かって欲しい。そう言い続けてきた。沙紀自身が母親の存在を本当に認識し、母親含め生命の生き死を理解し、概念を考えられるようになるまで、竜次は光紀の死の事実を話さないと心に決めていた。だから小さな仏壇から光紀の遺影を外した。自らのスマホの壁紙も光紀が映る写真を外した。その代わり彼女がいつの日か母親のいない現実と向き合う時が来て、彼女自身が自分に対して正直に問いかけて来た時に、すべての写真を二人で一緒に振り返り、光紀と自分の出会いから沙紀が生まれるまでの歴史を、きちんと教えてあげようと考えた。

 ただ沙紀が一日でも早く成長してくれる事を願うと同時に、それを沙紀に対して話す日が遠い未来であって欲しいと、竜次は思っていた。


 シャワ-を終えた竜次はノ-トパソコンをリビングに持ち込んで、魔除けの方法と魔除けのグッズを瞬きもせずに検索した。沙紀の周囲で重なる事故、それも沙紀の友達を奪った不幸は、絶対に[お姉ちゃん]と[おじいさん]のせいだと竜次は考えた。兎に角沙紀を守るための魔除け、除霊をするしか無いと強く思った。

 サイトで紹介される物の説明はどれもおどろおどろしい解説を付けてはいるが、殆どが眉唾である事を、検索を繰り返す毎に思い知った。今必要なのはそんなものではない。本物の魔除け、守護、邪気払いの物だ。ただ、何十ものサイトの説明文を読み続けていくうちに、古くから人々は宝石に対して、何らかの強い依頼心を持っていた事は分かってきた。ただ、これ以上検索しても同じ類の事しか見つからないと諦め、竜次はパソコンを閉じ、自室に戻った。そして光紀の仏壇に線香をあげ直し、両手を合わせ深く祈った。

 (頼む。光紀。頼む、沙紀を守ってくれ。頼む)


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