第七章

第39話 竜次と佳苗

 「沙紀~、お留守番頼むよ~」

 「何処行くの?」

 「パパ、これ洗濯出してくる。二、三十分で戻るから、お願いね~」

 「わかった。いいよ」

 「じゃ、頼むね~」

 「いってらっちゃ~い」

 エレベ-タ-で下に降りマンションの玄関を開けると、突き抜けるような青空が見えた。空気は乾いて清々しい。自転車で軽く飛ばして行こうとしたが、十分程度の道すがら、歩いて行こうと竜次は決めた。

 考えてみれば日曜日の昼前に近所を歩くのは、近くの公園で行われる祭りやイベントの時だけだ。だいたいにおいて、この時間はゴロゴロと家でテレビを見ているか、沙紀の遊びの相手をしている。時には既にビ-ルを飲んでいる事もある。歩き始めてすぐ、サッカ-のユニフォ-ムを着た中学生に、こんにちはと声を掛けられた。同じマンションに住む子供だった。角を曲がると数件並んだ住宅の二階からピアノの音が漏れ聞こえた。ゆったりと落ち着いた音色のノクタ-ン。

 沙紀がまだ赤ちゃんだった頃、この家の二階から聞こえてきたのはたどたどしい猫ふんじゃっただった。誰が弾いているいるのかは分からないが、数年の間にかなり上達した様子に、竜次は何となく心が膨らんでいくような嬉しさを感じた。

 住宅地を抜けると車の往来が激しい国道に出る。平日の朝とは違って、国道の車の行き来は極端に少ない。沙紀を乗せて保育園に向かういつもの通りだったが、久し振りに歩いてみると、風景や雰囲気そのものが新鮮に感じ、歩いてきた決断は正しかったと思えてきた。その国道沿いを少し歩いて脇道に入った所に佐々木クリ-ニングがある。色褪せた看板が見えた。


 自動ドアが開いた瞬間、佳苗は反射的に「いらっしゃいませ」と挨拶をした。椅子から立ち上がり入って来た客を見て、佳苗の息が止まった。加藤竜次が立っていた。

 「あれっ、先生?」

 竜次は不思議な物を見たような顔つきで佳苗を見ていた。保育園で見る佳苗先生は、後ろで束ねた髪に動物のエプロン姿だったが、目の前の佳苗先生は黒いエプロンに肩の下まで垂らした髪が一層女性を感じさせる雰囲気だった。

 佳苗は一瞬、恥ずかしい姿を見られたような気がしたが、気を戻して竜次に応えた。

 「ここ、私の家なんです」

 「ええっ、そうだったんですか?・・・じゃ、いつもいらっしゃるのは、お母様?」

 「はい」

 「あぁ~、そうだったんですかぁ~・・・でも、ずっと前から来ているけれど・・・」

 「手伝うのは、年に二、三回くらいなので・・・」

 「そうですか~・・・そうだったんですか~・・・」

 佳苗先生の住む家を知った竜次は嬉しくなった。しかも、こんなに近くに。

 佳苗は改めてお辞儀をした。「いつもお世話になっております」

 竜次は手を振りながら「そんなぁ~、お世話になっているのは僕らの方ですよ・・・いゃ~そうだったんだ~・・・」と応えながら気持ちの高揚を隠せなくなっていた。そしてビニ-ル袋に入れたス-ツやワイシャツをカウンタ-に出し「そうなんだぁ~、そうなんだぁ~」と緩んだ表情で繰り返した。

 佳苗は出された洗い物を専用ボックスに手際よく入れ、一つずつリストにチェックを入れる。全てのチェックを終えレジのキ-を叩いて竜次を見た瞬間、顔のほてりと脇の下に滲んだ汗を感じた。

 竜次は財布から千円札二枚と会員カ-ドを出し、トレイに置いた。佳苗はレジに金額を打ち込み料金を精算する。そして会員カ-ドに日付を書こうとした時、竜次が言った。

 「先生。・・・いつも遅くなってしまって済みません。それに今まで本当に・・・なんか感謝なんて言葉では・・・」

 「あっ、いえ・・・」佳苗は竜次を見たが、すぐ視線を落とし、目の前の会員カ-ドに書かれた手書きの[加藤]を見つめた。

 「何か・・・お礼と言うか、お詫びと言うか・・・先生・・・今度・・・何か・・・夕食とか・・・何か・・・させて貰えないだろうか?・・・」竜次は咄嗟に出た気持ちに、言葉を選んだ。

 佳苗は唾を飲み込み、会員カ-ドを竜次に渡しながら言った。

 「ありがとうございます。・・・お気持ち、すごく嬉しいです。・・・でも、私の仕事ですし・・・それに」

 「いやっ、そうじゃなくて・・・先生には、本当に申し訳なくて・・・ずっと前から、先生には、何か・・・こう・・・お礼したくて・・・」

 「あの、私・・・」

 「はい」

 佳苗は何故か、目の前の男性が話そうとする内容に「はい」と頷けない状況を作らなければと思った。そして沙紀の話題に切り替えた。

 「あの、逆に加藤さんにお話ししたい事があるんです」

 「はいっ?」

 「あの、沙紀ちゃんの事です」

 「沙紀が何か・・・」

 「この数日の事なんですけど、・・・何と言いますか・・・」

 竜次は身を乗り出して佳苗の言葉を待った。竜次の心配そうな表情を見た佳苗は、今話そうとする事は、こんな場所で話すべきではないと思って言葉を濁した。

 「済みません。何でもないんです・・・済みません・・・ごめんなさい」

 竜次は首を傾げた。

 「・・・先生、よく分からない・・・」

 「済みません・・・申し訳ありません」

 この時竜次は、何か沙紀の心配事を話そうとしたが、何かしらの考えで思いとどまったのだと感じた。そして改めてはっきりと言った。

 「先生。沙紀だけじゃなくて、僕自身も長い事お世話になりっ放しなのに、何も出来てなくて・・・」

 「そんな事ないです」

 「いや、そんな事あるんです。ですから、何と言うか・・・いつものお詫びと今までのお礼を兼ねて、今度夕食でもご馳走させて下さい」

 佳苗はその言葉にどんよりとしていた気持ちが晴れた。動揺で自分が求めている事を、一旦拒否しそうになった自分が馬鹿に思えた。

 「ありがとうございます。とっても嬉しいです」

 「よかった」

 「でも、もしお嫌でなかったら、私に何かご飯でも作らせて下さい」

 そう言い切った自分に、佳苗は驚きと嬉しさを感じた。

 「え、それじゃぁ本末転倒だよ」

 「いえ、私作ります。作らせて下さい。こう見えても私、栄養士の資格持ってるんです」

 「へぇ~すごいなぁ」

 「加藤さん、ずっと夕食はお弁当とかですよね」

 竜次は頭をかいた。

 「沙紀ちゃんとのお話でよく存じてます」

 「いやぁ~、申し訳ない。お恥ずかしい」

 「だから、私作りにお伺いします」

 「いやぁ~、なんか、でも・・・」

 「私決めました。よろしければ今晩どうでしょう?」

 「今晩!」

 「駄目ですか?」

 凛とした佳苗の顔付きに竜次は戸惑った。しかし心が弾んだ。

 「いえっ・・・大丈夫です」

 「じゃぁ、今晩、六時くらいにお伺いします。材料買って行きます」

 「それは駄目だよ。それは駄目。・・・じゃあこうしましょう、ス-パ-の前で待ち合わせってのは?」

 「はいっ」

 「じゃぁ、ス-パ-の前に・・・五時半」

 「はい」

 佳苗は笑って応えた。竜次も笑顔で頷いた。

 佐々木クリ-ニングを出た竜次は小さく拳を振った。

 何と言う幸運か。自分から言い出さなければならなかった彼女とのきっかけを、こんな形で彼女の方から進めてくれた嬉しさに、胸が張り裂ける様な思いになった。

 五時半ス-パ-。五時半ス-パ-。

 竜次の頭の中はそのフレ-ズが繰り返された。

 後ろで歩行者と自転車が接触した事など、国道を走る乗用車が80キロで走り抜けた事など、頭上のマンションから洗濯ピンチが落ちた事など、全く気が付かずに竜次は軽い足取りで歩いていた。

 家までの十分程度の間に、佳苗と初めて会った時の印象や、いつも迎え出てくるその美しく優しい表情を竜次は思い返していた。そしてふと四年前の出来事を思い出した。


 沙紀を保育園に預けて半年程経った頃、帰宅する電車の中でどこかで見た記憶のある女性が奥のドアに寄りかかっているのを、満員で身動きが取れない中に見付けた。少し経って、その女性が0歳児クラスからの担任だった佐々木先生だと気が付いた。半年も世話になっているのに、髪型が違うだけで印象が全く違うんだ、と思いながら人の圧に押されて近づく勇気も声掛けする理由もないため、竜次は混みあう中で時折視線を向けるだけだった。一駅ごとに押されて揉まれながらさらに離れてしまう距離になり、また気になってふと目を向けたその時、彼女の目から涙がこぼれるのを目撃した。すぐさま彼女は両手で顔を覆い、窓の方に体を向けた。周囲に分からないよう涙を拭っているのが分かった。それから三つ目の停車駅で竜次は降りた。改札を抜けて暫くして振り返ると、彼女も歩いていた。足取りは重たかった。何か哀しい事があったんだろうと、その時は思った。それから彼女に対する意識が少しずつ芽生え始めた。


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