第28話 三浦
Lサイズのキャリ-バッグとボストンバッグを持って、三浦健吾は羽田空港のタクシ-乗り場で列の十七番目で待っていた。
前方をリムジンバスが三台過ぎ去るのを悔しそうに眺めながら、ポケットからガムを取り出し口に入れた。腕時計は午後四時を過ぎていた。ジャカルタからの到着便のトラブルで、千葉沖上空で数十分の旋回を余儀なくされたロンドン便は、一時間遅れでようやく日本に降り立った。
荷物受取所では、遅れた便の乗客たちが間違って進入して、海外の空港かと勘違いする程混乱していた。その為、想定していた時系列など既に意味を持たなかった。混乱した出口では、リムジンバスやタクシ-乗り場に人々が殺到した。
三年ぶりに日本の地を踏んだ三浦は、一刻も早く家に戻りたかった。タクシ-が到着したのは、待ち始めて二十五分後。急いで荷物をトランクに押し込め、座席に入り込んだ。
三十代の経験の無さそうな運転手だった。
「どちらまで」
三浦は目的地を伝えずに、大まかな方向だけを伝えた。
「取り敢えず用賀方面に行って下さい」
「かしこまりました。有料道路とかはどうされます?」
「使ってください」
「かしこまりました」
降り立とうと準備する旅客機と目的地に向けて飛び立つ旅客機が、夕暮れに染まりつつある空を飛び交っていた。
長らく無言でいた運転手が陽気な声で尋ねた。
「お仕事ですか?」
「ええ」三浦は素っ気なく返事をした。
「そうですか。今の時間だと北海道?それとも九州?」
「いえ、ロンドンからです」
運転手は驚いた様子でル-ムミラ-に映る三浦を見た。
「そうですか~。お仕事で~、そうですか~。お疲れ様でした」
三浦は反応を示さずに窓の外をうつろに見続けた。
ラジオからはクラシックが流れていた。運転手は白い手袋でしっかりハンドルを握り「ラジオ替えますか?」と訊いた。三浦は「結構です」と答えた。三浦はちらりと運転証を見た。[小林高志]の文字が読み取れた。
高速道路は渋滞していた。小林は客の様子を気にする事なく運転を続けている。三浦は何度も腕時計で時間を気にしていた。
「出張ですか?」突然小林が口を開いた。
三浦はつれなく「ええ。三年」と答えた。
「三年も、そりゃあ大変でしたねぇ」小林は話のきっかけになるかと期待して言った。しかし三浦は窓の外を見たまま無言だった。
小林は遣る瀬無く運転に集中した。暫く沈黙が続いた。
渋滞する車線と速度が出ている右車線、降り口によっては車線変更をする方がいい。小林は出口を確かめるために尋ねた。
「そろそろ用賀ですけど」
「下りてください。そして川崎方面に」淡々と三浦は言った。
「かしこまりました」小林は下りる出口がこの先でなくて良かったと思った。
国道に入っても渋滞は続いていた。小林はラジオをAMに切り替えた。公開番組の落語が流れた。小林は客を気にして「他なんか回しますか?」と訊いたが、「別にいいですよ」と三浦は答えた。演目の[へっつい幽霊]を、小林は小笑いしながら聞き入った。
暫く国道を直進していた時、三浦が声を掛けた。
「もう少し先の多摩木川を渡って三つ目の交差点を左にお願いします」
「かしこまりました」と応えた小林は「お客さん行き先はどちらになりますか?」と尋ねた。
「ちょっと、お願いがありまして」
「はい」
「多摩木警察に寄ってもらって、少し待ってて欲しいんです」
「多摩木警察。はい、構わないすよ」
「それから、もしかしたらもう一か所」
「はい」
「最後は松木町に」
「松木町ですか。松木町のどの辺です?」
「公民館の近く」
「ええ、全然問題ないです」小林はル-ムミラ-で客の顔を見ながら続けた。
「私も、松木町なんですよ。公民館って言ったら、三丁目あたり?」
「そうです」三浦は初めて笑みを浮かべて話した。
「運転手さんはどちらに?」
「交差点近くに小林ベ-カリ-ってあるでしょ。私あそこの次男坊なの」
「へぇ~、そうですか。うちは一つ・・・二つかな、裏のブロックのマンション」
「ああ、あの黄色い」
「そうです」
「そっか~。なら、後は任せて下さい。もう、目を瞑ってでも行けますから。じゃあ途中の交差点、渋滞ポイントだから抜け道走ります」
「あぁ、すいません」
「そうですかぁ~、同じ町内の方だったんですね~」小林の陽気が戻った。
「そういえば、お客さん長い事海外だったからご存知ないでしょうけど、丁度この辺。下り坂の、そう。丁度ここ。路肩で工事してるでしょ。ここで五日前に事故があって、死亡事故。夜間工事の交通規制で止まっていた列に、脇見運転のダンプが凄い速度で突っ込んで、母子三人が亡くなったんですよ。丁度ここ」
三浦の顔が強張った。そして唇を噛んで下を向いた。
「若いお母さんと女の子二人。三人亡くなったんですよ。可哀そうにね」
三浦は俯いたまま動かない。
「夜中にね、おばあさんが倒れて見舞いに行った帰りだとか聞きましたけど、丁度ここ。この場所でね」
三浦が顔を伏せているのには気付かない小林は、さらに揚々と話を続けた。
「いや実はね、お客さん。三日前だったかな、夜中にね、お客さんをこの辺まで乗せて来たんですよ。そしてこの橋の丁度下あたりに公園があるでしょ、小さな公園。あそこで、零時になる位だったかなぁ、子供が遊んでいたんですよ」
三浦が少しだけ顔を上げた。小林はル-ムミラ-で三浦の顔をちらりと見て続けた。
「午前零時ですよ。小さな子供、四、五歳位だと思うんだけど、気になって周りを見ましたが、大人はいないの。子供だけ、二人。キャッキャッ言って遊んでるの」
三浦はさらに顔を上げた。
「変でしょ。夜中に子供たちだけで遊んでいるなんて。ちょっと、ゾッとしましてね」
三浦はル-ムミラ-の小林に目を向けて聞いている。
「もしかしたら、あの事故で亡くなった子供さんじゃないかって思って、まぁ、後からですけどね、そう思ったの。それからその日は怖くて、後ろの席に乗ってるんじゃないかって、チラチラ後ろを確認しましたよ」
三浦は深い息を吐いた。
タクシ-は橋を渡り切った一つ目の交差点で右折し、角を曲がって行った。
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