第26話 パスワ-ド
テ-ブルの上には分別されていた請求書や書類やメモが、全てお菓子の箱の中に積み上がっている。雄一が葬儀社から受け取って来た重圧なファイルがその横に広げられていた。
雄一夫婦、裕也、遥がそのテ-ブルを囲んで放心した様子で座っていた。
裕也が口火を開いた。
「やっぱりパソコンだな・・・それしかないわ」
雄一が頷く。
「でもパスワ-ド分からないんでしょ?」
「今日やって駄目なら、業者呼ぼう」雄一が疲れた声で言った。
「智ちゃんも言ってたわ。それしかないって」
「お茶入れましょう」悦子がそう言ってキッチンに立った。
雄一と裕也は煙草を吸うために悦子に続いた。
どんよりとした空気の中で遥は大きなため息を吐いた。
「なんか兄さんの言う通り・・・死ぬなら死ぬって言ってくれれば、こんな苦労しないで済んだのにぃ~」
少しして悦子が用意した熱いお茶をすすりながら、皆、口が重たくなっていた。
戻って来た裕也がテレビを付けて何度もチャンネルを切り替え、そして消した。
雄一が腕時計を見ながら「もう三時か」と言った。
「俺もう一回パソコン、トライしてみるわ」そう言って裕也は、二階の書斎に上がって行った。雄一も重い腰を上げて後に続いた。悦子は、はぁ~と深いため息を吐いて不要になった書類を整理し始めた。遥も苦々しい表情で腰を上げた。その時、何かの音に気付いた。
「なんか音しなかった?」そう言って玄関に向かい、一旦外に出て戻って来た。
「チラシだった」そして広告のチラシ数枚を確認してテ-ブルに置こうとしたが、そのままゴミ箱に放り投げた。
書斎のパソコンの前に裕也は座り、電源を入れる。横に立った雄一は見守っている。
パスワ-ドを入力する画面。裕也は雄一の顔を見上げ「親父の頭文字と誕生日とか、思い付く関連性のある数字とか幾つか試して来たんだけど、これって適当に入力してても無限の可能性があるからね」と言った。
雄一は「お袋の誕生日とか入れてみた?」と訊いた。
「うん。試した事は試した」そう言いながら、最初の入力を躊躇している。
「絶対複雑なものじゃないと思うんだけどなぁ」
そうして二人は何もせずにパスワ-ド入力画面を眺めている時、画面には勝手に●が一つずつ入力された。まるでパソコンに魔法が掛けられたかのようなその光景を、二人は目を丸くして見ている。そしてパスワ-ド画面が消え、デスクトップ画面に替わった。二人は口をポカンと開け、互いを見合った。さらにパソコンは、デスクトップ上に配置されたフォルダが勝手に開き、そしてフォルダ内のIDと書かれたテキストノ-トが画面の中央に開いた。二人はこの後何が起こるのかを見守っていたが、画面はそれ以上の変化は起こさなかった。
裕也は恐る恐るマウスを操作してテキストファイルを見ると、いくつかの項目の中に□金庫、□銀行ネット□ネット証券などと書かれた項目を見付けた。項目にはそれぞれにIDとパスワ-ド、それにウェブサイトの暗証番号、それぞれに紐づいたメ-ルアドレスが記載されていた。
雄一は急いで階段に向かい、階下の二人に大声で「パソコンが開いた。金庫の番号分かった」と告げた。
悦子と遥は走るようにして階段を駆け上がって来た。
「どうして分かったの?」遥が裕也に訊いた。息が荒い。
「勝手にパスワ-ドが入力されて、勝手にこのフォルダとファイルが開いたんだ」裕也も上擦った声で応えた。
「お父さん、今いるんじゃない?」
「まさか」
「だって、一人で勝手に開いたんでしょ。・・・そうとしか思えない」
「そうかな」
「そうよ」
雄一が裕也に向かって「これまた閉じちゃうんじゃないの?今のうちにメモっといた方がいいよ」と声を掛けた。裕也もそうだねと言って机の上のメモに走り書きした。
「パソコンのパスワ-ドとか、無効にしておいたら?」遥が言った。
「どうやって?」
「え~分からない」
「俺も分からない」
「待って、智ちゃんに電話する。そういうの詳しいから」と言って遥はスマホで連絡を取る。
雄一は裕也がメモした紙を手に取り、押し入れの金庫に鍵を差して書かれた数字をダイヤルした。
右に12、左に3、右8、左31、右6、左15、右12、左23。
鍵を回すと、ガチャと重たい音と共に鍵が回転し、扉が開いた。
「開いた!」
「開いた」
金庫の中には想像していた通り、通帳、印鑑、数枚のクレジットカ-ド、銀行のパスワ-ド生成機、家の権利書、保険証書、その他沢山の書類が入っていた。
雄一は上下のトレイ毎中身を出して、床の上でそれぞれを分別した。
遥はスマホを耳に当てながら、裕也に替わって席に座り、マウスでパソコンの操作を始めた。そして「出来た。これでいいの?」と電話で智之に伝えた。電話を終えると床に並べられた数々の品を眺めた。そしてふと横に置かれたメモを手に取り、感心しながら金庫の数字を見て言った。
「これって、私たちの誕生日じゃない?」
「何が?」
「右12左3って、12月3日でしょ。雄一兄さんの誕生日。右8左31は8月31日で裕也兄さん。6月15日は私」
裕也もメモを改めて見直した。
「本当だ。でも最後の12月23日って誰だ?」雄一が皆の顔を見ながら言った。
遥は何かが込み上げて来た。
「お母さんの命日」
「そうかぁ、クリスマス前だったよなぁ」雄一はそう言って通帳を揃えていた手を止めた。
裕也が後を引き継いで、通帳や書類を整理し始めた。大小いくつかの封筒が見つかった。
大きい封筒の中には、三人が子供の頃描いた数枚の絵が入っていた。
「これ、むとうゆういちって書いてある。兄貴の絵だ」
「あっ、これは私の」
裕也は小さい封筒を開いた。中から手紙が出て来た。裕也は三つ折りに畳まれた手紙を開いて、読み始めた。次第に裕也の表情が曇り出した。
「何ですかその手紙」
悦子が訊いた。
「お袋に宛てた手紙みたい。感謝と愛の言葉が連なっている」
「えっ、どれっ」遥が、裕也が読み終えた一枚を取って読み始めた。極端に右肩上がりで少々荒っぽい手書きの手紙だった。
[母さん、今までありがとう。母さんと過ごした日々は、とても長い年月、日数だったけれども、今振り返ると、あっという間の出来事だったように感じる]
「やだ、本当。お父さんの字・・・」
[母さんは子供たちや僕のために、言葉では言い尽くせない愛情を注いでくれたのに、僕は母さんに対しては、何もしてあげられなかった事を、今、心の底から後悔しています・・・]
遥が鼻を啜った。裕也が渡してくれた次のペ-ジを受け取りながら、遥は読み続けた。
[・・・僕が母さんと初めて出会ったのは、大学四年の春先。今でもはっきりと覚えているよ。新入生として入って来た母さんを無理やりフォ-ク部に誘ったんだよね。あれは僕が母さんに一目惚れしてしまって、山根君と策を凝らして、母さんを部室に呼び寄せたんだ・・・]
遥の目頭が熱くなってきた。
手紙はA4サイズの紙に隙間なくびっしりと七枚に渡って、亡き妻への思い出と感謝の言葉が連ねられていた。
雄一が遥の手から手紙を取って、悦子と一緒に読み始めた。
遥が呟いた。
「家族の宝箱みたいに使ってたんだね、金庫を」
裕也が遥を見て小さく頷いた。
暫くして悦子が手紙を空になった金庫の中に仕舞った。
雄一も皆の絵を畳んで金庫の中に入れた。
四人はそれから押し黙ったまま、長い事動くことは出来なかった。
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