第8話 竜次と佳苗

 会社の終業時刻は五時半だったが、日常的に三十分から一時間、時にはさらにパソコンの電源を落とせない日々が続いていた。さらに印刷した書類の誤字脱字を手直しする数分、同僚たちが世間話をして動かない数分、打ち合わせの相手が現れない数分、電車の到着が遅れている数分一つ一つが竜次をいら立たせた。

 延長保育の最終時間が午後七時。何事もなければ会社から四十分後には保育園に到着する。しかし週の半分以上は、七時までに沙紀を迎えに行ける事が出来ないでいた。

 時折遭遇してしまう園長から言われる小言は当然の如く受け入れて来たが、他の園児達がいなくなって一人で待ち続ける沙紀には、言い訳など通用しない。そして最後まで沙紀の相手をしてくれる佳苗先生にも、心底申し訳ない気持ちで一杯だった。

 今日もいつもの様に一部屋しか明かりが付いていない保育園のドアを開けた竜次は、上辺だけの挨拶で「お疲れ様でした」と言葉を掛けながら去っていく園長の後ろ姿を見ながら、玄関先で沙紀を待っていた。しかし沙紀のあの明るい声は聞こえて来ない。

 二分三分の時の経過が不安となって感じられ始めた頃、栗色の髪を後ろで束ねた佳苗先生が廊下の奥から沙紀を抱いて静かに現れた。他の保育士ではなく佳苗先生だった事に先ずはほっとして、同時に胸が痛んだ。沙紀は佳苗先生の腕に抱えられ半口を開けて眠っている。

 佳苗先生は無言で竜次に頭を下げた。優しい表情はいつもの通りだ。抱えた沙紀の背中から無理な体勢で人差し指を上げ、口をすぼめて(静かに寝ています)と合図を送った。竜次もかしこまって口をすぼめた。

 先生の手からゆっくりと竜次の両手に沙紀が渡された。沙紀の体が竜次に任された時、佳苗先生は沙紀の顔を覗き込み、ほっとした表情で竜次に頷いて口元を緩めた。沙紀を抱えた竜次が背中から出ようとすると、佳苗先生が急いで駆け下り扉を開けてくれた。沙紀を抱いた竜次と佳苗の体が出口の隙間に挟まった。佳苗は申し訳なさそうに頭を下げた。竜次も唇を固く閉じ頭を下げた。目が合った。佳苗先生はすぐに視線を外した。

 チャイルドシ-トに沙紀が起きないように静かに収めようとすると、佳苗先生は自転車が動かないようハンドルを押さえてくれた。頭をかきながら竜次はまたがってペダルに足を掛けた時「ちょっと待って」と佳苗先生は着ていたキリンのエプロンを脱いで、シ-トの間に押し込むように沙紀の体を包んでくれた。竜次は改めて頭を下げ、ペダルを踏み込んだ。

 既に暗くなった空の西側に、名残惜しそうな夕焼けが空と雲を染めていた。その夕焼けに向かって遠ざかる自転車の影を、佳苗は見送っていた。

 竜次はいくつかの日用品を買う予定を諦め、沙紀を起こす事なく両足を回し続けた。正面に見える赤く点滅する歩行者用信号をぼうっと見ながら、佳苗先生が見せた表情や、エプロンを取った後のスウェット姿、そしてうっすらと漂った汗ばんだ匂いを思い出していた。


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