あなたの中の有権者

有木 としもと

第1話

「これからの時代は細菌だ」

 大学の最寄り駅。

 大通りから一本離れた場所にある、小洒落たレストラン兼喫茶店。

 店内は静かで落ち着いた雰囲気。値段は少々高めだが質は高い。学生にとっては少々敷居が高く、それが逆に一定の客層を掴んでいるような店だ。

 逆に言えば、ジェントルに過ごすことが不文律とされている場所でもある。

 そんな状況も考えず、周囲に聞こえるような大声で意味不明のことを語り出した男に私は心の中だけで突っ込みを入れる。

 そういうところが全く変わらないな、お前は。


 目の前の男。私にとっては学生時代からの友人である獅子角 顕は、極めて大真面目かつ真剣に自分の興味だけを語り続けた。

「病原菌の発見以来、人類は細菌の排除に血眼を揚げてきた。それは完全な間違いとは言えんがいささか極端に過ぎ、非科学的かつ健康に逆効果をもたらしている」

 そう言いながら、獅子角は目の前のイタリアンハンバーグを口に運んだ。

「うむ、なかなかの味だ。江戸里が勧めるだけの事はある」

 お褒めにあずかって恐縮だが、私の気分は落ち着かない。お気に入りの店なのだ。出入り禁止にでもなったらどうしよう。しかし私の心配を余所に、師子角の語りは続く。


「そもそも人間の体表、体内には大量の微生物、そしてダニのような小動物が棲みついているのが当たり前だ。彼らは事実上、人体の一部だと言える」

「理屈としては分かるが、流石にその意見に同意できる人間は少数派だと思うぞ」

 やんわりと述べた意見を獅子角は軽く笑い飛ばした。

「科学的な事実は変わらん。第一、自分が無菌状態だという意味不明の非科学的なイメージを抱く連中の同意など得る意味もあるまい。俺もお前も、周りに居る着飾った連中も、この店の料理人も。現実には身体全体が微生物まみれだ。きちんとした検査をすれば簡単に証明できる」


 幾つかの単語が聞こえたのか、隣の席のカップルが怪訝な顔でこちらを見る。

 いえ、違います。この店の衛生状態にケチをつけているのではありません。

 私は心の中で溜息をつく。論理的には獅子角が言っていることが正しい。それは分かる。しかし、だ。もう少しTPOというか、語るべき場所を選ぶべきなのではなかろうか。あるいはせめて、ちょっとだけでも声のトーンを落として欲しい。


「生物の基本的デザインとしては、産道や卵管と排泄抗が近いのが一般的だ。鳥類では完全に一体化している。それは進化的に意味があってな、生まれた直後、無菌状態である子どもは、まずその母親の排泄物と接触するようになっている」

 別の席の女性グループがちらりとこちらに顔を向けた。視線が痛い。

「どちらにしても、細菌はいずれ体内に入るのだ。ならば母親と共生してきたそれを招き入れた方が上手くいく可能性は高い。子は親に遺伝的特性が似る、という点から考えても合理的なシステムだ」

 周囲の視線を全く気にしないまま、獅子角は話を続ける。

「生物界全般では、生まれた直後に母親の糞を食べるという行動も多い。必要な細菌は摂取すべき。それが生き物としての当たり前だ。逆に言えば、細菌が不足しているというのはむしろ不健康な状態だと言える」

 私はなんとか、レストランでも会話が可能な範疇に話を引き戻そうとする。

「そうだな。ほら、生きた乳酸菌とか身体に良い納豆菌とか。現代人もそういったものを認めるようになっているじゃないか」

「それだ」

 獅子角は我が意を得たりとばかりに頷いた。しかし話は私の望んだ方向には進まない。


「現代人は細菌で一杯の食い物を有り難がる一方で、やたらと薬剤を振りかけて局所局所だけを瞬間的に減菌している。非合理極まりない行動だ。今後はそんな中世の呪いめいたやり方から脱却し、科学的に正しい手法で細菌と向き合うことが重要となる」

 師子角はテーブルに立てられたメニューを指で突いた。

「これを見ろ」

 おすすめと書かれたフルーツパフェには、新鮮な生ヨーグルトが使用されていることが謳われていた。

「腐敗と発酵は科学的に同じものだ。発酵と呼べば衛生的だと感じるのは単なるイメージに過ぎない。健康のために細菌を摂取することが喧伝されるなら、新鮮な大腸菌でいっぱいのパフェを健康食品として売り出したっておかしくはない」

 その発言に私は慌て、声を潜める。

「おい、大腸菌って。衛生的にマズいだろ」

「知らんのか。大腸菌はほとんどが無害だぞ」

 真顔でそんなことを言われてしまった。

「そんなこと言っても、大腸菌が検出されたら飲食に不適格とされるだろう」

「ああ、あれはな」

 獅子角は旨そうにハンバーグを口に運んだ。

「大腸菌が非常に検出しやすい菌だからだ。大腸菌自体は危険でなくても、検出される状況は下水の混入が疑われる。よって厄介な汚染が生じている可能性が高い。あれは一種のマーカーとして採用されているだけだ」


 獅子角は実に楽しそうに話を続けた。

「O-157などの例外的な存在を除けば、純粋培養した大腸菌を飲み込んでも人間はぴんぴんしている。遺伝子操作で健康に良い成分を生み出すように調整することも容易であることを考えれば、近い将来に健康飲料として生の大腸菌を飲むようになってもおかしくはない。こういった洒落た店が、競って大腸菌ドリンクを売り出す未来も十分あり得る」

 繰り返しになるが、獅子角の言うことは科学的に正しいのだろう。多分。

 しかしながら理屈として正しいことを言えば人々が幸せになるかと問われれば、遺憾ながらそういった相関関係はこの世界に存在しない。


 そもそも私は細菌の属性に関する科学的な考察を行いたいのでは無く。飲食店の中で大腸菌だのなんだのという単語を大声で喚かぬよう、話題を逸らしたいだけなのだ。

 ああ、店員の視線が痛い。

「細菌に接触せずに生きていくことは不可能だ。いやむしろ進化の軌跡を考えれば、細菌と積極的に触れ合うポジティブな関係性を目指した方が建設的と言える」


 私は再び心中深く溜息をついた。

 まったくこいつは学生の頃から変わらない。相変わらずの無茶苦茶さだ。

「そこで考えたんだが、ここにそのためのサンプルがあってだな」

 おい馬鹿、止めろ。

 私の頭の中に響くサイレンは獅子角には届かず、テーブルの上にラベルのないペットボトルが無造作に置かれた。

「これは体表に存在する表皮ブドウ球菌を主として培養したものだが」

 ガタリという音がして、隣のカップルが席を立った。恐ろし気な視線をこちらに向けている。


 私は即座にこの場からの退却を決意した。このままでは営業妨害で警察を呼ばれても文句は言えない。

「ああ、話は分かった」

 私は世界の安寧のためにそう言わざるを得なかった。

「非常に色々興味深い話だが、そろそろ時間だ」

 わざとらしく腕時計に視線を走らせる。

「詳しい話はゼミの後でもいいか? 後で落ち合おう」

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