四滴 Champagne Supernova (reprise)
穏やかな日々に終止符が打たれた日も、閉館時刻の九時まで二人で図書館にいた。閉館のアナウンスに促されるようにして図書館を出た。私は藤野さんと並んで細くて曲がりくねった広尾駅までの帰り道を歩いた。
「手を繋いでも良いかな」
急に藤野さんが言った。返事を待たずに私の左手を藤野さんの右手が捕えた。予想外の展開に驚きのあまりなされるままだった。
「君と一緒にいると楽しい。僕は君のことが好きなんだと思う」
沈黙の後に藤野さんがささやくような調子で言った。白い息が街頭に照らされて、翳った。憎たらしいくらいに夜空の星が綺麗だった。新月なのか、月はどこにも見えなかった。
「君は僕のことをどう思っているか知りたい」
不意打ちみたいな展開に対して、悲しいのか嬉しいのか自分でもよく分からない感情が込み上げてきた。藤野さんの鋭くて綺麗な猫目に心の全てを見抜かれるのが怖くて、顔を背けた。涙が流れた。私は、彼をどう思っているのだろう。
「ごめんなさい」
藤野さんにひたすら謝っていた。その「ごめんなさい」が泣いてしまったことに対する言葉なのか、藤野さんの好意に応えられない意味の言葉なのか、解らなかった。広尾駅で別れて、その話はそれっきりになった。
私のおめでたくて平和な空想の世界に住む「彼氏」は、鼻が高く睫毛が長くてぱっちりとした二重の目をしている。確かに鼻筋は通ってはいるが、口角が上がっていて切れ長で細くてシャープな猫目の藤猫とは満月とお餅くらいにかけ離れている。はっきりと言ってしまえば全然好みの容姿ではない。それなのに、藤野さんを見ていると胸がきゅうと苦しくなるときがある。どんな本を読んで調べても答えが見つけられないような、そんな不可解な気持ちになる。
藤野さんと一緒に過ごす時間は、楽しい。ずっとこのまま時間が止まれば良いなとさえ思うこともある。かねてから想像していた、太鼓を打ち鳴らしたような激しいときめきは皆無だ。少女漫画にありがちな、逢いたくて寂しくて泣いてしまうなんてことも無い。しかし、石灰を使って水をキャンバスに描く姿や、玩具を手に入れた子どもみたいな表情で画集のページをめくる藤野さんを想像する時間がだんだん増えてきた。
藤野さんに比べると、今までは理想だと思っていたぱっちり二重の「彼氏」がいかに浅はかで薄っぺらい空想の産物であるかを思い知らされる。それ程に生身の藤野さんは生き生きとしていて、美しく、私にとっての「男性」そのものだった。
だからこそ私は、自分でも知らないうちに藤野さんに恋し始めていた事実を封印していた。湧き起こる恋の気持ちに頑丈な鋼鉄の蓋をし、ガムテープで何重にもぐるぐる巻きにした。怖かったのだ。いつか彼への想いが強くなって、爆発して、時間をかけて創ってきた私だけの空想の世界が壊れてしまうかもしれないことが怖かった。鋼鉄の蓋を破り、ぐるぐる巻きにしたガムテープも引きちぎって想いが溢れてしまえばどうなるか見当もつかない。現実の彼に恋する気持ちが洪水になって、うさぴぃやにゃんぴぃ、空想の世界の「友達」を飲み込んでしまう日が来たら私はどうしたら良いのだろう。仮に空想の世界を全て壊して彼に想いを打ち明け、幸運にも受け入れてくれたとしても、知らなかった藤野さんの嫌な部分を見てしまうかもしれない。幻滅し、傷ついて、ほらやっぱり空想の世界が一番幸せじゃないかと自分に言い聞かせる。そんな可能性もあるかもしれない。藤野綾という現実の男性が、生まれて初めての憧れの対象であったし、また私自身を根本的に覆し得る脅威でもあったのだ。
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