雨は晴れより美しい

浦野 紋

第1話

 ぽつぽつと降り始めた雨は段々と力を強め、地面を打つ音はここでは聞こえないがきっと強かに地面を叩いているのだろう。静寂を保った室内と対比するように雨音は忙しない。

 好きな天気は?と聞かれれば体裁上晴れと答えるが圧倒的に雨の方が好きだ。

晴れた日の雲を思い浮かべてほしい。あれほど清々しく、高貴であった雲が物憂げな表情で空中覆い尽くし雨を降らす。そう考えるだけで美しいものではないだろうか。それは誰かに共感を求めた答えではなく本心だった。

 ガチャッという扉が閉まる音に強制的に現実に戻される。母さんが家を出た音だ。おおよそ開けるときは気を遣って静かに開けているようだが閉めるときはその限りではない。静かな部屋にはよく響く。

 母が家から出たのを合図に布団から這い出た。今日はやけに冷える。部屋を暖めておく為に小型の暖房器具の電源を付け、椅子の背もたれに引っ掛かっていたフリースを羽織ってリビングに出る。自分の部屋より広いこの空間はもっと寒い。どこかで聞いた話だがマンションの寒さの原因は階の高さよりも下の階の住人の有無が関係しているらしい。詳しいことはよくわからないが、三階の住人がいたところでこの部屋が寒いのはあまり変わらないはずだ。

 閑話休題。

 リビングのどこを見渡しても朝食は用意されていなかった。いつものことなので見渡してすらいないのだが。どこにも昼ご飯用のお弁当はおろか朝食すら用意されないのは日常的なこと過ぎて慣れてしまった。気まぐれに年に数回だけ用意されていることがあるがそんな次の日は決まって雨が降る。

 炊飯器を見ると辛うじてお米は炊かれていたので冷蔵庫からソーセージと卵を取り出して、焼いておかずにすることにした。鍋敷きを使ってフライパンのままテーブルに置く。サラダの一つでも作ればいいのだが生憎冷蔵庫に入ってなかったから仕方がない。入っていても洗い物が増えるだけなのでどうせ作らないのだが。

 五分も掛からず全て平らげて母が流し台に放置していった洗い物も洗う。ついでだ。

 生憎今日も学校があるので支度をするために部屋に戻る。暖房を付けておいたので幾ばくか温かい。

 あれ、おかしいな。瞼が重い。心なしか肩も重い気がする。後ろ手でガチャと扉を閉めた。途端に体から力が抜けていく。深いため息とともに一瞬にして察した。今日は「ダメな日」だと。

 取り敢えず支度を諦めてベッドに倒れ込み目を瞑る。頭は冴えている。寝るわけじゃない。こうやって目を瞑ると自分一人の暗い世界に入り込める。机とベッドと本棚しかない簡素なマンションの一室。此処は俺だけの安息の地、言うなれば聖域なのだ。俺が此処の主であり他の介入を許すことはない。心地の良い孤独が心を包み込んでくれる。この部屋だけが唯一自分が自分でいられる空間だ。


 学校ではみんながみんな友達として接しなければならない。これはみんなが友達といった非社会的な共通政策を打ち立てられた小学生の頃のように環境に決められたことじゃない。誰とでも分け隔てなく接して勉強はそれなりにできるが体が弱く運動は人並み程度にしかできない。これは俺が僕になる為に決めた第二の人格だ。この人格を演じて生活していれば中の中ポジションを保つことができる。学校生活の中に自分などない。学校で話を合わせるために聞く音楽すら上っ面だけで都合のいい言葉で人を唆し、意訳すれば好きだ、としか言っていないような流行の曲を中心に聞く。こうやって自分を創り上げることで今まで生きてきた。

 こうやって演者として生活していると精神への負担は避けられない。心の中の何かがすり減っていき、心に疲労が溜まっていく。心と体が均衡を保とうと突如無気力感に襲われることが度々ある。休息を摂る以外にこの状況を打開する策を俺は知らない。

 横たわりながら薄目を開けて時計を覗くと針は八時過ぎを指していた。今から急いで準備して向かえば始業には間に合うのだろうがこの雨の中を急いで向かう気にもなれないし第一この状態のまま誰かに合う訳にも行かない。億劫になりながらもSNSアプリを開き同じクラスの奴に体調が悪いので遅れるか休むという旨を伝える。

部屋の暖かさに寝てしまいそうなので身体を起こしてベッドに腰掛ける。窓から外を眺めようと顔を向けると窓辺に置かれた何も入っていない植木鉢が目に付く。小学校の陶芸の時間に作った鉢で花を育てる事が昔は好きだった。もう土すら入ってない不格好なものだが名残惜しくて捨てられずにいる。昔はどんな芽でもいずれは大きな木になると思っていたことが懐かしい。遠い昔の記憶だ。

 中身が腐った木は切られる他ない。腐敗は他の害にすらなりえるからだ。ただそれを表面上で偽ってさも正常な普通の木として振舞うのであれば話は別だ。集団の中ではさも何事もなかったかのように一本の木として林となり森になれる。一方中身は腐り続けていずれは自壊する。いずれ朽ち果てる運命に木は延命でしかないと分かっていても正常な木として偽り振る続ける。誰にもバレるわけにはいかないそれは僕が俺であるために作り上げた僕の人生だ。


 枕元に置かれたイヤホンとスマホを繋ぎ音楽再生アプリを開いてHIPHOPのプレイリストを流す。Chill系のビートが雨の雰囲気に合って自然に頭と胸がゆれる。体が、耳が求めていたものを見つけたように喜ぶ。学校で聞けるジャンルじゃないことは明白だったHIPHOPも最近は流行ってきているが未だに一部の域を出ない。MCバトルが流行り始めて暫く経つのでもうそろそろ音源が注目され始めてもいい時代だろう。

 外出たら寒いだろうな。そんなちっぽけなことを考えるより先にベランダに出るため、鍵に手をかけていた。風向きのおかげで雨がベランダに吹き込んでくることはない。薄汚れたサンダルを履いて腕を組むようにして手すりに寄りかかりながら下界を眺める。

 マンションの真横を流れている川は増水して生えていた草を濁流が覆い隠している。今回の雨は川が氾濫するほどではないが大雨の部類に入るだろう。いささか雨量が多い気がする。まるでどこかの話のようにこのまま雨がやまなければいいのにとすら思う。

 川に併設された歩道にはまばらに通行人が居るが傘と歩きスマホのおかげで誰も俺が見ていることに気づかない。ちょっとした優越感に浸ると共に通勤、通学をしているまともな人たちを見て劣等感に襲われる。我ながら忙しいやつだ。

 ここから飛び降りたらどうなるだろうか。そう考えたことは今回が初めてじゃない。川に飛び込んだら高さ的にどうだろう、落下の衝撃で死ねなくとも意識さえ刈られれば溺死で十中八九死ねるだろうな。振れていた首はいつの間にか止まっていた。

「どうしたんだい、学校は休みかい?」

 タイミング悪くイヤホン越しに聞こえたその声に驚き、声のした方向を向く。そこにはベランダから身を乗り出してこちらをのぞき込む隣のお姉さんの姿があった。

「ちょっと体調が悪くて途中から行こうかなと思ってます」

 焦りながらも「平常運転」で答える。

「その割にはまともな人間を演じるのが上手いんだね」

 お姉さんは不敵な笑みを浮かべる。

 ……今なんて言った?よく聞こえない。一瞬で外面を作ったのがバレたというのだろうか。いやそんなはずはない、不意を突かれたとはいえ人生を賭して作り上げてきた仮面だ、そうそう分かるはずがないんだ。ポーカーフェイスを崩さないようにしなければ問題ないはずだ。

「僕のことですか?演じるって」

「君の顔を見てると昔の自分を見ているような気がしたからね。昔の私にしたら弟子入りしたいくらい上手いけど今の私には通じないね。酷く死にそうな顔をしているよ」

「まさか死のうだなんて思ってませんよ」

「ん?私は死にそうな顔をしているとしかいってないよ?焦りすぎて仮面が剥がれ落ちてるって」

 呆れた顔で答えられる。それにしても綺麗に墓穴を掘ったものだ。

 一種の誇りであった仮面は訳も分からない形で剥がされることになった。おそらくこの人も演者だったのだろう。このちっぽけで短い人生の中で数回だけ自分と同じような人に会ったことがある。その時は違和感を覚えてお互い何かを察した。今接していてこの人の違和感に微塵も気づくことができない。憶測だがこの人にとって今が本当の自分でいる時間なのだろう。一方、この人からしてみれば僕が違和感でしかなかったのだろう。

「ちなみにここから川に落ちても多分死ねないよ。増水していて今は意外と深いし、何より高さが足りないよ。もしかしたら溺死を考えないで飛び込むように頭からアスファルトにぶつかった方が死ねるかもね」

 一階の庭のコンクリートを指さしてみせる。

 …………は?まさか死のうとしていたことすらも見抜かれているとなるとお手上げだ。

「隠し事はできないようですね。それで俺に何か用ですか」

「いや、特に用があるわけでもないよ。多分君に対してもう用事は終わったしね」

「自殺を止めるのが目的だったってことですか?まさか本当にし……」

「ほんとに死ぬわけがないって?なら若気の至りで済むうちでやめときな」

 小馬鹿にするように言った俺に怒気迫る様子でパーカーの袖をまくってこっちに見せてくる。相当の日数が経っているのだろうが寒空の下で白い肌に刻まれた無数の切り傷が痛々しく現実を突きつけていた。

「生の実感なんてものに囚われてたこともあったさ。今思えばくだらない。ただ人生を送っているだけじゃ生の充足を得られないことも、自分じゃない自分で生きていて死んだ方がましだと思えることもあった。将来に対する希望?一筋の光?今でさえ見えたことは一度もない。死んだらいけないだとか、誰かが悲しむだとか、世界の理でも知ったような口で諭してくる奴もいたさ。せめて人の悲しみ寂しさとか、そいつらの考えが分かるような人間だったらと思ったよ。明らかに違う人間なんだよ、あいつらとは。」

 過去を憎しむような顔をして苦しそうに悲しそうに何かを伝えようとしている。

「ただな、生きてればいいことがあるのは事実だ。何を幸せだと思うかは人それぞれだから万人が幸せだと思えるものなんてひとつもありはしない。苦しいことを乗り越えた先にゴールがあるのは勝ち組だけだ。私たちは碌な人生じゃないのは確かだけど生きててよかったと思える瞬間は必ず来る。いつかはわからない。私は君じゃないから。悩みがあるなら誰かに打ち明ければいい。素の自分を出せないなら素の自分を出せる人に会えるまで待てばいい。絶対に一人は居るんだよそういう人が。自分のことを理解してくれて相手のことを理解できる人が。寄生でも依存でも何でもいい。若いうちに心から頼れる人を見つけるべきだ。私はだからこそ言ってるんだ死ぬなって。」

 どうしてだろう。名前も碌に知らないこの人の言葉に胸が打たれるのは。どうしてだろう。泣くつもりなんてさらさらなかったのに頬を涙が伝うのは。どうしてだろう。この人が懐かしく苦しく悲しくどこか嬉しそうな顔で涙を流しているのは。その表情が幸せの表情だということを僕はまだ知らない。が、唯一良い顔だということは分かった気がした。

 お互いが上着で涙を拭う。

「はぁ~こんな事言うつもりじゃなかったんだけどな~」

 恥ずかしそうにぼやく。対して俺は心の深いところから自然にほほ笑んだ。

「こんなことを言ってくれる人は今までにいなかったし、お姉さんみたいに何というか、上手く言えないんですけど本気で当たってくれてホントに嬉しかったです」

「いやー、生きててよかったよ」

 自分に向けてか俺に向けてかはわからないがお姉さんはどこか誇らしげに答えた。

「そうだ、お姉さんだと呼びづらいだろう。小春ちゃんでいいよ」

「はい?」

 素っ頓狂な声をあげてしまう。

「名前だよ、名前。ほら呼んでみな」

 多少吹っ切れたとはいえ無理だ。仮面を被っている時ならまだ呼べるが言ったら素面の状態でそれはキツイ。ベランダに出て小春さんと話し始めて15分も経っていないはずだ。それなのに今までの人生で一番濃い時間だったことは確かだろう。どれだけ薄っぺらい人生を送ってきたかわかる。

「小春さん、でいいですよね」

「やだ。と言いたいとこだけどいずれ呼んでくれることを期待して今はそれでいい」

 満足げに頷く。いつか呼ばなければならないそうなので全く安心できない。

「それで悩みを相談できる人は?」

「いません」

「まあそうだよね。それでなきゃこんな時間にこんなとこいないよね。ちなみに素を出せる人は?」

「……いません」

 何だろう。訳の分からない劣等感が襲ってくる。煽られているはずなのに心地の悪いものではないから理解に苦しむ。

「それじゃあ、最後の質問だ。好きな人は?」

「いませ……え?」

「なんだ面白くない。最後くらい意地でいますとでも言ってくるかと思ったのに」

 ひっかけ問題をかけてくる子供みたいな顔でこっちを見てくる。まぁ、わざとそう言ってきてくれていると分かる。いや、だからこそ不快じゃないのか。

「それじゃあ繋ぎだな」

「繋ぎとは?」

「繋ぎとしてならいつでも君の話を聞くよってことさ。どうせなら私の話も聞いてくれ此処のところ暇でね。相互依存の下位互換みたいなものさ。構わないだろう?私の説教一つでココの中の考えが変わるほど芯は弱くないだろうに」

指先で胸をつついて見せる。思考が読めるのか察しが良すぎるのか知らないがこっちが何にも話さなくても会話になりそうだ。

「嬉しい。ですけど、いいんですか?」

 しどろもどろになりながら聞く。

「私も話し相手が欲しかったからね。繋ぎだということを絶対に忘れなければいいさ。私よりまともな人間を探しな。これは一種の契約だ。まぁ私たちも長い付き合いになりそうだからね。よろしく。」

 短いんだか長いんだかわからないことを言いながら手をこちらに差し出してくる。強く握り返すと満足したように手を離した。

「さてと、私としてはもうそろそろ、ベランダに出た本題を済ませたい頃合いなんでね」

 ポケットから青い小箱を取り出して見せてくる。

「これは?」

「書いてあるだろう。シガレットさ。俗に言う煙草だね。吸ったことは?」

あるわけがないだろう。いえ、と言いながら首を横に振る。

「最近の高校生はこういうものをやらないのか、私の頃も不良と私ぐらいしかこんなものやってなかったから普通ではあるけどね」

 箱から一本取り出してこちらに差し出してくる。身振りでいらないという意思を伝えると、つまらないとでも言いたげな顔をして煙草を口にくわえ、ポッケからライターを取り出して火をつける。開けるときも閉めるときもいい音のするライターだ。白く濃い煙にバニラのような甘い香りが混ざっているような気がする。濃い煙はスッと空気に溶けていってしまった。

「そんなの、なんで始めたんですか?」

「完全に相棒の影響、Peaceって書いてあるでしょ。多分コンビニで買える奴で一番きついんじゃないかな。相棒の言葉を借りるなら『私は博愛主義者だからね。平和を望む者にはpeaceが必要なんだよ』ってね。私たちは君より狂ってたから始めるべくして始まってしまったんだろうね」

「ちょっとよくわからないです」

「暇なときにでも昔話でもするさ。どうだい?どうせ今日は学校行かないんだろう?」

 ひどい言い方だ。もしかしたら行くかもしれないじゃないか。

「もちろん行きません」

 即答した。

「んじゃうちおいで」

 足元に置いてあったコーンポタージュの缶の中に吸殻を入れて部屋に戻ろうとして立ち止まる。

「鍵開けとくから五分後に来て。できるだけ他の人に見つからないようにね」

 衝立越しだったのでどんな顔をしているかわからないが、十中八九八重歯が見えるくらいニヤついているのだろうと容易に想像が着いた。


 雲の切れ間から太陽が覗いているが、依然雨は降り続いている。どうやら雨はまだしばらく止みそうにないらしい。

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雨は晴れより美しい 浦野 紋 @urano-aya

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