漆 うたかたの雲路

灰色の闇

 たとえ御簾みす越しであったとしても、今は誰にも見られたくなかったし、会いたくもない。

 桃を襲ったその想いは、熱に浮かされたような衝動だった。

 侍女らを全員退出させ、妻戸つまどしとみも閉じた。さらに自分は、部屋の中で唯一四方を壁で囲われた塗籠ぬりごめの中に身を隠す。

 桃を覆うのは、今は闇だけだった。

 柑子こうしは一命を取り止めた。しかし、出血がかなりの量だったらしく、今は動くこともままならないという。

 一時は柑子の正室である牡丹が、半狂乱になり桃に詰め寄って来たりもしたが、三晩を数えるとそれも収まった。今は柑子に付きっきりなのだという。

 そして、桃が最も信頼していた侍女であり、桃と桜の乳姉妹である蘭は牢に囚われ、誰の差し金かを問われ三日三晩鞭で打たれ続けた。しかし、自分一人でやったことであり誰の差し金でもないと言い張り、そのまま正気を失ってしまったのだという。

 もう鞭で打っても意味はなかった。もはや痛みすら感じていないのか、打っても打っても気味悪く笑っているだけなのだという。そうして、意味不明な言葉をつぶやいてはまた笑って。

「蘭……」

 まだ信じられない。蘭はあんな恐ろしいことをするような娘ではない。ずっと一緒に育って来た桃にはわかる。

 人を憎むことなんてない。逆に、人のいいところばかりを見て、それを褒めるような優しさしか持ち合わせていなかった。その慈しみの心を、多くの侍女たちは慕っていたのだ。

 だからこそ、蘭の受けた罰のむごさが、桃の身体までも蝕んで行くような苦しみを生んでいた。

 牡丹に罵られ恐縮し、鞭で打たれているだろう蘭を思えばその酷さに吐き気をもよおし、柑子の容態に気を揉んで。

 気の休まる暇もなく、ろくに眠ることすら出来ない。

 蘭は柑子と逢瀬を重ねていたのだという。その事実は知らなかったが、それは別段、罪になるようなことではない。むしろ、侍女という立場の蘭からしてみれば、これ以上ない縁談だ。

 柑子には、正室の牡丹がいる。しかし、鈴鳴すずなり家の家主であるにも関わらず、側室は一人もいない。ゆえに側室を娶ることはなんらおかしくはないのだ。正室ほど身分にもうるさくない。周囲の人間からすれば、むしろ喜ばしいことだと受け止められるだろう。

 ならば、逢瀬は蘭の意思ではなかったのだろうか。それで恨みに思って?

 いや、柑子が無理強いをすることはないだろう。柑子の牡丹に対する態度を見ても、女人にょにんを無下にしないであろうことは容易に想像できる。

 ならば、なぜ。

 考えてもわからないことだった。それでも、考えずにはいられない。

 大切な乳姉妹だった。まるで本当の姉のように思っていたし、蘭も同じように思って慈しんでくれていた。

 それなのに三日三晩鞭で打たれたなど。その挙句に、気がおかしくなったなんて、そんなことがあっていいのだろうか。

 本当に、蘭が刺したのか。なにかの間違いではないのか。

 でももし蘭ではないと柑子が判断したなら。もしくは、誰かが蘭を差し向けたのだと疑うなら、次に鞭で打たれるのは自分かもしれないのだ。

 桃は蘭の主人だ。そして、桃には動機となる噂が立っていた。言わせておけばいいなどと陵駕りょうがは笑っていたが、それがこんなことになるなんて。

 事実、事件の翌朝、武官が一度桃を訪ねて来たのだ。その時はなにも知らないと強気に返したが、その顔は不服を隠そうともしていなかった。到底納得はしていないだろう。

 桃は疑われているのだ。少なくとも、武官からは。

 怖い。こんなにも貴族の世界が血なまぐさいだなんて知らなかった。

(どうしよう……)

 なぜこんなことに。夏に貴子が殺められて、次は柑子が刺されるなんて。

 蘭は酷い拷問で心身喪失して、次は……。

 考えただけで恐ろしいのに、考えることをやめられない。

 もし引き立てられるようなことになったら、なにも知らないと言っても信じてもらえるのだろうか。

(どうしよう怖い……陵駕)

 つい心の中で陵駕を呼び、唇を噛む。怖いと彼に泣きついてどうするのだ。十日後には正式に息子となる陵駕に縋っては、余計に辛くなる。今、これ以上にまた苦しみを増やすなど……。

 それでも、どうしようもなく彼の手が恋しかった。その手を握り締めて泣いたのはいつだっただろう。

 あれから姿すら一度も見ていない。

 暗闇の中で、陵駕の首を絞めた自分の両手を見つめた。それとほぼ同時に、突然外から物音が聞こえて、驚きに身体を縮める。

 妻戸が開いた音だ。誰かが入ってきたのだ。

「いや……」

 足音。その足音に重なる絹ずれの音は、衣を床に引きる女人のものではない。その事実が、桃の恐怖をあおる。

 胸が早鐘を打った。現れたのが武官なら、桃は囚われるのだ。

 足音は部屋の中をひと巡りしたようだった。そこに桃の姿がないのを確認したのだろう、足音は桃のいる塗籠へと向く。

 近づいてくる足音。戸に手のかかる音。

 扉がゆっくりと開いていく。妻戸から差し込んだ薄い光が塗籠へも線を描いて入り込む。

「いやっ」

 戸を開けた人物と顔を合わせる勇気などなかった。光とその人物を避けるように、袖で頭を覆い隠す。

 一瞬の間。

「ははうえ……いらっしゃらないかと……」

 その声に、再度胸が早鐘を打つ。慌てて声の方を見るが、逆光でその顔は見えない。それでも、聞き間違えるはずなどなかった。

 それは桃が一番縋りたくて縋れない、陵駕の声!

「りょうが……」

 薄い光に馴染んできた瞳に映ったのは、桃を見つめる沈痛な面持ち。

 そのまま、どれくらい見つめ合っていただろう。

「少し、よろしいですか?」

 陵駕が控えめに言を継ぐ。その言葉に肯首すると、彼はゆっくりと中へ入ってきた。微かに光が漏れ入る程度まで戸を閉め、また薄闇に包まれる。

 灰色の世界。その中を、色のない人影が歩き、桃の前に腰を下ろした。反射的に視線を向けた首筋には、今は桃の付けた手形は見られない。

 それだけの間、姿を見ていなかった。

(陵駕……)

 そこへ手を伸ばしたい衝動を、袖の中でぐっと拳をにぎって耐える。陵駕は、もうすぐ息子となる。それは変えられない。柑子が瀕死の重症を負った今、その予定を延期しようという者もいない。

 触れてはならない人だ。

 わかっている、わかっているからこそ胸が痛む。

 陵駕はしばらく口を開かなかった。じっと桃を見つめてくるその瞳だけが、ゆらゆらとゆれている。

 しばらく無言で視線をさまよわせ、やがて決心したように桃を見た。

「先ほど、蘭に会って来ました」

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