逢瀬と懐剣
隣で眠る柑子は、ひどく無防備だった。急所をさらけ出して眠っている。肩を抱くように回された腕の中で、そっとはだけた胸に頬を寄せた。
いつもの、あたたかな体温。
こうして、臥所を共にするようになってどれくらい経っただろう。柑子は貪るように身体を求め、それでいて壊れ物を扱うかのように優しく愛撫し、眠りに落ちて行く。
正室の牡丹とは、今までどおり仲睦まじく過ごしている様子だ。その姿を見てもなお、こうして真夜中の逢瀬をくり返して来た。
そのことを知っているのは、柑子の護衛役である
柑子の嫉妬深い正室である牡丹に知られないための策だった。牡丹が怖いと言ったことを、彼は考慮してくれたのだ。その優しさが、あだとなることも知らずに。
最初こそ持ち物を
そして、今夜————。
この長かった日々の終幕。
それは鈴鳴家家主柑子を
肝をひと突きにして、随身らが控えている場所からは死角になる逆側の
これが最後の夜。
「————……」
手を伸ばし、褥の脇に隠した懐剣をつかんだ。そこは、身体に打ち掛けた衣に隠れている場所だ。
ひんやりとしたその温度に、身体が一瞬震えた。引き寄せたものの、その手が止まる。ほおに触れる体温が、そこで生きている男を否応なく感じさせる。
なんの疑いもなく。
(わたし……)
どうしたというのだろう。懐剣を抜けない。
この日を待ち望んで来たはずだ。愛してもいない男に抱かれる日々に、終止符を打つ時を。
柑子がいなくなれば、全て上手くいく。愛する人と、共に幸せになることが出来る。もう身体を差し出す必要もなくなる。
これは、愛する人のために必要なこと。だからやり遂げなくてはならない。必ず。
なのに、なぜ。
(どうして)
身体がすくむ。微かに腕に震えが走った。それは寒さのためではない。むしろ、身体はじっとりと汗をかいているほど。
それなのに、あたたかな愛してもいない男の体温から離れられない。
慎重に息を殺し、やっとの思いで身体を引き起こす。絹ずれの音すらうるさく感じる闇。それでも、暗さに慣れた目は柑子の姿をしっかりと映していた。
いつもは引き締まった精悍な顔つきは、今は嘘のように安らかさを浮かべている。壮年であるのに、その寝顔はまるで
頬にかかる伸び切った前髪。
その髪をそっと指先で払いつつ、ため息を付く。幾夜、この寝顔を見続けて来ただろう。
(今日こそは、この人を……)
身体の芯がすっと寒くなる。
今夜を逃せば、次の機会は訪れないかもしれない。もう、日がないのだ。躊躇っている時間はない。
そっと指を胸に這わせる。その最後になるぬくもりを感じる。
柑子のことを憎むことが出来ていたなら、事はもっと簡単に片付いただろう。憎しみにまかせて、肝を突けばいいのだから。
けれども、決して柑子を憎んでなどいない自分を知っていた。いや、憎めないのだ。
獣のように身体を求めて、それなのに優しく慈しんでくれる手のひら。童子のような寝顔。
その寝顔はまるで、誰かに守って欲しいと言っているようで。
そして、その誰かとはおそらく、自分だという自覚があった。
「あぁ……」
情が、移ってしまったのだ。こうして、その命を奪うことをためらうほどには。
愛する人のためにと、この役割を引き受けた。それが、彼の人を守り、幸せへと導く方法だったから。
その時に言われていたのだ。決して心を開くなと。
一度でも交わって心を開けば、相手に情がわいて殺められなくなる。だから決して柑子に心を開かぬようにと。
うかつだった。それが許されないものだとしても、愛する人がいるのだから情などわきようがないと思っていた。
油断していたのだ。そして、寝顔が童子のようだなどと思ってしまった。そう思うことによって、柑子に気を許してしまったのだ。
殺められないかもしれない。
けれど、それは許されないことだ。陵駕が正式に桃の養子に迎え入れられる前に、殺めなければならない。
おそらくはこれが最後の機会。
「わたしは、貴方を守る存在では、ありません……」
懐剣を強く握りしめる。ぎゅっと一度瞳を閉じ、鞘から抜いた。決意を胸に目を見開く。
愛を求める。愛する人と共に幸せになる。許されない愛と知りながら、それでも側に置いてくれると言うのなら、そのためになら何だってする。
「貴方の愛を求めているわけでは、ありません」
ともすると萎えてしまいそうになる心を押さえ込み、刀身を下に向けて両手で握り込む。その腕が、微かに震えて止められない。
人ひとりの命を奪う。そんなことを、なんの感情もなしに行えるような、そんな精神は持ち合わせていない。今自分を支えているのは、愛のためというその想いだけ。
刀身が青白く輝く。まるで、月の光を反射させているかのように。
この懐剣は母がくれたものだ。お守りと思って側に置いておきなさいと、そう言って。
その切っ先を、下へと向けた。柑子の肝へと。
情と愛なら、愛を選ぶ。愛する人の側にいられるように計らうという約束。それだけのために、自分はなんと恐ろしいことをしようとしているのか。
もう引き返せないところまで来た。
これが正しいことだなんて思わない。これは恐ろしく、そして愚かなことだとわかっている。わかっているからこそ、もう止められない。
(柑子殿……)
決して憎いわけではない。ただ彼が存在していることが、都合が悪いだけ。それだけで彼の命を奪う。
なんと浅ましい愛。魔に憑かれてでもいるかのようだ。あるいは、そうなのかもしれない。この所業が、許されるとは思えない。
一生、背負わねばならない闇。
それでも、愛する人の側で、そのほほ笑みを守ることが出来るのならば。
「申し訳ありません、柑子殿————…!」
震える腕を上へ振り上げた。急所を狙う。
「申し訳ありませんッ」
押し殺した謝罪。その一瞬ののち。
青白い光が流れた————。
◆ ◇ ◆
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