遼遠の恋

「あら? じゃあ改名したってこと?」

 貴族の改名は珍しいことでもない。病気になったからとか、縁起を担いでとか、神託があったからとか、様々な理由で改名をする。

 身近な人だと、桃と桜の母・常盤がそうだ。双子を産んだことで改名したという。

「そうです。他をしのいでその上に出るようにって。まあ、その通り次期家主に選ばれてしまいましたが」

「名は体を表すってことね」

 それが陵駕にとっていいか悪いかは置いておいて、その名付け親は彼の本質をよく見ていたのだろう。

「前の名はなんていうの?」

「さぁ。今の名が気に入り過ぎて忘れてしまいました」

 見え透いた嘘。しかし、そう言われてしまっては追及も出来ない。

 なにかの理由があって改名したのだろうし、自分が恋うた人からもらった名前だ、愛着だってひとしおだろう。

「その方とはどうなったの?」

 もちろん、まだ妻を娶っていないし、二度目があるということは結果はわかっている。それでも、気にならないと言えば嘘になる。

「政略結婚で遠くへ」

「そうなの……」

 貴族ならではの失恋話だ。だから陵駕は貴族が嫌いなのだろうか。恋うた相手がいても、いとも簡単に引き離されてしまう世界だから。

「二人目はまぁ、また今度ということで」

「そう」

 しかし、陵駕がそう言うのだから、深入りはしない。どうしてこんなことを桃に話してくれたのかはわからないが、自分に心を開いてくれているのだろうと思うことにする。

「それで? 母上はいかがですか?」

「わたしは……ない、わね」

 東雲は尊敬していたし、人として好きだった。ただ、恋うていたのかと言われれば、違う気がする。

 東雲は、愛する暇も無くこの世から去ってしまった。そのことは、本当に残念だ。きっと、時間をかければいい夫婦になれたと思うのに。

「本当に?」

「本当よ。恋うている人もいなかったから素直に嫁いで来ちゃったけど、肝心な人がすぐにあんなことになっちゃったでしょ?」

「その後も?」

「え……」

 その後。そこで浮かんだ人物に桃は頭を振った。あり得ない。違う。

(違うけど……)

 見上げた陵駕は、笑みを浮かべて桃の返答を待っている。その姿は悔しいが美丈夫だ。桜が恋うのもわかる気がするくらいには。

 からかわれていると分かっていても、触れられれば意識する。そうだ、それだけのことなのだ。これが柑子でもきっと同じだ。そうに違いない。陵駕だからとか、そういうことではないのだ。

「ないわ。もう嫁いでいるのだし、そんなことあっても困るわよ」

 答えて桃は首をすくめた。一体陵駕はなにを言っているのか。そんなことを訊いても、どうなるものでもないだろうに。

「……お互い、つまらない人生ですねえ」

 なぜだか陵駕は一人でしみじみとしている。

「そうかしら。私は恋を必要としていないし、陵駕だって婚姻はこれからでしょう?」

「まぁ、そうですけどね」

 それでも、何か思うところがあるのだろう。少し憮然とした表情をしている。

「妻を娶ると言っても、こちらの意思は通りませんからね」

「あぁ……それはそうかもしれないわね」

 次期家主となると、正妻もそれなりの身分が必要だろう。

 桃が東雲に嫁いだのも、二人の意思ではない。

「実はですね、その二人目というのが、今現在恋うているのですよ」

「えっ⁉︎」

 陵駕に恋うている女人がいる。

 本人の口から告げられたその事実に、桃の胸が跳ねた。冷や汗が背中から吹き出し、身体の芯が急激に熱を失う。そのことに、桃自身が驚き、動揺する。

 何か言おうとするものの肝心の言葉が思い浮かばない。結局、口をわななかせるだけで音にはならなかった。

(突然、驚かさないでよ……)

 急に早鐘になった胸の鼓動を悟られないように、静かに息を吸ってやり過ごす。

 本当に陵駕は人が悪い。こんな風に突然告げるなんて。

 それにしてもと、静かに深呼吸を繰り返しながら桃は考えを巡らせる。

 陵駕に恋うた姫がいるのなら、誰を娶ることになるのかは気が気ではないだろう。そしておそらくは、恋うた姫を娶ることは出来ないのだ。

 もちろん、自分からその相手を進言する事は出来る。でもそれをしていないということは、鈴鳴家の次期家主の正妻としては若干不釣り合いな身分なのかもしれない。

 もしくは。

(桜、かしら……)

 もし鈴鳴家の中でなら、陵駕に釣り合う歳の姫は桜しかいない。

 二人は話していても褒め合っていたし、お似合いに思える。

 そうだとしても、そうでないとしても、辛いところだ。今恋うている姫がいるのに自分の意思が通らないのは。

 確かに、つまらない人生だと思っても致し方ないのかもしれない。

「辛いところなのね」

「まぁ、そういうわけなんです。あぁ、そうだ」

 いたずらっ子の笑みでぽんと手を叩いた陵駕は、なにやら楽しそうな笑みを浮かべた。桃の方を向いて、爽やかに笑う。

。今のうちに、私と一緒に逃げちゃいましょうか?」

 言葉に詰まる。陵駕と逃げる、それは罪人として追われることを意味する。それと同時に、陵駕と結ばれるということを。

(ち、ちが……からかわれているだけだわ)

 そう思うのに、先ほどの陵駕の手の感触がよみがえる。

 陵駕には恋うた姫がいる。だから違うのだ。そう思うとなぜか苦しい。陵駕が婚姻を結べば、もう気軽に自分のもとへ訪れることもなくなるだろう。

 そして子をもうけて……。

(そうなんだわ)

 陵駕と過ごすことは気安く、それが心地良かった。この日々が続けばいいと思うくらいには、楽しみだったのだ。それが近い将来なくなる。それは確実なことで、それが自分は、たまらなく寂しい。

 こうしてからかわれることも、怒って声をあげることも、二人で庭を眺めて笑い合うこともなくなるだろう。

 そう自覚した途端に、言いようのない嫌な気持ちが胸にわきあがった。

「それって、わたしに陵駕と心中しろってこと?」

 その気持ちを隠すように、早口でそうまくし立てる。

 二人で逃げるのならば心中することになるだろう。禁忌を犯したとして、桜の宮からすぐに追手が付く。到底、その追手から逃れられるとは思えない。捕まれば、二人の首は飛ぶ。

「嫌ですか? 今ならまだ心中じゃないですよ。それは秋からです」

「どちらにしても結果は同じでしょう。それに、どうしてそこでわたしと一緒になるのよ」

「だってほら、つまらない人生が波乱の人生に変わるでしょう?」

 飄々とそう言ってのけた陵駕を軽く睨む。

 陵駕と過ごせば確かに楽しそうだ。ちらりとそんな思考が頭をかすめる。同時に、桜の顔が浮かんだ。

 桜が辛い思いをしているだろう時に、一体自分はなにを考えているのか。

「わたしの人生はそんなにつまらなくないわよ」

「いつも暇人してるのに?」

「それはっ……」

 むうと唸る。そんなことを言われると、本当に自分の人生がつまらなく思えて来てしまうから嫌だ。

 陵駕が正式に養子となった後だが、出仕してはどうかと柑子から勧められてはいる。東雲が行なっていたような学術的なことや、文学の編纂を任せたいという話だ。

 それは桃も受けたいと思ってはいる。しかしまだ返事は出来ていない。出産を経てから出仕する者が多い政治の世界で、桃はいささか若すぎるからだ。

 けれども、それを断れば、桃は陵駕の言う通りの暇人となるだろう。それは、本当につまらない人生だと言えた。

「ね?」

「でも、陵駕と逃げるなんて嫌」

「そうですか? 残念ですねえ、楽しそうだったのに」

 本当に楽しいとでも? と返したくなったが、ぐっと我慢する。そんなことを返せば、また化かし合いが始まりそうだ。

 追っ手から逃げるなど楽しくもなんともない。それさえなければ……。

「やるなら恋うている方とどうぞ」

 そうだ、陵駕の好きな姫と。

 陵駕には、今恋うている女人がいる……。

(どんな人なんだろう)

 いつかは教えてくれるだろうか? なんだか無性に気になる。桃が、桜の想いに気がついているからかもしれない。

 桜にしても、陵駕にしても、自分の意思を通せるほど貴族の世界は甘くはない。その思いは叶えられないことの方が多い。

 貴族として生まれたのだから、恋など知らない方がいいのではないだろうか。

 叶えばいいのにとは思えない。叶わないのは悲しいことだ。桜が陵駕のことを恋うているのなら、それは辛い思いをしているだろう。陵駕だって辛いのかもしれない。だけど。

 なにか言いようのない、黒いものが胸に充満していくような気分だ。

 なぜ陵駕はこんなことを打ち明けてくれたのだろう。桃にどんな反応を期待したのだろうか。

 まさか、本当に恋うた姫と逃げたいとでも思っているのだろうか。それを実行しないとしても、気持ちとしてはそうなのかもしれない。

 口ではああ言ったものの、実際に逃げると言われたら力づくでも止める。自らの果たすべき義務を捨てての出奔は、それだけで罪となるのだから。

 そう考えると、貴族があまり好きではない陵駕の気持ちもわかる気がした。

 貴族とは、そんなもの。全てが血と身分。上のものには逆らえず、逆らおうものなら罪人となる。自らの果たすべき任を放棄することは、臣民を見棄てること。だから、これも罪だ。

 結局、様々なものでがんじがらめで、身動きすら取れない。

 ——ねえ、桃姫。決められた人とそのまま婚姻を結ぶより、自分の恋うた人と結ばれる方がいいと思わない? 身分抜きでさ。

 ずっと昔の、はるかという少年の言葉が、ふと頭の中で聞こえた。

 自分を抱き上げながら、そう言っていた少しかすれた高い声。

(遼お兄様。わたし、決められた人に嫁いだの……)

 今はどこにいるのか知らない、幼き日の兄にそっと語りかけた。

 東雲との結婚を悪いなんて思ったことはない。むしろ、東雲はいい夫だった。桃は相手に恵まれていた方なのだと思う。

 だけど、だからこそ、誰かを恋う気持ちは知らないままだ。

(つまらない人生送ってるのかしら、わたしも)

 どう思う? そう問いかけても、今となっては、遼は答えてくれない。

 その名の通り、遼は遠い空の下————……。


   ◆ ◇ ◆


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