She's like a dream

 学校を出て15分ほど歩いたところで、目的地の甘味処に到着した。


 和モダンな趣のある外装。

 幽玄な檜の香りに包まれた風情ある内観。

 店の中に足を踏み入れた途端、心にしんとした落ち着きが染み渡ってくる。


 壁に取り付けられたランタンの明かりが足元や天井を淡く照らしている。

 彼女の顔色も心なしか、道中よりワントーンくらい明るくなった気がする。

 とりあえず店のチョイスは間違いなかったようでひと安心だ。


 和装の店員に案内され、僕たちは奥まった位置にある半個室の席に向かい合って座った。

 窓の外に視線を移せば、枯山水の庭園を一望することができた。

 店の雰囲気は抜群に良い。少なくとも、恋人でない自分たちが来てもいいところなのかと気後れしてしまうほどには。


 メニュー表を見ると、和のスイーツを中心としたメニューが豊富に取り揃えられていた。

 僕はホットコーヒーとみたらし団子を、彼女は抹茶小豆アイスと温かい緑茶を注文した。

 たまたま混雑していない時間帯だったこともあって、ものの数分で注文した全ての品がテーブルの上に並べられた。


 できたてのみたらし団子は仄かな温もりを含んでいて、味も絶品だった。

 彼女もスプーン片手に、時折唸り声を上げながら舌鼓を打っている。

 美味しいスイーツを満面の笑みで頬張るその愛嬌溢れる姿に、僕はたびたび手を動かすことも忘れて釘付けになっていた。

 その姿を拝めただけでも誘って良かったと心から思えた。


「いい店だね」


 店内を見回しながらそう呟く彼女に、前から来てみたかったんだ、と咄嗟に嘘を返した。ひとりじゃ入りづらかったから君を誘ったんだ――そういうことにしておこうと僕はずる賢く考えた。


「女の子への免疫はついてきたかしら」


 雑談がてらに尋ねられ、僕は曖昧に返事した。ここ最近、彼女以外の女の人と会話した記憶は無い。だから実際に免疫がついているかどうかは不明だ。


 話題を逸らすため、自分こそどうなんだと僕は訊き返した。

 するとたちまち彼女の表情に陰が差した。


「最近は特に進展はないかも。男の人が間近にいると脈拍が激しくなるのは相変わらずだし、貴方以外の男子とはまともに会話が続かないの」


 その発言は少なからず僕に優越感を覚えさせたが、その気持ちだけは絶対におくびにも出さないよう注意した。彼女に合わせて表情のトーンを落とし、気長にやっていけばいいさ、なんていう気休めの言葉がつい口を衝く。


 瞬間、チクリと胸が痛んだ。気長にやるなんてとんでもない。一刻も早く彼女に触れられずにいる日々を卒業したいというのに。


 彼女は幾分か暗い表情で、そうだね、と呟き、それきり口を閉ざした。

 途端に僕はかける言葉を失った。

 視線を宙に彷徨わせながら、内心で自分自身に毒づく。だから15センチの距離をいつまで経っても埋められないんだ、能なしが。


「どうしたの。なんか怖い顔してるけど」


 彼女から指摘され、慌てて表情を綻ばせる。

 みたらしが口内炎に染みちゃって、と咄嗟に治りかけの口内炎を言い訳の材料に使う。


 胸のうちを逼迫する黒い塊がさらに大きくなる。

 彼女を前にすると、いつもペテンしか口を衝かなくなる。

 ひとつでも本音を明かしてしまえば、彼女はたちどころに僕のもとを離れていってしまう。そんな予感がしていた。


「ねえ。弱音、吐いちゃってもいいかな」


 スプーンを皿の上に置いて、俯き加減に彼女は言った。口元には虚弱な笑みが浮かんでいた。

 小さな胸騒ぎを覚えつつも僕は先を促した。

 彼女はすんと鼻を鳴らしてから、また口を開いた。


「私の病気、もうこれ以上は改善されないと思うの。もう2ヶ月以上、何の進歩もない」


 心臓を鷲掴みにされたような心地に駆られた。それは彼女の口から二番目に聞きたくない台詞だった。


「そもそも『真人間』って何なんだろうね。異性の身体に触れることの何が偉いのかしら。そんなの、性欲に支配された獣と一緒よ」


 その言葉は僕の胸に深く突き刺さった。彼女のいう獣とは、もろに近頃の僕であった。


「その点貴方は見上げたものだわ。もう半年も一緒にいるのに、約束通り、私の身体に指一本触れてこない。他の男子たちと比べると、貴方の心はずいぶん澄み切っているように感じる」


 微笑を浮かべる彼女の頬は、緑茶から立ちのぼる湯気の向こう側で、ほんのりと桃色に染まっていた。


 僕は黒い塊に足を掬われてしまわないよう、気丈に空笑を浮かべた。

 嘘つきは大罪だと今ほど痛感した瞬間はない。

 ピュアな女の子に偽りの夢を見させてしまっている自分がたまらなく憎い。


 激しい自己嫌悪の波に襲われている僕をよそに、彼女は緑茶を一気に飲み干すと、今度は打って変わって快活な口調で発した。


「ごめん。弱音タイム終わり! 今の、半分冗談だから。私ね、どうしても病気を治したい理由が、なんとなくだけどできそうなの」


 突然の告白を受け、意識が現実に引き戻された。


 ――理由……?


 撒き餌に飛び付く魚のように彼女の発言に食らいつくと、彼女はまたほんのりと頬を桜色に染め上げてから、机上に視線を落としつつ慎ましげに口を開いた。


「私、好きな人ができたの」


 その瞬間。


 時間の流れが止まったような気がした。


 耳を疑い、目を疑った。鼻孔にまとわりつく檜の香りと砂糖菓子の甘い匂いを疑った。五感の全てを疑い、現実のことごとくを疑った。


 身体が固まって、言葉が出てこなかった。


「その人の肌に触れられるようになりたい。その人のそばにずっと寄り添いたい。その人と子供をつくって温かな家庭を築いていきたい。……そんなささやかな希望が、やっと私にも芽生えたの」


 彼女が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。

 だけど胸は確かにときめいていた。恋する乙女は美しい。皮肉にも、僕はこれほどまで可愛げに満ちた彼女の姿を見たことがなかった。


 胸が苦しい。これが恋か?


 ――否、これは失恋だった。恋煩いの胸の苦しさとは似て非なるものだが、人を盲目にさせるという意味では、どちらも同じようなものだ。


「……どうしたの? 突然、黙りこくっちゃって」


 ようやく僕の様子がおかしいことに気づいたらしい。顔を上げた彼女と正面から視線がぶつかった。

 彼女の丸々とした瞳には、きっと蒼然とした顔色の僕が映っていることだろう。


「――ちゃん?」


 不安に染まった声色で、いつものように僕の名を呼ぶ彼女。

 その美しく可憐な声が耳朶に触れるたび、胸に鋭い痛みが走った。


 徐々に理性の歯車が狂い出すのを、僕は止められなかった。


「……どうして、泣いてるの?」


 当惑に包まれた表情で彼女から問われ、僕は初めて自分が涙を流していることに気がついた。

 あまりに突然のことで、すぐには気持ちの整理が追いつかなかった。


 僕は今、悲しんでいるのだろうか?

 それとも、怒っているのだろうか?


 我がことなのに自分の胸を支配している感情の正体が分からなかった。


 溢れる涙を拭うことも忘れて、僕は口を開いた。

 自暴自棄になっていたのだろう、思いつくままに全ての嘘や隠し事を暴露した。


 彼女は氷像のように固まって、僕のナイフのような告発を黙って聞き入れていた。

 やがて彼女の目から大粒の雫がポロポロと溢れ出した。

 それを見て、僕はハッとした。口を噤んだ時、僕の頬は清々しいほどに乾いていた。 


 僕は本当に彼女を愛していたのだろうか?

 そう疑いの目を向けざるをえない。

 本当に彼女を愛していたのなら、きっとこんな風に彼女を悲しませたりはしない。


 じゃあ僕が愛していると思い込んでいたものは、いったい何だったのだろう……。



 外の景色が暮れなずみ始めた頃、夕闇に紛れ、ポツポツと雨の音が聞こえてきた。

 みたらし団子の最後の一本は手つかずのまま、あれから数時間が経過していた。


 気づいた時、彼女はすでに僕の前から姿を消していた。

 最後に何を言い残すこともなく。

 最初からまるで夢幻だったかのように。


 ぼんやりと虚空を見つめながら僕は思った。明日、土下座して謝ろう。許してもらえないかもしれないけれど、何もしないよりは彼女の心の慰めになるだろうから。


 だが結局、その機会が訪れることはなかった。

 15センチの隔たりを埋めるはずが、結果として未来永劫取り壊すことのできない壁ができてしまったことに、その時の僕は愚かにも気づいていなかった。

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