クリプトクロムと電氣蜂
鳥辺野九
クロノノーツ・クエスチョン ① 567億ナノ秒の旅路
彼女の真っ黒い瞳はまるで極小のブラックホールだ。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。そう言い遺して深淵に消えた哲学者は誰だったか。誰でもいいか。
暗闇にラインを引いてこぼれ落ちる薄光の下、目の前12センチメートルに浮かぶ二つのブラックホールに見据えられたら、そんな理屈屋な哲学者のことなんてどうでもよくなる。むしろ邪魔だからさらなる深淵の向こう側に落っこちてしまえ。
彼女お手製のタイムマシンはダクトテープで密閉的にデザインされた通販大手Galapagos社のダンボール箱だ。不恰好な犬小屋みたいな形状で、人間二人が向かい合って搭乗すれば、自然と身体を触れ合わせて鼻先を突き合わせる姿勢になってしまう。
呼吸をするのもはばかれるほど、彼女の吐息が感じられるほど、ただじっと、僕たちはダンボール箱製タイムマシンの中で時が過ぎるのを待った。
タイムマシンでの旅は時空に影響を与えてしまういわゆる偏移性時空航行ではない。異なる世界軸線へスムーズに車線変更するようなものだ。割り込まれた車列は少し乱れたりもするが、そこはすぐに自然修正が成されて、車線が走行する道路そのものにまったく影響を及ぼすことはない。
ね、私から目をそらしちゃダメだよ。
彼女は真っ黒い瞳でかすかに言った。
彼女の真っ黒い瞳はまるで極小のブラックホールだ。視線を外すことなんて、彼女の重力に囚われた僕には至難の業だ。
ユクタ・サリンジャーはエウエノル工科大学時空物理学科きっての問題児だ。
「ね、カイリ。15時頃暇してる?」
ユクタは時空航行技術を駆使して、ひどく個人的好奇心からさまざまな時空的問題を発生させてきた。
文句なく成績優秀、奔放で不真面目な優等生だからこそ、時空物理学科きっての問題児なんて不名誉な称号を与えられたんだ。
「今日のバイトは遅番でしょ?」
ここだけの話。1665年、アイザック・ニュートンが滞在していた英国ウールズソープ・マナーの果樹園にいた謎のインド人使用人ってのはユクタ・サリンジャーだ。彼女がリンゴの木、いわゆる「ケントの花」に何をしたか、いや、言わないでおこう。
「私の部屋で実験に付き合ってよ」
だから、こんな風に誘われたら、そりゃあ警戒だってするだろう。あのユクタ・サリンジャーの頼み事だ。厄介事に決まってる。
「約1分間でいいから」
1分ならいいか。そう思った僕が甘かった。
「正確には567億ナノ秒だけ」
ほら。これは絶対に巻き込まれるパターンだ。
無駄に広いゼミの研究室の中、他の学生やアカシア准教授に気付かれないように僕の耳元で素早く囁いたユクタは、僕に拒否権はないとでも言うかのようにすぐに自分のタブレットPCに集中しているふりをした。
今日のカフェのバイトが遅番であることまで把握されていては、彼女の頼みを断る理由なんてすぐには思い浮かばない。どうしたものかと逡巡している僕をちらりと横目で確認して、ユクタはもう一度、とても小さな声で囁いた。
「ね、お願い。567億ナノ秒だけ」
そうだ。ユクタの「ね、お願い」攻撃に関しては、もともと僕に拒否権はなかった。
ここだけの話をもう一つ。ユクタが巻き起こした問題をそれ以上被害拡大させずに収束させてきたのはこの僕、
ユクタのおかげで、僕は時空物理学科きっての苦労人と呼ばれていたりする。
女子寮の窓から見える空もやっぱり黄色かった。
年頃の女の子の部屋から見える景色。それはさぞやきらきらと草木も深緑に輝いて、見下ろす町に広がる屋根屋根のなんとカラフルなことか。そんな妄想男子のロマンという名のフィルターをもってしても、大陸から海を渡る風が運んだ黄砂の砂害はかき消せないようだ。
ユクタの部屋の窓から望める景色も、僕の部屋から拝める風景と変わらず、黄色い砂を含んだ乾いた風が薄いヴェールみたいに眼下の町を砂色に覆い尽くしていた。
「ね、カーテン閉めてくれる?」
ユクタはタブレットPCに繋いでいた小さな端末を取り外しながら僕の方も見ずに言った。
ユクタの後頭部越しに壁に飾られた何枚もの写真が見える。某フルーツの名前を冠したコンピュータ会社の社長の若い頃とユクタが、まだその時代に存在しないはずのスマートフォンで自撮り撮影したであろう一枚が目に飛び込んできた。女の子の部屋で見てはいけないものを見てしまった気持ちになり、思わず目を背けてしまう。誰に何を見せちゃってるんだ。
「部屋の明るさは時間旅行に関係ないけど、カイリが私の部屋にいるってのがみんなに知られると何かと、ね」
ユクタはようやく僕に頬を緩ませた顔を見せてくれた。褐色の頬がほのかに赤らんでいる。襟足で結んだ艶のある長い黒髪が黄色い陽射しを受けて、一匹の魚が泳ぐようにきらめいて肩の向こうに落ちていった。よく言うよ。男子禁制の女子寮に僕を招き入れたのは誰あろう君じゃないか。
「私、これでも気を使ってるのよ」
「はいはい。次は何を手伝う?」
丈の長いサテンの遮光カーテンを引けば、暖かな午後の部屋は電気が消えたみたいに薄暗くなり少しばかり温度が下がったような気がした。カーテンの隙間からこぼれる黄色い日差しは細いラインとなって床を這い、ダンボール箱製タイムマシンに黄色いラインを模様付けた。
「セッティングは完璧。ストロンチウム原子時計をエミュって10のマイナス16乗分の1秒まで精度を上げてるからね」
ユクタの手のひらに静かに収まる平べったい直方体の端末。小さな板バネ式のドアの蝶番に見える。つまり10のマイナス16乗分の1秒単位でカウントできるドアの開閉タイマーってとこか。
「その蝶番で567億ナノ秒カウントするのか?」
「そ。さすがカイリ。理解が早くて助かる」
「おかげさまで、な」
ユクタの時空実験と称するさまざまな時空悪戯に巻き込まれているんだ。ユクタの思考パターンはしっかり学習できている。567億ナノ秒ジャストを数えるには、確かに原子時計レベルの精密さが必要だろう。問題はその精密な時間を、ダンボール箱に密閉される56.7秒をどう使うかだ。
「ね、入ろ」
バスタブをまたぐみたいに、少し恥ずかしげに内股になってユクタはダンボール製タイムマシンに搭乗した。僕もユクタに倣って狭いお風呂みたいな手作りタイムマシンに乗り込んだ。
「だいたいこのタイムマシンはなんだよ。まるで小学生の夏休みの工作レベルだ」
それとも日曜大工で不器用なお父さんが作った猫ハウスか。ダクトテープでベタベタと補強されたGalapagos社のダンボール箱は僕とユクタ、二人が搭乗すればそれでもう満員だ。華奢な身体つきのユクタならまだしも、僕は身体を折り曲げて首をすぼめなければ箱から頭が飛び出てしまう。なんて窮屈なタイムマシンか。
箱の底に毛布を敷いただけでコンピュータめいた操作系コンパネもなく、各種インジケータとかタイムマシンメカっぽいそれらもない。
ユクタは箱の中で小さくなりながら僕の不安げな心を読み取るかのように言う。
「タイムマシンならむしろこっちかな」
さっきまでタブレットPCに繋がれていた蝶番型端末を僕の鼻先に掲げるユクタ。身体が触れ合っているせいか、ちょっと照れくさそうに上目遣いに僕を見る。
「光の透過率が一番適しているのがたまたまGarapagosのダンボールだっただけ。ある程度密閉できてこの暗さなら、それこそ器はバスタブだっていいの」
まるで僕の頭を撫でるようにユクタは片手を伸ばし、髪にそうっと触れながらダンボール箱の蓋部分を箱の中から閉じた。なるほど、蓋の隙間だけでなく、箱の隅々からもかすかに黄色い光が漏れこぼれ、僕の鼻先に佇むユクタの褐色の顔を見つめるのにちょうどいい明度だ。これ以上暗ければもう視れないし、明るければ照れてしまう。
「このタイマーはね」
ダンボール製タイムマシンの蓋部分に蝶番型タイマーをセットして、ユクタはとっておきの内緒話をするように声を潜めた。
「56.7秒かけて56.7秒後の未来へ時空航行するタイムマシンなの」
「何故56.7秒なんだ?」
「私達人類にとっては56億7千万年って途方も無い時間だけど、ミロクボサツがタイムマシンを使えばそれこそ夢も見れないひと眠り分の時間」
「ミロク的にか」
「そ。ボサツ的にね」
『弥勒菩薩はタイムマシンに乗って来訪した未来人』説がユクタによって提唱された。
「私の時空航行理論が間違っていなければ、56.7秒後の未来はとっても素敵な世界になっているはず」
「ダンボール箱の中でただ窮屈に過ごす56.7秒じゃないのか?」
「567億ナノ秒後の世界よ。すっごくハッピーに決まってる」
「言ってる意味がよくわかんない」
ダンボール製タイムマシンの薄闇の中、ユクタは魅力的な微笑みを超至近距離で見せつけてくれた。
「マンデラエフェクトを意図的に発現させるの」
「さらに意味不明だ」
「567億ナノ秒後をお楽しみに」
ユクタの細い指が板バネ式蝶番をタイムマシンの蓋部分に押し当ててカチリと言わせた。僕達を乗せたダンボール箱は緩やかに密閉されて、タイムマシンとして起動した、のだろう。10のマイナス16乗分の1秒のラグもなくきっちり567億ナノ秒後に、この箱は開封される。それで56.7秒後の未来世界へ到着というわけだ。
「私達が向かう世界軸線はね」
まだ50億ナノ秒も経っていないのに、ユクタは期待に満ちた黒い瞳でやや早口に言う。
「カイリが私を好きで好きでたまらないって世界軸線」
こんな光の乏しい密室で身体を重ねるように密着して、時空物理学科きっての問題児はさらりと言ってのけた。
「だから私にとって素敵な世界で、こんな砂まみれで黄色く煙った世界じゃあり得ないはずなの」
僕とユクタは身体を向かい合わせて、お互いの体温を熱交換するみたいに膝を挟み合い、鼻の頭を触れ合わせるくらい至近距離で見つめ合い、ただ567億ナノ秒経過するのを待った。
ユクタの真っ黒い瞳はまるで極小のブラックホールだ。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。そう言い遺して深淵に消えた哲学者は誰だったか。誰でもいいか。
暗闇にラインを引いてこぼれ落ちる薄光の下、目の前12センチメートルに浮かぶ二つのブラックホールに見据えられたら、そんな理屈屋な哲学者のことなんてどうでもよくなる。むしろ邪魔だからさらなる深淵の向こう側に落っこちてしまえ。
ね、私から目をそらしちゃダメだよ。
ユクタは真っ黒い瞳でかすかに言った。
ユクタの真っ黒い瞳はまるで極小のブラックホールだ。視線を外すことなんて、彼女の重力に囚われた僕には至難の業だ。
こんな逃げ場のない環境では、ユクタを好きになるのに567億ナノ秒は十分過ぎる時間だった。
音もなく、ユクタの左手が僕の肩に置かれた。続いて右手がしっとりと頬に触れる。小さな手のひらだけど、僕の頬を包むには十分な柔らかさだ。
ため息をつくように唇を開いて、12センチメートルあった僕とユクタの距離を6センチメートルまで縮めた。
「やっぱりカイリだ。私とのちょうどいい距離感をキープしてくれた」
少し躊躇うように唇が揺れて、そして僕まで残り3センチメートル。
「一線を越えちゃった近過ぎる私たちだと、きっと世界を捻じ曲げてしまう」
かちん。
長過ぎる567億ナノ秒にようやく終わりが来たようだ。ユクタのタイマーが金属質な音を鳴らして蝶番が解放される。ダンボール箱の折合わされた蓋が緩み隙間が広まる。白い光がぽたぽたと冷たい水がこぼれるように流れ込んだ。
「ね、出よ」
「56.7秒後の未来に着いたのか?」
「かも、ね」
遮光カーテンから漏れる白い光がレーザースキャンしてるみたいに僕とユクタが乗ってきたタイムマシンに光のラインを落としている。特徴的なAmazon社のロゴを真っ二つに焼き切るレーザーはユクタの真っ黒い瞳にも飛び込んでいた。
「まぶしっ。眼鏡忘れてたわ」
Amazon社のダンボール箱から飛び出してデスクの眼鏡を取りに行くユクタ。あれ?
「眼鏡なんてかけていたっけ?」
レトロなデザインの黒縁眼鏡を手に取って、ん? って表情で僕を見つめ返すユクタ。癖っ毛のショートヘアが重力に逆らって立ち、つるんとしたおでこに眼鏡をかけて首をかしげる。
「たぶん?」
ユクタはたっぷり数十億ナノ秒かけて僕の頭のてっぺんからつま先まで観察した。そして何か言いたげに唇を開いて、やっぱり閉じた。今度は逆方向に小首を傾けて、壁に飾ってある一枚の写真を指差す。
「ほら。眼鏡かけてる?」
某フルーツの名前を冠したコンピュータ会社の社長の若い頃とレトロな黒縁眼鏡をかけたユクタと、すごく困ったように眉間にしわを寄せている僕とが、まだその時代に存在しないはずのスマートフォンで自撮り撮影した一枚だ。ああ、確かに。眼鏡かけてるな。って、僕はどうしてこんなに困った顔でセルフィーしたんだか。
「まあいいや。バイトの時間大丈夫?」
ユクタはAmazon社ダンボール製タイムマシンの蓋を閉じて、白い光が溢れている遮光カーテンに手をかけた。
「あれ、もうこんな時間か。もう行かなきゃ」
僕の腕時計がカフェでのバイトの時間が押し迫ってきていることを教えてくれた。
「うん。後でお茶しに行くから、カイリはもう行っちゃっていいよ。後片付けくらい一人でできるし」
いつも時空問題の後片付けを僕に頼むくせに。僕の憂鬱な気持ちも知らずに、ユクタは小気味いい音を立てて遮光カーテンを開いた。
大西洋の大陸側に浮かぶエウエノル島名物の白亜の海岸線が目に飛び込んできた。今日はやけに青空が濃く日差しが眩しい午後だ。
エウエノル大学時空物理学科女子寮の窓から臨める景色は相変わらず色鮮やかだ。男子寮みたいに裏山の鬱蒼とした森の黒い緑とは大違い。見下ろす海峡の街は白い壁に碧く輝く海を反射させて、花を咲かせたような色とりどりの屋根屋根のなんとカラフルなことか。
「気持ちのいい午後だね。こんな日はスパイスミルクティーに限る」
ユクタは窓を開け放ち、大陸との間の狭い海を渡る風を部屋に招き入れてカーテンを躍らせた。
「ね、次はどの時代に行こうか?」
碧い海の向こう、蒼い空の下、遠くに見えるアトランティス大陸を背景にユクタは笑った。次はって、もう次の厄介事の計画を立てているのか。
ユクタ・サリンジャーはエウエノル工科大学時空物理学科きっての問題児だ。そして僕は彼女が巻き起こす時空問題にいつも巻き込まれて、時空物理学科きっての後片付け人と呼ばれていたりする。
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