クリプトクロムと電氣蜂
鳥辺野九
瀬戸内少女妄想ゴハン ① クリームソーダ海戦
プラカップに映るクリームソーダ越しの瀬戸内海はぷつぷつと泡立つ鮮やかな緑色に輝いていた。
五月雨に濡れた新緑を思い起こされる透き通った緑色の向こう側に、ソーダに浮き沈む氷のような大小様々の島影が霞む。そしてもくもくと沸き立つ積乱雲とソフトクリームのシルエットが重なり合う。
小さな防波堤の先端にぺたりと腰をおろした
「ぷはーっ。クリームソーダは丹下屋に限るねー」
ひらりと膝丈より短めのスカートが海風に翻る。校則違反のスーパーカブで海沿いの道を走り、瀬戸内海が一望できる開けた防波堤に座ってクリームソーダで一服やるのが鈴鹿の夏の楽しみの一つだ。
「気持ちのいい天気だねー」
どこまでも透き通ったまん丸い青空に堂々と仁王立ちする積乱雲がよく映える。蛍光イエローのヘアピン二つで留めた前髪が潮の香りをたっぷりと含んだ風にさらさらと踊る。
海の匂いは塩漬けの魚が腐った臭いだ、と言う人がいる。確かに、このねっとりと流れる潮風には塩っ気以外にも動物性の脂が隠れているように思える。
「それって干物の匂いじゃーん」
鈴鹿は防波堤の縁から投げ出した脚をぶらぶらとさせ、その塩漬けの魚が腐った臭いとやらを胸いっぱいに吸い込んだ。
塩っ気のある香りとソフトクリームの甘さをミックスさせようと傍に置いたクリームソーダのプラカップに手を伸ばすと、さわり、指先に何かが触れた。
「ん?」
見れば、一匹のフナムシが鈴鹿の指とクリームソーダのプラカップに触覚を触れさせていた。甘い匂いに誘われ、カップの表面についた冷たい水を飲みに来たのか。小さな身体にはあまりに大き過ぎるプラカップによじ登ろうとしている。
鈴鹿はぺろりと唇を舐めた。
「こいつはあげられないなー。あたしの大好物だもん」
そして海の彼方、入道雲の麓の島々に目を凝らす。
「……おいでなすった」
不意に海に浮かぶ島の一つが盛り上がった。申し訳程度に生えていた木々が大きく揺れ、地面がひび割れて地表ごと剥がれてばらばらと海に落ちる。白い水柱が何本も激しく立ち昇り、やや遅れてくぐもった重い水音が鈴鹿の耳まで届いた。
海面から二本の巨大な触覚が姿を現す。大きな水しぶきを巻き上げ、そいつは海中から頭をもたげた。とてつもなく大きなフナムシだ。鈴鹿が見ていたあの島は巨大フナムシだったのだ。その巨体は海に濡れて黒光りし、一度大きく身体を震わせて波飛沫を飛ばすと、鈴鹿に黒々とした腹を見せつけた。わきわきと何本もの節足が蠢いている。
「そんなんで隠れてるつもりだったのか?」
巨大フナムシは腹を海に打ちつけて大波を巻き起こし、そして静かに泳ぎ始めた。波とともにこちらに向かってくる。
「もう一度言うよ」
鈴鹿はクリームソーダのプラカップを手に取り、ストローに唇を添えて迫りつつある巨大フナムシに言い放った。
「こいつはあげられないな」
手元にいた小さなフナムシはいつの間にかいなくなっていた。
「主砲、用ー意!」
鈴鹿の雄叫びのような号令に空気が震えた。湾に突き出た防波堤の両側の海面が山のように盛り上がり、水面が黒々と割れて筒状の金属が突き出てきた。鈴鹿の立つ防波堤の右側に一本、左側にももう一本、きらきらと光りながら流れ落ちる海水を身に纏った巨大な砲身がそそり立つ。
瀑布の側に立っているような轟音が鈴鹿の小さな身体を震わせる。風鳴りが暴れ、地鳴りが響き、海鳴りが爆ぜる。防波堤が揺れ動きながらせり上がって海面から離脱した。鈴鹿の立つ防波堤は巨大な砲台だった。
「目標、前方の巨大生物!」
二本の砲身がその巨体を海に横たえるようにいったん水平に戻り、大質量の金属が擦れ合う重低音を鳴り響かせて二連装砲が動きをシンクロさせて徐々に仰角を上げていく。やがてぴたりと動きを止め、振動も収まり、鈴鹿の耳に波音だけが残った。
巨大フナムシはまだ遠くを泳いでいる。
鈴鹿はソフトクリームが溶け出した甘ったるいメロンソーダで唇を湿らせ、すうと深く息を吸い込み、大音声を張り上げる。
「撃てえぇぇっ!」
少女の叫びが爆炎を呼んだ。
海を割るほどの爆音を轟かせ、砲身から発せられた爆発的な炎の塊は一瞬で真っ黒い煙となって空に立ち込めた。衝撃波が海面を叩いて放射状に鋭い白波を走らせ、撃ち出された砲弾は黒煙を振り払い、飛行音さえも置き去りにして、空気との摩擦で真っ白い光の玉となった。
はるか向こうで光弾が巨大フナムシのシルエットと重なると、光はその巨体に吸い込まれてフナムシは音もなく身体の一部を飛び散らせた。それと同時に巨大フナムシの後方で大きな水柱が二本立ちのぼり、一呼吸置いて爆発音が鈴鹿の耳に届いた。
「着弾。つーか、貫通しちゃった」
巨大フナムシは大穴の空いた頭をもたげて大きく仰け反り、ぬらぬらとした真っ黒い腹を見せて何本もの脚をもがくように細かく震わせて、やがてゆっくりと海面に倒れ込んでとても静かな白い波を巻き立てた。
まるでスクリーンに映しだされる無音映画のようだ。どこか寂しげで、現実感に乏しい光景が鈴鹿の目の前にある。沈みゆく巨体と鈴鹿との距離があり過ぎて、こもった波の音がやや遅れて聞こえてくる。その余韻が消え去る前に、鈴鹿は第二射のための号令を小さく呟いた。
「船体、浮上だ」
鈴鹿の甲高い声で彼女の立つ砲台がスイッチが入ったように振動を始めた。
「副砲、機銃、全門開け。主砲再装填を急げよ」
巨大フナムシが倒れぎわに巻き起こした風がようやく鈴鹿の元に舞い降りて、短めの髪を乱暴に撫でて通り過ぎた。青い海面を走った白いさざ波が砲台を叩くように洗う。
「来た来た。そう来なくっちゃ」
鈴鹿は襟足にかかる程度の長さの髪の乱れを撫で付け、プラカップから直接ソフトクリームを一口舐め取った。
海が騒がしい。青い海に黒く浮かんだ大小の島達がざわついている。
ある島はばりばりと裂けて大きな触覚を飛び出させ、ある島はざぶんと沈んでこちらに泳いできた。巨大フナムシ達だ。視界に広がる海に浮かんだ島々は巨大フナムシ群だった。
「おーおー、いるいる」
クリームソーダ片手に鈴鹿が立つ海も大きく波を立てていた。重低音をうち響かせて海が盛り上がり、鋼鉄の船体が水中から姿を現した。甲板からこぼれ落ちる海水が滝のように轟々と音を立て、大きく背伸びをするかのように巨大な砲身を掲げ上げた砲台がぎりぎりと軋みながら水平線に照準を合わせる。その姿をすべて浮上させた戦艦はゆっくりと巨体を横に向け、横腹から突き出た機銃群が一斉に海を狙う。
「主砲は後方の一番デカイ奴を狙え。副砲、各砲座はそれぞれ真正面の敵を撃て。機銃はとにかく近い奴から沈めろ。弾幕を張れ。撃ち漏らすな。力の差を見せつけてやれ」
蒸気を吹き上げる戦艦の大型主砲に仁王立ちした少女は静かに片手を上げた。戦艦は忠実な猟犬のようにその時を待つ。
「クリームソーダはあたしのもの。決して渡せないな」
紺色に白いラインが入ったプリーツスカートが風になびく。開いた襟元に緩めた紅色のリボンタイが風に揺れる。鈴鹿はそんな海風を叩き切るように掲げ上げた腕を振り下ろした。
「砲撃、開始っ!」
戦艦が雄叫びを上げ、炎を噴いた。
巨大な船体が傾くほどの砲撃が海面に波を巻き起こし、一斉射撃の雷のような砲撃音がその波を弾き飛ばす。爆発した炎が周囲の海を一瞬でオレンジ色に染め、すぐに黒煙が震える海を覆い隠す。そして撃ち出された光弾がその衝撃波で黒煙を掻き消し、はるか水平線に群れなすフナムシ群へと音の速度を越えて飛びかかって行く。
はるか遠くで巨大フナムシの身体が弾け、真っ青な海に真っ白い水柱が何本もそそり立つ。やや遅れて爆発音が聞こえてくるが、すぐに次の砲撃音がそれに覆いかぶさり掻き消してしまう。
「まだまだっ! 撃って撃って撃ちまくれ!」
主砲が放った白く光る砲弾が巨大フナムシを貫き、副砲の小さめの光弾はそれを追うようにフナムシに突き刺さり巨体をなぎ倒していく。機銃は光る弾丸で空気を切り裂くような射線を描き出した。
と、フナムシ群の後方で海が爆発した。とてつもなく大きな水柱が立ち、黒々とした巨大過ぎる塊が盛り上がっていく。
「ついに現れたね。この群れのボスが」
砲撃の轟音に耳を塞いでいた鈴鹿が主砲から舞い降りて甲板の先端へと走る。
海から現れたそいつはフナムシよりも攻撃的に刺々しく、鎧を纏った一個の兵器のように暴力的なシルエットを持ち、無慈悲で鋭い眼光をたたえたあまりに狂暴で凶悪な面構えをしていた。ダイオウグソクムシだ。
「あっはは、とんでもないのが潜んでたねー」
鈴鹿は声を上げて笑った。まさかダイオウグソクムシとは。まさにこれ以上の敵はいない。相手にとって不足はない。
「戦艦すずかの本当の姿を見せる時が来たようだね」
鈴鹿はクリームソーダを一口啜った。メロンソーダに溶け込んだソフトクリームの甘さの他に、心の芯の部分に一撃強いキックを入れてくれるさらなる刺激が隠れている。この味はなんなんだろう。鈴鹿にはそれが何かわからないが、それでも全身全霊をかけて守るに値するクリームソーダだ。
「バトルシップからトランスフォーム。ヒトガタへ変形だ」
鈴鹿の号令に戦艦が小刻みに震え出した。
「戦艦すずかの第二形態を見せてあげる」
ダイオウグソクムシは海を砕き割るように泳いできている。その息吹きが聞こえそうなほど迫っている。
そして戦艦すずかは海からさらにせり上がり、艦首を空へ突き上げるようにして立ち上がった。
「鈴鹿」
誰かが鈴鹿の名を呼んだ。ええい、うるさい。ダイオウグソクムシへの照準はよろしいか。鈴鹿は声に振り返らない。
「鈴鹿、さっきから何をぶつぶつ言ってるんだ?」
夏の夕立が巻き起こした風が揺らす風鈴の音色のような凛とした声が、暴走を始めていた鈴鹿の妄想をざっくりと打ち消した。不意に現実に引き戻された鈴鹿はクリームソーダのカップを握りしめたまま、ようやく後ろを振り返った。
「いやん、
曇りなく磨かれたローファーから黒のニーハイソックスがすらりと伸び、白い脚が折り目がきっちりと入った紺色のプリーツスカートに消えていく。薄い藍色のブラウスシャツの胸元には校章が誇らしげに張り付いていて、きちんと結ばれた紅色のリボンタイが細い首を飾り、大人びた日本人形のような切れ長の目が鈴鹿を見下ろしていた。
「撃って撃って撃ちまくれってとこかな」
鈴鹿より一つ学年が上の古川古都子は鈴鹿のスーパーカブに手を添えて鈴鹿越しに海を眺めた。島々はおとなしく海に浮かんでいる。穏やかな海面にダイオウグソクムシの姿もない。数羽のウミネコが円を描くように舞っているだけだ。
「マジですかー? あ、丹下屋のクリームソーダ、飲みます?」
「丹下屋の? もらう」
鈴鹿からプラカップを受け取り、古都子はまずストローでソフトクリームをひとすくいして口に含み、その甘さが溶けてなくなってしまう前にそっとストローをメロンソーダに沈めて音も立てずに一口飲み込んだ。
「美味しい。さすが丹下屋。ありがとう」
「古都子先輩、丹下屋のクリームソーダの底に、何かがつんと妄想を刺激してくれるのありません?」
「ああ。それはショウガの絞り汁だ。ジンジャーエールみたいな隠し味だな」
「ジンジャーかー。丹下屋の裏に小さい神社ありますもんね」
古都子はくねる鈴鹿をさらりと無視した。
「で、古都子先輩、何でこんなとこに?」
「バスから鈴鹿のカブを見つけたから」
防波堤から坂を少し登ったところにバス停がある。わざわざバスを途中下車して声をかけてくれたのか。鈴鹿は思わず胸の前で手を組んでくねってみせた。
「もう、古都子先輩ってば、ウルトララブリーですー」
「意味わかんない」
古都子はカップを鈴鹿に返し、くるりと踵を返す。後頭部で結んだ長い髪が馬の尻尾のように揺れる。
「相変わらずこんな塩漬けの魚が腐ったような臭いの中、よく甘ったるいの飲んでられるな」
「それががいいんですよ。一緒に海を眺めませんか?」
「すぐに次のバスが来る。さよなら」
「あーん、待ってください。あたしも帰るー」
「鈴鹿はカブだろ」
「バスと並走するー。チャットしましょ」
鈴鹿はスーパーカブのハンドルにセットしたスマートフォンを指でなぞった。即座に古都子の手提げ鞄からちりんと鈴の音が響く。
「危ないだろ。真っ直ぐ黙って真面目に運転しろ」
古都子は鞄の中のスマートフォンを無視して歩き続ける。鈴鹿はそんなきりっとした後ろ姿をくねくねしながら追いかけた。
「いやん。じゃあどっか寄っていきましょーよ」
「いやだ」
すたすたと背筋をピンと伸ばして歩く古都子をスーパーカブを押しながら追いかける鈴鹿。古都子と鈴鹿が去った防波堤には一匹のフナムシが二人を静かに見送っていた。
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