第3話私の役目
「葵様」
「風呂に入ってくる」
付き従おうとするメイド達を手で留め、私は一人長い廊下を歩いた。
名家である神久地の敷地と屋敷はとても広くて、廊下でさえ行き先が遠くてぼんやりとしか見えない。幼い時は迷子になって泣いたこともあったっけ。
赤い夕陽が庭へと面した窓から射し込み、よく磨かれた板が私の影を歪に映し出している。
幾つか曲がった先の奥まった場所にある風呂場へ着くと、後ろ手に戸を閉める。
脱衣所で、貝ノ口結びの帯を解いて床に落とし、着物の合わせを緩めた格好でズルズルと壁に背を預けて座った。
「はあ、疲れた」
袖口に手を入れて小さな赤い宝石を取り出す。それを蝋燭の灯りに透かして見ると美しく輝く。
父から渡された希少な物だが、今は既に効力を失った只の石だ。
これは『魔』を呼び出す召喚石。特殊な言霊の術と媒体となる召喚石と術者の能力次第が合わさって初めて『魔』を呼び出すことができる。
『魔』は、術者の力が強いほど、比例した強さの者が呼び出される。
「ふふ、気に入った」
朱明は、美しい容姿の魔だ。あの気概もいい。
あの誇り高い彼は、屈辱に憎しみを募らせれば募らすほどに私のことが頭から離れないに違いない。
好意とは真逆の気持ちだろうが、忘れたくても忘れられないほどには私に関心を向けている。
そのことに、歪んだ悦びを感じていた。
用済みの赤い石を、藤の籠に脱いだ着物と共に放り込む。
胸のさらしを慣れた手つきでパラパラと解けば、ささやかではあるが丸い膨らみが現れる。
カラカラと戸を引くと、風呂場からの暖かい湯気が私を包む。湯気に白く染まる風呂場は広く、十人は一度に入れそうだ。
低い椅子に腰掛けると、肩につかない短い黒髪を丁寧に洗う。長く伸ばしてみたいと思うが、ずっと短く切っている。
母は身体が弱く、私を産んだのと引き換えに死んだ。直後、父は私を男として育てることに決めたそうだ。なぜなら神久地家の血は母にこそ流れており、婿である父が今後妾に男子を産ませたとしても、血を受け継いでいないその子は跡を継げない。
母の兄であった神久地家の前当主は、私が生まれる少し前に子のないままに死んでいたし、男尊女卑の風潮のあるこの国で女子が当主となることはありえなかった。
私を男として偽らねば、朝廷に『言霊の力』を持ってして仕える神久地家は断絶まではいかないものの、その地位を失いかねない。
だからこれは仕方のないこと。
淡緑の石鹸を泡立て体を洗う。指にはふわりと弾む胸の感触が確かにあって、私は湯を流すと前にある鏡を見つめて長く息を吐いた。
どんなにさらしや着物で身を包もうが、布を取り払えば女の体がそこにはあった。
背は女としては標準。メイドの話では、私は目鼻立ちは整っているらしく凛として涼やかな美少年だと言われているが、お世辞付きなので過分に表現されているとは思う。
今年18になるが、女が男の格好をすると少々幼く見えて少年のように見えるのは分かっている。
細く括れた腰。丸い膨らみ。まろやかな曲線を描く体の線。鏡の中に映るのが例え紛れもなく女であっても、男として生きるのは悪くはない。
女であるだけで見下されることはないし、地位ある職にも就ける。神久地家の次期当主だからと、お上にも名誉ある面通しが許されたのだ。
湯に浸かり、浴槽の縁に交差して置いた両腕の上に顔を乗っける。
あの屈辱を堪える『魔』の顔を思い出すと、顔が綻ぶ。こんなにワクワクした楽しい気分は久し振りだ。
そういえば、朱明は私が男か聞いてきたな。
男だと答えたら、なかなか可愛らしい反応を見せていたが、本当は女だと知ったらどんな表情で、どんな言葉を向けるのだろう。
自分を屈服させているのが女だと知ったら、今度こそ憤死するかもしれない。
「葵様、ご機嫌でいらっしゃるのですね」
「ああ、鈴代か」
乳母兼メイド長の鈴代が戸の外から声を掛けてきて、私は無意識に鼻歌を歌っていたことに気付いた。
「着替えを御持ちしました」
「うん、もう出るよ」
裸を隠しもせずに湯から上がると、待ち構えていた鈴代が拭き物を差し出す。
「ありがとう」
水気を取ると、後ろから白に青竹の小紋の着物を羽織らされる。
帯を締め、髪に櫛を入れる鈴代が「もったいない」と呟く。
「一度でも良いですから、女性の御召し物を着られたらいいですのに」
「そうだね、いつか…………」
この会話も何度したか。
鈴代は自分の子を早くに亡くしたが、まだ乳を出せた為に生まれたての私の乳母として召し抱えられた。私が女だと知るのは、彼女と父と、既に亡くなった産婆だけだ。
「こんなにお美しいのに」
「鈴代」
儘ならないことだ。いくら親子のような間柄でも、しつこく言われるのは好きではない。嗜めれば、口を閉ざした。
実は、神久地家の力は人間にも通用するというが、私は『魔』にしか試したことがなく真偽は分からない。
私の立場上、大抵力を使う前には人間は従ってくれるので試す機会もないのだ。
「葵様……………」
40に差し掛かる鈴代とは長年の付き合いだ。出過ぎることはあっても、私を心より案じてくれている。その彼女の不安げな声音を感じ取って、私は櫛を置いた。
「旦那様が、夕食時に顔を出すようにとのことです」
「分かった」
湯上がりの身体が、急に冷えていく。
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