湖陽記

坂口いさ子

湖陽記序

 羅貫中らかんちゅうは『水滸伝』を著して、そのために子孫三代にわたっておしの児が生まれ、紫式部は『源氏物語』を著して、一度は地獄にまでおちたが、それはおもうに彼等が架空の物語や狂言綺語きょうげんきごを書いて世の人々を惑わせた悪業のために、そのむくいを身にうけたというべきであろう。

 しかししながら今此れより始めるは、きじが祭礼の庭で鳴いたり竜が野で戦ったりするような奇怪千万で、ありもしない怪奇談であるから、世間の人をまどわす罪もなく、子孫に口唇裂けや平たい鼻などの変わりものが生まれるというごうのむくいをうけるはずが、どうしてあろうか。

 大正十五年七月、湖の水は微陽うすびの射した空の下で編みつくり、此処ここに渡す。題して「湖陽記こようき」ということにした。

 京極輝元きょうごくてるもと記す。





 時は、大正末期。山の端が暗く濁りだす、夕刻。腰に大脇差を差し、街道を闊歩する男がひとり。名を、八汐やしお

 さらりと黒い長髪を結い紐でひとつに結び、風になびかせる。襟の合わせ目から覗く、パリッとした白いシャツが眩しい。濃紺の袴は歩くたびに品よく揺れた。匂い立つ好青年の中性的な艶めかしさに、周りの女たちの視線は釘付けだった。

 さて、ここまで、彼の麗しの出で立ちを綴ったワケであるが、いただけないことがひとつ。この男、底なしの間抜けであった。言うなれば、オバカチャンである。こんな往来で、この目立つ出で立ちに、腰には刀。敷かれているのは、大礼服並軍人警察官吏等制服着用外帯刀禁止の件、便宜上、廃刀令。警官に見つかって、ないし通報されて、追い回されるのは時間の問題というワケ。

 そんなことも分かってか分らずか、八汐は手元の薄汚い地図らしきものを握りしめて、ウンウン唸っておった。どうやら迷子らしい。

そうして、通りかかった警官に捕まっちまったのだった。


「きみ、腰に差してるソレは刀かな?」


「ア、お兄さん!道に迷うとるんじゃけど、この見世知らん?」


 八汐は、警官の質問を完全に無視して話を進めだした。警官は、話の通じない自分本位な様子のこの男に、少しばかり苛立つ。さらに、周りの人々は、呆れたように彼を見ている。

 実は大正末期にもなってくると、帯刀という行為が前時代的なイケてないものとして見られていたらしい。大正どころか、明治期の時点ですでにイケていなかった。かの有名な福沢諭吉ふくざわゆきちだって、『文明論之概略ぶんめいろんのがいりゃく』で痛烈に帯刀をこき下ろしている。

 そんなワケで、いくら見目が麗しい八汐であっても、刀を腰に引っ提げて警官にごねるような姿を見せれば、肌寒い視線を頂戴するのである。


「きみねえ、話聞いてた?刀は駄目だよ。刀は」


「聞いとります聞いとります」


「じゃあ、同行願おうかな」


「待ってえや、日暮れる前にここ行かんといけんのンですよ」


 なおも、食い下がり、ごねる八汐への周囲の視線はさらに冷めるばかり。流石の八汐もちょっぴり居心地悪く、どうしたもんか、とウンウン長考しだした時だった。

 眼の端に金糸がちらつく。左の袖をがっしりしっかり捕まれ、引っ張られた。


「走れ!」


 八汐の左袖を引くは、華宵かえい好みの花柄の浴衣を、軽く引っかけた少女だ。





 少女は八汐の袖を力強く握りしめたまま、全力で疾走しだした。


「いけんいけん、そげに駆けったら脚が見えるじゃろう」


「見えたって、どうってことねえよ」


 何やら荒々しい口調の少女である。混血あいのこのように、薄い色素にほっそりした四肢。白瑪瑙しろめのうのように、艶やかで青白い頬には、薔薇の花弁のような朱が差している。けだるげな目元は、どんよりと眠っているようだったが、著しく魅力のある大きな瞳。まるで、西洋人形のような容姿。にも拘らず、言葉遣いには品のかけらも存在しなかった。


「いやア、助かったわ!ありがとうなア」


「アンタ、刀差してうろつくとか正気かよ」


「意地悪言わんでやあ」


 中々に辛口な少女に、八汐はぐうっと涙をこらえた。そうしてケロリと笑ったかと思うと「かわゆい娘に助けてもろうて、運がええナア」等と、軽口を叩く。彼女が握りしめている空っぽの左袖をやんわり解くと、その白い指に自分の指を絡めた。


「自分、なんて言うん?」


陽太ようた


 ヨウタ、この女はそう言った。へえ、都会じゃったらオンナノコにも、でれえかっこええ名前付けるんじゃナア。これが、ハイカラなんかあ。などと、間抜けたことを考える。

 陽太は言葉を続けた。


「おれ、男だぜ」


「またまたあ、ヨウちゃんは冗談が上手じゃナア」


 八汐は陽太の言葉を適当に聞き流し、「今日、夜暇じゃったりする?」などと耳元でニンマリ笑う。ほっそりした指を撫でたり絡めたり、何だかいただけねえ雰囲気だ。

 こいつは何言っても聞きゃしねえな、と考えた陽太は、握りしめられた手を解き、手首を鷲掴む。そうして、八汐の手を股座に思いきり押し当てた。


「…男じゃ」





 さて、八汐が探していた店というのは、カフェー・パリスという。

 明治末期、昼に珈琲を提供し、夜には女給が接客しながら酒類を出す形態の店があった。これがカフェーであり特殊喫茶である。カンタンに言っちまうならば、所謂、風俗営業店。

 特に有名なのが、関東大震災の翌年に店を構えた、カフェー・タイガー。このカフェー、「美しい女給と濃厚なサービス」を売りにしていたらしい。また、女給仕を色別に分け、ビア一本につき一枚の投票券で人気投票を行っておった。トンデモナイ商売魂である。

 昭和に芥川あくたがわ賞を設立する、かの有名な菊池寛きくちかんがビアを百五十購入して、気に入りの女給を一位にしたという逸話が残るなど、かなり盛り上がっていたようだ。

 余談ではあるが、以上のカフェーと区別するために、純粋な喫茶店を「純喫茶」と呼ぶこととなる。

 とかなんとか、モゾモゾ言っているうちに、八汐は陽太に手を引かれ、カフェー・パリスに辿り着いた。地図が分からずウンウン悩む八汐に痺れを切らして、陽太が地図を引っ手繰れば「ウチじゃあねえか!」と仰天し、あれよあれよと店に引っ張り込まれたのだった。

 八汐は煩すぎる店内へ引きずり込まれた。爽やかさが微塵もない、どんよりとした橙色の扉硝子は背後で夜の景色に溶けていた。もう日が沈んでしもうたな、などと場違いなコトをぼけらと考える。

 天井や壁は、扉と同じ意匠の重厚なシャンデリアで飾り立てられている。ムンと噎せ返るような、隠微な艶めかしさを感じる空気。店奥には、やはり艶めかしさがゆらめくカウンターが構えられていた。


「酒飲むか?」


「ええわ」


「じゃあ裏行こうぜ」


「イヤお暇するわ」


 八汐は怖気づく。ハイカラで何やら怪しい雰囲気じゃ、と。

 この男、都会というものに不慣れだった。生まれは吉備津きびつの神社であるから周囲は山林であったし、育ちは出雲いずもで浜や湖を駆けって育った。


「奥のドレッサールームに輝元いるからさ」


「どれっさーるーむ」


「衣装部屋な、衣装部屋」


 なおも、ぴるぴる震えながら首をふる八汐。


「取って喰いやしねえって」


 陽太は、強引に八汐の袖を引っ張った。この田舎モンは何やら意外と強情らしい。今にも扉に手をかけて、出ていきそうな雰囲気じゃあねえか、なんて陽太が大きくため息を付いた時。安物の香水の匂いが近づく。

 陽太に掴まれている腕とは逆の手に、ビアタンブラーを握らされた。振り向くと、真っ赤な爪の白い指が、アルコールの匂いを注ぎ込む。液体は爽やかさのない、どろりとした琥珀色だった。

 女はしなをつくる。細い指で八汐の鎖骨から胸元をツウっと撫で上げた。


「いいオトコ」


 真っ赤な唇が弧を描いた。そうして、黒々とした豊かな睫毛に隠れる瞳が八汐を見た。


「ヨウちゃんの、お客さま?」


 陽太はチイっと大きく舌を打つと、女の手首を掴んで引き剥がす。八汐はカチコチに固まって、使い物になりそうにない。


「あたしのお客さまよ」


「いいナ」


 陽太は八汐の手からビアタンブラーを取り上げると、傍らのテーブルに座る客に突き付けた。そして、八汐に腕を絡めるとそのまま奥へ、廊下を進んでいく。

 通り過ぎる部屋には紫煙が立ち込め、重たい。テーブルの上の果物、ビア、チョコレイト。上機嫌な男達。それにべったりとしなだれ掛かり、酌をする女。

 陽太の真横には、同様に、べったりとしなだれ掛かる八汐がいた。


「ヨウちゃん、喰わん、言うたじゃん」


「…おまえがモタモタしてっからだろ」


 グズグズと鼻をすすり、じっとりとした斜め後ろからの八汐の視線。

 サッサと輝元に引き渡してずらかろう、トンデモナく面倒で世話の焼ける男を店に招き入れたモンだ、と、陽太は思った。





 衣装部屋の扉が、乾いた音を立てて閉まった。室内は薄暗く、鏡の縁をなぞる様に飾られた沢山の電球が、化粧台を仄かに明るく照らしている。

 ところで、と、八汐は口を開いた。


「輝元って誰なん?」


「遅えなおまえ、反応が」

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