ペトリコールに浸る

南沢甲

ペトリコール

【起】


 僕の放課後はなんとも味気ない。

 窮屈な生物準備室には、お決まりの人体模型や黄色い液体に浸かったなにかのミイラなんかが所狭しと置かれている。そして、なんとか空けたのであろう戸棚の隣の空間に居心地悪そうな亀がいた。

「おはよう、亀五郎」

 水槽をノックする。

 夕方でも、初めて会ったならおはようなのだ。僕的には。

 亀五郎はつぶらな瞳を僕に向け、やがて重たい動作で顔を引っ込めた。つれない奴。

 戸棚に頭を打たないようそっと身を起こし、部屋の一角に鎮座しているおんぼろソファーに腰かける。おろした鞄から本を取り出す。ページを繰ると、風にさらわれて挟んでいた栞が落ちた。僕はそれを屈んで拾い、初めのページに挟み直す。

 こんな時期に窓を開けておくとは、なんと迷惑なと思ったが、じっとりしたこの空気を入れ換えたい気持ちも分からんでもない。今日の降水確率は確か……六十%だったか。

 なんとなく壁掛け時計へ視線を移すと、針は四時半前を指していた。

 僕は急いでテキトウなページを開き、文字の羅列に目を滑らせる。耳をすますと、床を擦れる上履きの音が近づいてくる。毎日来るなんて酔狂な奴だなあ。

 僕がしばらくじっと固まっている間に、引き戸は耳障りな音と共にあっさり開かれた。

 待ち人は顔を覗かせると、

「こ……こんにちは」

 小さく呟いて、ぱちりと瞳が瞬いた。

 所在なさげにぐるぐる動く目の玉を視界の端におさめて、本を閉じる。

「おはよう、安達さん」

 彼女は、かあと頬を赤らめて、

「お、おはようございます。渡瀬さん」

 そして、許可が降りたかのように戸をもう少しだけ開けて、隙間からするりと入ってきた。

 僕たちはこうして、自分の立ち位置を再確認するのだ。というか、僕がさせているんだけど。


 【承】


 そもそもなぜ僕が生物準備室なんていいとこなしの部屋に足を運んでいるのか、と聞かれるとちょっと困る。

 美化委員が持ち回りで亀五郎の世話をするという上っ面の役割は僕と彼女以外の人間が出入りしている姿を見たことがないためまあ置いといて、僕には毎日の密かな楽しみがあった。その楽しみのためにぼろいソファーを我慢しているわけだが、あまり趣味がいいとは言えないだろうことなのでとりあえず秘密としておく。勘のいい人ならすぐ分かる。勘のよくない人には……そうだな、「おはよう」とでも言っておこうか。

 なんてことをつらつら考えていると、いつの間にか彼女は日の差さない戸の近くで屈んでいた。

 大小様々な水槽が並ぶなか、一目で手入れされているとわかるそれこそ、彼女が毎日ここに来る理由のひとつだ。

「昔飼いたかったんです、ウーパールーパー」

 ガラスの表面をそろりと撫でた。中では一匹のウーパールーパーが乳白色の体をくねらせて泳いでいる。こいつは妙に彼女のことを気に入っており、彼女が水槽ガラスにてのひらを滑らせると決まってそのあとを付いて回るのだ。しかし僕だと見向きもしない。全く腹立たしい。どうやら動物に好かれる才能はないらしい。

「珍しいね」

 ウーパールーパーが流行ったのは、僕らの親世代じゃなかったか。

「父が水族館に連れていってくれて、一度だけ見たんです。あまり父との思い出はないんですけど、そのとき『ウーパールーパーを飼いたい』ってワガママ言ってしまって。父が珍しく困り顔ですぐに諦めちゃいました」

「だから、今お世話?」

「ってわけじゃないです。これはその、たまたまで。私、美化委員になるまでウーパールーパーも飼ってるなんて知りませんでしたし」

 そりゃそうだ。このウーパールーパーは先生が勝手に持ち込んだ私物で、本来世話する必要などない。おそらく彼女はウーパールーパーの水槽や餌の状態から勘違いしているのだろう。多分彼女が美化委員になるまでどう生活していたかなんて頭にないのだ。

 彼女の隣まで移動して水槽を眺めていると、ふいに彼女の頭が上がった。

「わ、なに?」

「あの」

 普通にしていれば意思の強そうなきりっとした目や眉が情けない表情を作っている。僕は目を伏せた。

「私、渡瀬さんに……」

 薄目で見てみると、唇が声にならない動きをしていた。ちょっとばかりもごもごして、やっぱりなんでも、と口を閉ざす。これは今日に限ったことではなく、彼女はたまに思い出したように言いかけることがあった。渡瀬さんに、の続きはいつも空に溶けてしまう。追及しないのは決して優しさなどではないのだが、彼女がこちらの無言に安堵しているのもまた事実。

やだなあ。ウーパールーパーなんて持ち出しておいて、何も言わないその神経は誰のものなんだか。

「安達さん」

 僕は窓の外を見て、荷物を片付け始めた。いつもより随分早い帰り支度に、彼女は疑問を覚えたらしい。

「あの、もう帰るんですか」

 僕は外を指差した。

「雨。もう降るなんてなかなか気が早いよね」

 大雨ではないにしろ、ある程度見えるような雨粒が窓を濡らしていた。どんよりした空に雨っぽい空気。そういえば窓を開けたままだった。備品に当たらないようぐっと背を伸ばし、窓を閉める。

 そのまま、彼女に背を向けたまま、

「一緒に帰ろうか」

 と誘うと、後ろからがたりと音がした。何かしらの備品に当たったんだろう。

「え、えーと」

 わたわたと焦る彼女の姿が目に浮かぶ。

 僕はくすりと笑い、後ろを振り返った。

「今日も持ち越しでいいの?」

 彼女は目を見開いた。

「……よくないです」

「うん。じゃあ帰ろう」

 強引だとしてもここら辺が潮時とは考えていた。今日は都合がいい。雨降ってなんちゃらとも言うしね。


 【転】


 彼女が傘を忘れたため、相合い傘で帰ることになった。

 彼女の家は学校から真っ直ぐ一本道を進んだ先にある。閑静な住宅街に沿って人がまばらに通り過ぎていく。そんな中、肩を並べて歩く僕たちの足取りはぎくしゃくしていて、贔屓目に見ても恋人たちには見えないと思う。

「肩濡れてない? もっと傘ん中入って」

 彼女の左肩は雨でしっとり濡れて、シャツの下から肌色が透けている。いくらこの時期といっても風邪を引かないとも限らない。傘を傾けると、彼女は傘を押し返した。

「大丈夫です。私の家、ここから近いので。渡瀬さんこそ自分の傘なんですから、しっかり入って――ひゃあ!」

 お言葉に甘えて身を寄せると、ものすごい勢いでのけ反られた。

「うん?」

 彼女はそっぽを向いて、「びっくりしました」と言った。耳まで赤いのは言わないお約束だろうか。

 まあいいや。

 あまりにもすぐ本題に入るのもなんだし、と僕は口を開く。

「ペトリコールって知ってる?」

「ペトリコール?」

「雨が降ったあとの空気って土の独特な匂いがするでしょ。あれをペトリコールというらしいよ」

「名前ついてたんですか……。私、あの匂い結構好きです」

「奇遇だね。僕も」

 にこりと顔を見合わせる。それから彼女は、あっと言った。

「そういえば、うーちゃんも雨好きなんですよ。雨の日はいつもよりわくわくした顔してるんです」

 うーちゃんとは準備室のウーパールーパーのことだ。彼女が名前がないのは可哀想だというもんで、かっこ仮、とりあえずのうーちゃんが定着してしまった。安直だと思わんでもないが、うーちゃんは気に入っているらしい(彼女談)。

 僕はうーちゃんのわくわくした顔を想像してみた。

「……いや、どんな顔」

「目がきらきらします。あと、動きがちょっとだけ速くなります」

「なにそれ怖い」

「えー、かわいいですよ。雨好き仲間同士、仲良くしてくださいね」

「どうしようかなあ」

 あのウーパールーパーは僕を嫌っているようだけど。亀五郎とうーちゃんの非情な顔を思い出し、若干しょげる僕。

 彼女は僕の顔を見て、くすくすと笑った。

 

それからしばらく無言で歩き続けたが、また彼女の口がもごもご動き出したのに気づき、慌てて口を開く。

「安達さん。君を初めて見たときすごく驚いたんだよね」

「え……それって」

 彼女がスクールバッグの持ち手をぎゅっと握った。

「『うわ、美人な子が来た!』ってね」

 手が緩まった。

「……美人じゃないですよ、私なんて」

「どこがあ。僕は特に目が好きだな。凛としてて綺麗で。僕は一重だから羨ましい」

 彼女は足下を見つめた。

「私は一番、目が嫌いです」

「なんで」

「…………ち、父に。父に似ているので」

 彼女が父親のことをよく思っていないのは言葉の端々からも明らかで、僕はいささか苛立ちを感じた。本当に身勝手な理由だけど。

「渡瀬さんはどちらに似てるんですか」

 彼女はこちらを試すような言葉をぽんと投げ掛けてきた。じっと見つめるその瞳がどうも気にくわない。僕を見透かしているようで視界に入れてすらない瞳だ。僕はこの目をよく知っている。

「どちらって?」

「ご両親の、どちらに」

 そんなもの今さら。

「……父親、かな。母は二重だからね」

 え、という顔をした。期待していた答えと違ったからだろう。

僕は父と母の顔を思い浮かべた。目力のある父の瞳。母のぱっちりした二重。僕は母の二重が人工物だと知っている。僕の目元と鼻筋が母にそっくりだからだ。

さすがにちょっと無理があったかもしれない。

「安達さん、大丈夫?」

 いつの間にか彼女の目の縁が湿っていて、僕は思わず手を伸ばした。不憫な子だな、と思うと同時にこの感情が煩わしいとも思った。瞳に薄い膜を張り、必死にまばたきする仕草がうっとうしい。僕はこのとき確かにまばたきと共に隠れていく熱を見た。僕が渇望したもの全て持っているくせに、なんて気持ちが喉の奥を引き返していく。

 彼女は弱い手で僕の手をどかし、うつむいた。

「わ、私は……渡瀬さんは母親似だと思うんです」

 傘を持つ手が震える。

「知ってるかも、しれないんですけど。その……私は渡瀬さんの――」

「安達さん」 

 彼女は言葉を引っ込めて、その表情を曇らせた。僕たちは気づかないうちに立ち止まっていたらしい。小雨が揺れるたびに彼女の髪がなびき、水滴を含む。つるりとした頬に数滴、雫の筋が伸びている。

「憶測で物を言うのはよくないな。確かに男は母親に似ると言うけど、所詮確率だし。それに仮に僕が母似だとして、君には何の関係もないだろう」

「それは……それは、」

「『おはよう』と一緒だよ。似てるか似てないかなんて主観でしかない。定義なんて人による。君は極めて常識人だから世の中とか誰かに言われたことを物差しとしているんだろうけど、僕はあんまり好きじゃない。君はもっと利己的に、主観的になったっていいんだ」

 彼女は動かない。僕の無責任な言葉をどう受け取っているのかは分からない。ただ、僕は必死に言いつのった。

「ねえ安達さん。ただ(・・)の(・)後輩(・・)の君に、伝えたいことがあるんだ」

 手を取って傘の柄を握らせる。僕は一足で傘を抜け出し、彼女と対面した。

「僕は君のことが――」


【???】


 僕がまだうんと背の低い頃(といっても今だって高くはないが)、両親と水族館に行ったことがある。僕はイルカのショーが見たかったけど、ショーの時間はとうに過ぎていて、僕は不貞腐れていた。

 母はそんな僕を見て、

「せっかく連れてきてあげたのに、仕様のない子」

 と僕の手を乱暴に引っ張った。

 熱帯生物のエリアに入ると、母は吸い寄せられるように端で照明を受けている水槽の前へ向かった。

「おかあさん、これなあに?」

 母は珍しく口角を上げてこう答えた。

「ウーパールーパー。雄大さんとの思い出の動物なの。ね、あなた」

 僕の後ろで携帯をいじっていた父は、顔を挙げてうっすら微笑んだ。今思うとこのときの父の笑顔はひどく冷たいもので、鋭い瞳がどこか虚空をさまよっていたのだが、幼い僕にそんなこと気づけというのも酷な話で。

 僕は母が嬉しそうなことにつられてワクワクしながら、母のシャツの端を引っ張った。

「おもいで教えてー」

「雄大さんはね、ウーパールーパーの水槽の前で告白してきたの。あのときはなんてつまらない人と思ったけど、今ではいい思い出よ」

「へー」

 僕はその日、しきりにウーパールーパーを飼ってほしいとお願いしたものの、父の「必要ないだろう」の一言と鋭くキツい瞳に睨まれて、僕はとうとう諦めざるを得なかった。そしてただ、ウーパールーパーに対する苦い思いと父の瞳だけが今も僕の脳裏に焼き付いて離れない。

 

【結】


 どれだけ非人間的な行動をしても、人類皆平等に朝は来る。準備室に向かいながら僕は昨日のことを思い出していた。

 あのあと、真っ青になったり真っ赤になったりと忙しい彼女に無理くり承諾を得て、「さあ今日こそどうぞ」と勧めたものの、彼女は「もういいんです」なんてかぶりを振った。 悪いことしちゃったかなあとは思うものの、人間誰だってエゴで動くことは少なくないんだから、ちょっと道端の石に足をとられたからといって怒らないでほしい。というか、これ半分くらいは僕の責任ではないし。こんな小石を後生大事に持って帰ろうとするなんて、やっぱり酔狂な奴だよ。

 長い廊下の行き止まりにかろうじて読める生物準備室のプレート。僕はそっと戸を開いた。

「おは――」

 慌てて口を閉じる。そこにはソファーの腕置きにもたれ掛かる彼女の姿があった。鼓動に合わせて小さく上下する体。肩からこぼれ落ちた一房の髪。力の抜けた人体は埃くさい部屋に調和していた。

 僕は静かに彼女の手前でしゃがみ、しばらく睫毛の震えるさまを観察して、何の気なしに頭を撫でた。

 依然として彼女は起きない。

「血は水よりも濃い……だっけ」

 ふと、あの古びた小説のワンフレーズを呟いてみる。

 手元の頭がぴくりと揺れた気がした。

 でも、構わなかった。僕たちの間に因果なんてものは存在しない。僕は運命なんて信じちゃいないのだから。そして僕はどうしようもなくクズだった。この親にしてこの子あり。そんな人間なのだった。

「起きて、帆待(ほまち)」

 ゆったりと睫毛が持ち上がる。大きな瞳、人によっては鋭くキツいとも思われそうなその瞳に僕が映る。

「おはよう」

 帆待は何度かまばたきして、少しはにかんで笑った。

「おはよう……旱(ひでり)さん」

僕は帆待から視線をそらす。

 水槽の中で、今日もウーパールーパーが泳いでいる。今はまだ小さなこいつも、あと数年したらかわいらしい容姿をそっくりかえてしまうだろう。それでも僕は、まだ目をそらせる間はそらしていたい。

「あの、隣座りま……座る?」

 帆待がソファーの角に移動する。僕は一人分空けて座った。ソファーがギチリと軋む。

「ごめんね」

 帆待は不思議そうな顔をした。

「どうして。全然構わないのに」

 僕は帆待の頭の奥を見上げた。少し開いた窓から土の独特な匂いと湿った空気を風が運んでくる。また一雨来そうだ。

「旱さん、この匂いってペトリコール?」

「さあ……どうだろうね」

「もう。曖昧な返事しないでよ、いじわる」

 僕の耳を引っ張る帆待は、憑き物が取れたようにすっきりした面持ちだ。昨日の屁理屈に感化されたのか、なんなのか。

 そもそもこんな時期にペトリコールもクソもない。降っては止んで降っては止んで、空気が雨やら細菌やらを常に含んだ状態でペトリコールかどうかなんて、僕たちに判断するには難しすぎる。

「気まぐれな天気に振り回されて、僕たちって大変だよね」

「? まあ梅雨ですし。明ければなんてことないんじゃない」

 帆待が無垢な様子で首を傾げる。僕はそうだねと笑った。

「梅雨が終わったら、遊びに行こうか」

「うん。すごく楽しみ」

 帆待のきりっとした目には、やはり隠せないほどの熱がちらちら浮かんでいる。僕は昨日の濡れた彼女の目尻を思い出した。拭ってやりたいと思うこの感情を窮屈な器に入れ替えて、僕はこれからも帆待と関わるのだろう。それが僕のささやかな復讐だ。

 でも、人の感情なんて自分勝手にラベルを貼ってもいいんじゃないか。利己的に、主観的に。例えば、優しくしたいって感情の行き着くものとか。それなら僕の支配権が及ぶ限りではこの感情を――――。

 僕はこの感情を恋と呼びたい。

                       (完)

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ペトリコールに浸る 南沢甲 @Gackt1030

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