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矢野 碧

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「ただいま」


 返事はない。誰もいない真っ暗な部屋に、僕の声だけが寂しく響く。

 いつもなら、眠たそうに目を擦る君が、「おかえり」と玄関まで迎えに来てくれたんだろう。そんな「いつも」だって、とっくのとうに終わりを迎えてしまったのだけれど。


 一人暮らしをするには少し大きすぎるソファに、脱いだばかりの上着と、大学の資料が入った鞄を投げ捨てる。

 感傷に浸ってしまう自分の心すら面倒で、さっさと大学の課題を終わらせてベッドで一眠りしようと思い、デスクトップパソコンの置かれた机に向かうと、机の端。少し膝が触れるだけで落ちてしまいそうな位置に置かれた灰皿が目に入る。


「一服してからで、いいか」


 脱ぎ捨てた上着のポケットから随分と軽くなった煙草の箱を取り出す。

 彼女と別れてから吸い始めた煙草の箱を開けてみれば、残りはもう二本だけだった。


 ベランダの引き戸を開ければ、かさついた冬の空気に身が縮まった。白い息を吐きながらスリッパを履いて、肺にもたれかかる。

 なんとなく空を見上げてみたけれど、生憎の曇り空で、星なんて一つも見えなかった。

 さっさと吸って部屋に戻ろう、と煙草に火をつける。


「げほ、げほっ」


 未だに肺は慣れてはくれないようで、煙を吸い込むと子供みたいに咳き込んでしまった。

 煙草を持つ手もどこか不格好で、君みたいに格好がつかないなぁ、と心の中で呟く。


 君はいつも、ベランダに出て煙草を吸っていた。まだ幼さの残る顔をした君が紫煙をくゆらせる姿は、どこか艶めかしかった。

 君はいつも、銘柄の違う煙草を吸っていた。随分と細いものを吸っている日もあれば、黒い色のついたものを吸っている日もあった。いつも不満足そうに灰皿に吸い終えた煙草を擦り付ける姿は、どこか寂しげに見えた。

 君はいつも、僕にも煙草を勧めてきた。吸わないと断れば「そう」と短く返すだけだったけれど、いつも吸う前には同じことを問いかけてきた。


 そんな風に君のことを思い出していると、なぜかいつも君との記憶には煙草がついてきたように思う。

 こう言うと、君がろくでもない女に思えてことくる。いや、きっとその通りだったのだろうけれど、僕にとってはたったひとりのひとだった。


 気づけば、煙草はもう随分と短くなっていた。

 幾つもの吸殻の転ぶ灰皿に煙草をぐりぐりと押し付ける。

 君が置いていったこの煙草も、君との思い出を守るように大事に大事に吸っていたこの煙草も、もう、残り一本になってしまった。


 きっと、この煙草みたいに、君との思い出も一本ずつ燃やしていくべきだったんだろう。でも、僕は。


 肌寒いベランダから部屋に戻り、机の上に煙草の箱を置く。

 課題をする気にもなれなくて、久しぶりにコンビニに行こうと思った。

 もう、夜の寂しい道を、君は隣で歩いてはくれないけれど。


 上着を羽織り、玄関の扉を開ける。


「さて、今日はどの銘柄にしようかな」


 僕はまだ、君をなぞることをやめられそうにない。

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1/20 矢野 碧 @tori_leaves

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