はっさい様

えむ

はっさい様



 五年前の夏のことだった。

 

 僕と妹は田舎のおじいちゃんの家に遊びに来ていた。

 夏休みで、お父さんもお母さんも仕事で忙しい時期だったので、僕たちきょうだいふたりだけで、一週間。

 東京駅までお母さんに送ってもらい、新幹線に乗り、名古屋駅でおりたらメモのとおりに乗り換える。

「窓の外がどんどん緑色になっていくね」

 八歳になったばかりの妹がわくわくした声でそう言ったのをおぼえている。

 △△という駅で降りると、おじいちゃんとおばあちゃんがいた。閑散とした無人駅なのですぐわかった。切符を買わないでもホームまで入れるらしい。

「健吾、朱音、よく来た」

「いっぱい遊んでいきなね」

 おじいちゃんとおばあちゃんはよく日焼けしてしわの深い顔をさらにしわくちゃにしていた。

 四人で手を繋いで、夕暮れの土の道を歩いた。

 

 山菜の天ぷらがメインの食事が済むと、タバコをふかしながらおじいちゃんが言った。

「健吾、明日っから朱音を連れて野山を駆け回っておいでな」

 おばあちゃんが冷たい麦茶を僕と朱音の前に置きながら、

「そうねぇ、ここらはあんたたちの街と違って、自然がいっぱいじゃから」

 虫取り、魚釣り、影踏み、かくれんぼ……

 僕と妹が明日からしようと思っている遊びをしりとりのように言葉にしていくと、急におばあちゃんが顔を曇らせて、

「なぁ、朱音。朱音はいくつになった」

「え?」

 遊びのことだけ考えていたから朱音はおばあちゃんの質問が年齢を聞いているのだとすぐにはわからなかったようだ。

 おばあちゃんもなにやら慌てた様子で、ただ朱音の返事を待つだけにしているから、

「歳だよ、歳。朱音は何歳?」

 僕が助け舟を出した。

「八歳」

 朱音が無邪気な声で言った。

 おばあさんはおじいさんを見た。

 僕はぎょっとした。

 ふたりとも、顔から血の気がサーっと引いていたから。

「しもたな……」

「正月ん写真で、ふたりとも大きゅうなったと思って数え間違えてしもうた」

 ふたりともしばらくの間、幽霊同士がばったり出会ったみたいにお互いを見つめていたかと思うと、おばあさんがいきなり朱音の肩をガシッと掴んだ。

「いいか朱音。観音山には近寄っちゃいけん。山道には絶対に入っちゃいけん」

 わかったか、わかったか、と肩を揺さぶりながら繰り返すおばあちゃん。

 おばあちゃんの変貌ぶりに驚いて、朱音は目に涙を浮かべてうん、うん、と、頷いていた。

 おじいちゃんがタバコを灰皿に押し付け乱雑にもみ消した。

「健吾、お前は九歳を越えてるってことだいな」

「……う、うん、十歳だよ」

 おじいちゃんは、じゃあ健吾は大丈夫じゃな、とつぶやいた。

「健吾、ばあさんの言うように、観音山の山道には入っちゃいかん」

「わ、わかった」

「いいな。朱音は、朱音だけは決して近づかせちゃいかん」

「う、うん……」


 その後、僕は朱音と布団を並べて眠った。

 朱音は長旅とさっきの驚きで疲れてすぐに寝てしまったけど、僕はなかなか寝付かれずにいた。天井をじっと見ていたら木目模様が妖怪みたいに見えてきて、ぎゅっと目をつぶった。

 そのうちに寝てしまったようだが、僕が朱音の手を引いて山道に入っていく夢を見た。

 その山道の入り口には、地蔵が立っていた。




 

 翌日。

 妹が行方不明になった。


 魚釣りをしていたら、朱音はつまらなくなったのか河原の石を積み始めた。

 地元の男の子が二人ほど釣竿を背負ってやって来た。すぐに打ち解け、僕らは釣りに興じた。

 やはり男の子のサガとでも言うのか、僕はしばらくの間、釣りに夢中になってしまった。朱音のことはすっかり忘れて。


 朱音がいなくなったことに気づいた僕は必死に妹を探した。

 釣りを一緒に楽しんだ男の子たちも協力してくれた。

 しかし、妹はどこにもいなかった。


 夜には捜索隊が組まれた。

 しかし朱音はどこにも見つからない。

 眠れない夜を過ごしていると、夜更けにお父さんとお母さんがやって来たようだった。そっと居間を覗くと祖父母と父母が向き合っていた。お父さんとお母さんは、髪はくしゃくしゃ、目は真っ赤。取るものもとりあえずやって来たのだろう。

 

「だからこんな村に子供二人きりでよこすのは嫌だったのよ!」

 お母さんが金切り声をあげた。

「すまんねぇ、明子さん……」

 おばあちゃんが本当にすまなさそうに言った。割烹着の袖で涙を拭った。

「何を、嫁風情が偉そうに……」

 おじいちゃんはタバコをフンと勢いよくふかした。お父さんが自分の父親でもあるおじいちゃんをキッと睨んで、

「親父! 朱音がいなくなったんだぞ?! 明子も少し落ち着いて……」

「落ち着いてなんていられないわよ! 観音様だかはっさい様だか知らないけどこんな不吉な言い伝えのある村……」

「それ以上村を冒涜するな! はっさい様としてお山に迎えられるならむしろ光栄なことじゃ」

「なんですって!」

「やめてくれよ親父も明子も! 俺は捜索隊にまじってくる」

「あなた! 逃げないでよ!」

「朱音を探しに行くんだぞ?! お前の方が感情的になることで逃げてるんじゃないのか?!」

「あきれた夫婦じゃ。こんな親のもとで育つのは不憫だと観音様も思ったんじゃろう。じゃから、はっさい様に……」

「お父様、バカみたいな昔話はやめて! 朱音は迷子になっただけよ!」

「すまんのぅ、すまんのぅ……」

 居間は混沌と化していた。

 僕だって心細かったけれど、こんな状況でお父さんとお母さんに泣きつこうとは思わなかった。

 僕はそっとおじいちゃんの家を抜け出した。

 パジャマから普段着に着替えた。靴も、その辺を歩くためのつっかけじゃなく、スニーカーを履いた。

 




 僕の住む街みたいに街灯なんてほとんどない。

 雲の多い空に浮かぶ月の、わずかな明かりを頼りに、僕は田んぼのあぜ道を進んだ。


 河原では、水面にゆらゆらと形のない月が浮かんでいた。

 魚の跳ねる音がした。

 僕が、今日できたばかりの友達と釣りに夢中になっていなければ。

「ごめん、朱音……。必ず、助けるから……」


 急に、バシャバシャと水音が強くなった。

 主に男の村人で結成された捜索隊が、川を探しているらしい。

 僕は土手の草むらに身を隠しながら歩みを進めた。


「朱音ちゃーん」

「おったら返事してくれー」


 そんな声が大きく響く中、急に、

「はっさい様とは何ですか……」

 という疑問系のささやきが僕の耳に、飛び込んできた。


 はっさい様。

 お母さんやおじいちゃんが発した言葉が妙に残っていた。

 僕も誰かに訊きたかった。


「河野さん。みんな、『はっさい様になった』やら『何年振りのはっさい様じゃ』やらと言ってますけど……」

 と、遠慮がちな、若い男の声が続いた。

「そうか、江崎さんはこっちぃ引っ越してきたばかりじゃから知らなくても無理はないのぅ」

 訛りの強い声がぼそぼそとその問いに応えた。

 江崎という村に越してきたばかりの若者が、捜索隊の中でささやかれる『はっさい様』という耳慣れない言葉を、古参の村人である河野というおじさんに尋ねたようだ。

 僕は耳をそばだてた。

「昔、ここらへんは、日照りで川が干上がってしもうて、しょっちゅう飢饉が起きてな。日照り飢饉が何年か続いたとき、観音山の麓にある神社の巫女が、観音様のお声を聞いたっちゅうんじゃ。八つの女の子を川に捧げろってな」

「捧げる?」

「でっかい声じゃ言えねえが、はぇえ話が生贄じゃけ」

 僕は息を飲んだ。多分、江崎という人も同じだったろう。

「それから毎年、八つ……八歳になる女の子を観音山の山頂近くにある泉に捧げてきたんじゃ。そいで、そん子らを祀るためにも観音様に捧げられる子のことを『はっさい様』と呼ぶことにしたんじゃ」

「そんな……考えられませんよ」

「だから昔の話じゃって。江戸時代には廃れたしきたりじゃ」

 月が雲に隠れて真っ暗になったので、一瞬、捜索隊の声が途絶えた。同時に、江崎さんと河野さんのやりとりもなくなった。月明かりが戻ると捜索隊は妹の名を呼び始めたので、河野さんも再び説明を続けた。

「江戸の末期にな、この村に旅のお坊さんが来たそうなんじゃ。村ではちょうど『はっさい様』の儀式が始まるとこでな。お坊さんは『そんな儀式はいらん』ちゅうて、観音山の泉のすぐ下にある滝で滝行を済ませてから、そのすぐそばで石を彫り始めてな……」

「石を?」

「それが、地蔵さんじゃ」

「ああ……観音山の入り口にあるとかいう」

「うむ……、まぁ正確には違うがそんなようなもんじゃ。お坊さんは『この地蔵様を毎年、観音山に供えれば女の子を贄にする必要はない』ちゅうてな。その年は村じゅう震えながらも、お坊さんの言うことを信じて『はっさい様』を捧げずに地蔵さんを供えた」

「飢饉は?」

「なかった」

「じゃあ、そのお坊さんは……」

「この村の、住職のいなかった寺に住んでもらうことにしてな。毎年、地蔵様を彫ってもらっとるんよ」

「でも、江戸時代末期の話でしょう?」

「代替わりしても、石を彫れる坊さんが継いだ。必ず地蔵を彫れる坊さんがな」

「でも観音山の、山道にひとつしか……ああ、そう言えばさっき『正確には違う』と言ってましたね」

「うむ。あの山道の入り口の地蔵様は『はっさい様』の山である目印じゃ。山奥にはそれはもう、たくさんのお地蔵さんが……」

「ひぃぃ……」

「しかもな、それでも飢饉がおさまらない年もあるんじゃ。すると、儀式は廃れたっちゅうのに、こうして八歳になる女の子が神隠しにように行方不明になることがあってな……」

「ひ、ひぃぃ!」

「……ああ、この川。あんたも足を入れちょるこん川が、観音山の泉から流れちょる川じゃて」

「えっ、この川が?! 観音山が水源?!」

「そう言えば、昨日より水量が増しとる気がするのぉ」

「ひっ!」

 江崎さんは足を滑らせて川の中に尻餅をついた。

「何やっとるんじゃ、わはは」

 河野さんが笑うと、

「これ、不謹慎じゃぞ! 久方ぶりの『はっさい様』かもしれんのじゃ」

 と、怒号が飛んだ。

 河野さんより古参の村人か誰かだろう。河野さんは「へぃ」と小さく返事をした。

 僕も、川沿いの草むらでぺたりと尻餅をついていた。


 とても大事なことを、思い出したから。


 シャン。


 頭上で、鈴のような音が鳴った。

 月明かりが、音の主を照らした。

 土手の上を、錫杖を鳴らしながらお坊さんが歩いてくる。お坊さんはお経のようなものを唱えていた。しかし、よく聞くと、

「……救いたまえ、御霊を。八つのおなごの魂を。いらぬ子など誰もいぬ。望まれぬ子など誰もいぬ。観音様はご存知なり……」


 おばあちゃんが朱音の年齢を確かめずに遊びに来させたこと。 

 おじいちゃんの、はっさい様になったのを喜ぶような様子。

 お父さんお母さんの口喧嘩。

 

 そして、僕の……今日の失態。


 地元の男の子と友達になって釣りに夢中になるうちに、朱音はひとりで川に入った。

 その様子がチラリと目に入ったが、もう八歳なのだし、気をつけて浅瀬で遊んでいるだろう、とたかをくくっていた。

 釣竿の引きに集中し、友達と歓声をあげ、次に朱音の方へ目をやったとき、妹はいなかった。

 遠くに……遠くの川の流れの中に、細い、白い腕が、助けを求めるように伸びていたような気がした。

 それを、僕は誰にも言っていない……。


 あれから五年がたった。

 

 妹以来、行方不明者は出ていないという。


 そして、妹のいなくなった夏は、いつもより少しだけ豊作だったらしい。

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はっさい様 えむ @m-labo

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