人魚姫症候群―あかずのクラムシェル

八咫朗

序章 劇薬

 『――誰もが己が主人公であることを知らず、また同時に脇役であることを知らない。舞台上にいるのか、それとも只の観客であるのかを自覚せず、そこが舞台袖なのか、それとも舞台裏なのかすら想像しない。そのようなことでは、どのような演目が演じられているかなど分かるはずがないのだ。過去のト書きも読めず、今どのような役柄を演じるべきかも分からず、未来にどのような筋書きを描くべきかを夢想すらできないのだ。他者の呼ぶ名が、真に己の名だと理解できるものはいないのだ。私の提唱する治療法は、それを主体的に思い描かせる、というものである。それによって治療者は自身の――』

          〈シャルラタンの劇薬――物語としての舞台療法〉より抜粋


 そう、私があの方の依頼を受ける切っ掛けとなったのは、私が著した一つの論文だとお伺いしております。シャルラタンの劇薬――それは精神病理の分野において、新たな治療法を唱えたもの。それが、あの方の目に留まったのです。

 ええ、そうです。確かにそうおっしゃっておりました。論文を読んだあの方自身が直にこの私に、件の少女の治療を依頼してきた際に、そう説明して下さったのです。

 当然、その名は存じておりました。その姉君のことも。依頼対象である少女については、事件以来のことをタブロイド紙等で読んでおりました。といっても、世間の人々と変わらない程度の情報です。


 ――精神を病み、海への入水自殺を繰り返す悲劇の令嬢…。

 

 そのような認識です。

 治療の依頼が来る前から記事をスクラップし、過去の地方紙まで取り寄せていたのは、単純に心理学者としての興味からです。まさかその当時は、自分がその専属医として雇われることになるとは思ってはおりませんでした。

 ええ、嘘ではございません。

 心理学という分野は、学問としてはまだ新しい。学問として認めない学者もいるほどです。ですから依頼が来たときには驚きました。まさか私のような片田舎の無名の学者に、と。しかもあの論文は、学会では冷笑され黙殺されてしまったもの。そのようなものが端緒となって、世界に名を轟かせるあの大財閥から、世間でも話題となっている御令嬢の治療を任されたのですから。

 覚えております。分厚い誓約書でしたが、隅々まで読みました。彼女の治療に関して、一切の情報を外部に漏らすことを固く禁じる旨とそれを破った場合のペナルティが、詳細に記されておりました。治療に関して財閥側から貸与、提供される関連資料についても同様です。

 私に宛がわれた専用の研究室には、着任した時点で患者に関する資料が大量に運び込まれておりました。

 私自身も所有していた当時のタブロイド紙の切り抜き、世間を賑わせたゴシップ記事など、大衆向けに流布したものの数々。入院時から多数の医師によって記された診療記録、治療経過、カルテの数々から、その他の病院関係者の証言等々、極秘扱いとされるもの。美術関係者によって著された、彼女をモチーフにした作品群の批評、論争、解釈論の数々。通っていた修道院での生徒や教師の証言や報告書、日報、日記、学内新聞での切抜き、生徒会議事録での発言の記述等の内部文書の類。

 事件以前に関しては、財閥独自の監視網による秘かな調査で、事件後は州警察の捜査によって多くの関係者がインタビューを受けております。彼らは少女の言動に関して証言していました。あの悲劇の少女に関わった人々の記憶が、過去が、想い出が、文字となって書き起こされ、回想録となり、証言集となり、記録となっておりました。研究室には、私が着任した時点で、そうした多様な媒体の資料が既に膨大な量で集約され、すでに整然と整理されていたのです。

 治療のためと貸与された資料は数百箱に及びます。最初に見たときは、まだ十七歳に満たない少女の人生、例えその全てを文字に書き起こしたとしても、ここまでの量にはならないだろう、そう思ったほどでした。読むだけで十八年かかってしまいそうな分量でした。

 あの方から告げられた依頼内容は、資料を基に、論文の執筆者としての立場から、御令嬢の未知なる病の謎を解き明かし、治療して欲しい、というものでした。そう即ち――


 なぜ、少女が自らを人魚姫だと思い込むようになったのか、を。


 依頼を受けた私が治療のために記したのは、少女の奇妙な病に関するレポートです。

 与えられた資料を丹念に読み解き、少女本人、またその関係者との対話を実際に行って著したものです。

 内容は、少女と、彼女の罹患した得体の知れない病、その症状の遍歴。数多の医師達が解明できなかった、不可解な病に関する経過記録。

 そして、シャルラタンの劇薬の書式に則って記すならばそれは――


 名を失った少女が、人魚姫症候群という病名を与えられる物語です。

 

 …そうです。先に申し上げた通りです。資料は提供された時点で何者かに検閲され、人名や地名などの固有名詞に関しては、全て仮の名や人称記号、或いは黒塗りによる表記となっておりました。そもそも、情報源が極秘扱いのものも多かった。推測ですが、情報提供者には社会的な地位が高い人物、或いはその子弟が名を連ねていたのでしょう。提供者当人に関する第三者からの報告も多く、名を伏せての密告や、金銭を媒介したものも多数存在し、それらは眉唾の類が殆どでした。財閥の社会的な影響力や提供者の立場を考えると、関係者の名が秘匿されていることも、誓約の内容も、当然であると思います。無論、その重要性も理解しておりました。

 ですから私も、レポートを物語として纏める上で、殆ど全ての登場人物に仮名を与えて記述しております。ええ、私の考えた名、私が名付けたものです。資料のまま医師A、生徒Bや黒塗りで記しては、物語療法としての効果が半減してしまいますし、話として繋がりが分からなくなってしまいますので。

 その通りです。何度同じことを答えればよろしいのですか。

 資料は全て、研究室と共に与えられた時点で、仮名と黒塗りで何者かによって検閲されていたのです。

 何者か? 恐らくは財閥の関係者の誰かでありましょう。黒子として雑務を取り仕切る執事の誰か、或いは、あの方ご本人かも知れません。

 ですから、私ではございません。一国の首相が震えあがるほどの大財閥なのですよ。それにあの仰々しい誓約書…いいえ、それ以前に、学者であり医師である私が、そのような罪を犯すはずがないではありませんか。

 まさか、そのようなことが起こる筈が――。

 しかし確かに、内部の人間である程度の予備知識を持つものなら、内容を読めば、それが誰であるのか推測は可能なのです。ええ、私ではなくとも。

 ええ、何度でも言いましょう。これは医師としての私の尊厳に関わる問題。断じて、情報の横流しなどしておりません。彼らの名を、売り渡してなど、おりません。そもそも資料は既に検閲されていたのですから、私では知りえない名が殆ど。だからこそ私は、資料を基に、彼らに新しい名を与えなければならなかったのです。

 いいえ、例え明らかになっている名でも、それをそのまま使うことは許されていなかった。あのお方から禁じられていたのです。万が一にも外部に流出してしまってはまずいため、関係者の名は本名で記してはならない、と。

 だから、レポートの最初にもはっきりと、こう記してあったはずです。


 『――全ての名は、仮名での表記となっていることを、明記しておく』


                 〈精神科医フルズゴルドの供述書〉より抜粋

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