第47話 背負うもの

「はっ…はっ…はっ……」


まだ二ラウンドしか戦っていないにも関わらず滝の様な汗が流れている。


それもそのはず、一度のクリンチも無くリング中央で激しく打ち合っているのだから。


それでも、体感的にはまだまだ余裕があった。


その点は日頃の練習の成果が存分に発揮されていると言えよう。


「統一郎君、今のままの距離で打ち合う事は止めないよ。でもね、それならもっと覚悟を決めて、ガードの内側から突き上げてみようか。」


傷口を狙えと言わない所に、今のジムの現状が出ていると思った。


どんな勝ち方でも良い訳では無く、魅せる勝ち方でなければならない。


只勝つだけでは、ここから先に繋げるのは難しいのだろう。


だが、この試合においてはそんな事は最早関係なかった。


恐らく、それは向こうの谷口選手も同じなのではないだろうか。


この会場全体が自分達に注目し熱狂する快感、これを知ってしまった今どうして引けよう。


ブザーが鳴り相対するコーナーに目をやると、向こうも既に臨戦態勢を取っていた。


そしてゴングが鳴った瞬間、お互い勢い良くリング中央へ進み出る。


出端に放ってきたワンツーなどお構い無くガードを固めたまま肩先から突っ込むと、右でボディアッパーを二連発、続け様こめかみを狙い左右のフックを叩きつけていく。


「シュッフッ!…シィッ!シッ!」


すると、一度は塞がった左瞼の傷口がまたも開き血が滲み始めた。


その現状に焦ったか、相手は冷静には見えない表情で連打を浴びせてくる。


俺はウィービング、ダッキングを駆使しながら常に動き、ヒットポイントをずらす。


「……っ!…っ!………っ!?」


五発、六発、七発と捌き続けてもまだ止まる気配が無い。


ぶつかる視線が物語るその顔は、もうコーナーに戻る己を考えている様には見えなかった。


だが無呼吸で打ち続ければ、いずれ酸欠の症状が出てくる筈。


しかしその圧力は凄まじく、一度受けに回れば飲み込まれそうな怖ささえあった。


現に、今少しずつ後退を余儀なくさせられているのは俺だ。


だからこそ、ここで覚悟を決めるしかなかった。


「フッ!…シュッ!」


後退させられて出来た隙間を使い、左右でショートストレート二発。


それを起点に、押し返すべくコンビネーションを叩きつけていく。


(一発の強打よりも、回転を意識して相手よりも多く打つ!)


二発打たれれば三発返す。


そんな展開が繰り返し続き、両者ともに顔面は血で染まった。


こちらは鼻血と返り血で顔半分と胸部が赤く染まり、相手は瞼からの出血がそろそろ危険域に達しつつあった。


互いの白を基調としたトランクスも、試合開始直後とは打って変わった色合いに変貌している。


そして流石に限界が来たか、遂に相手の連打が止まった。


俺はここが勝負所と歯を食いしばり、今度はこちらからラッシュを仕掛ける。


「フッ!…シィッ!………シュッ!!」


まずは軽く左フックで叩いて意識を逸らし右アッパーを放つがガードの上、それでも止まらず左右のフックで追い打つ。


相手も苦し紛れにボディを返してくるが、腹などいくらでも打たせてやると覚悟を決め構わず打ち続ける。


「フッ!…シィッ!………フッ!」

(下から突き上げる角度が有効だな。体を持ち上げるイメージで………)


何度も何度もしつこく突き上げると、相手は前傾姿勢を保てず半ば上体が浮いたまま少しずつ後退していった。


(逃がさねえ!ここで終わらせてやる!)


恐らくここで決められなければ、瞼の出血から考えてもレフェリーが割って入るだろう。


この試合の結末がそんなものでは、当人も観客も納得しない。


ロープ際まで押し込み体を丸めて耐える相手に、執拗に連打を浴びせかける。


(上体が浮いた!………今っ!)


ガードの内側を抉る角度で右アッパーを放つと、相手の鮮血が飛び散ると同時に顔面が垂直に弾かれる。


この状況になってもクリンチが来ない事にもう驚きは無い。


右、左、右、左、右、左、ミット打ちで体が覚えている連打をひたすらに繰り返す。


「ストップ!ダウンだ!コーナーに戻って!」


相手ががくりと膝を着いた直後、レフェリーが割って入りダウンを宣告する。


だが、歯を食い縛りこちらを睨みつける目にはまだまだ力が宿っていた。


ニュートラルコーナーを背にちらりと会長を見やると、険しい表情で頷く。


「スリー!フォー!ファイブ!………」


カウントが進み観客の歓声が響く中、大きな声が響いた。


「誠二!母ちゃん見てんぞ!」


その声は、向こうのトレーナーが発した声の様だ。


その声が響いた瞬間、谷口選手は膝に拳を当て上体を持ち上げる形で立ち上がった。


だが肩は大きく上下に揺れ、瞼、鼻、口から血が滴り、その表情はマウスピースを噛み砕かんばかりに食い縛っている。


レフェリーが表情を覗いた後、出血から直ぐにドクターチェックが入った。


歓声が少しの間鳴りを潜める。


レフェリーと何度かやり取りをしてドクターが首を縦に振ると、再開を待ち望んだ観客からワッと歓声が上がった。


「ボックス!」


再開した直後、俺は短距離走の如く走り詰め寄る。


そして勢いそのままに体重を乗せた右、返しの左、更に左右の拳を叩きつけていく。


(ここで決めるっ!)


一発一発に、強く明確な意志を乗せたつもりだ。


だが向こうも心折れず全てを受け止めた後、鬼の様な形相で打ち返してくる。


「……っ!?」


そのパンチは重くまだこれほどの力があったのかと驚いたが、ここはもう後退する戦況では無い。


ダメージの差で強引に押し返しロープに詰めた時、カンッカンッっと、残り十秒を告げる拍子木の音が耳に入った。


眼前にはここを凌ぐべくがっちりとガードを固めた相手の姿。


「シィッ!…シィッ!……シィッ!」


反撃が来ないと決定付け、心よ折れろと思い切りボディを突き上げる。


相手の前傾姿勢だった体が更に折れ曲がり前のめりになるのを見て、


(落とせる!)


そう確信した瞬間、ゾクリと悪寒が背筋を走る。


俺は自身の第六感を信じて急ぎガードを戻した。


「……ぐぅっ!!?」


それはまるで、体全体の力を一発に集約したかの如き一撃。


あまりの威力に体が横にずれ追い打ちは叶わず、そのままゴングが響く。


そして互いに鳴り終わった後も、肩を上下に揺らしながら数秒間睨み合った体勢が続いた。





「統一郎君、次のラウンドの初撃、カウンターを狙おう。向こうにはもう細かい事をする余力は無い。力任せのパンチを打って来る筈だ。そこを……」


俺の体を拭きながらの指示に、対角線上のコーナーを見ながら頷いた。


視線を横に向けると、首筋に氷嚢を当てている牛山さんも笑みを浮かべ空いた手でグッと拳を作って頷いた。


ブザーの音を聞き、立ち上がりながら相手の初撃を思い描く。


(右のオーバースウィング、多分あれだ。あの威力…失敗すれば恐らく……)


少し自嘲気味に口角を上げた後、ゴングを聞こえゆっくり前に進み出る。


向こうも足が上がらないのか、爪先をマットに擦る様にしている。


先程とは違い、リング中央でゆったりと構え向き合った。


「ふぅ~っ……ふぅ~っ………」


初撃に狙いを定め、少しずつ距離を詰めながら、集中力を研ぎ澄ます。


じりっじりっと、ついに相手の間合いに入ったがまだ手を出してこない。


その緊張感が伝わったか、会場もざわついている。


グローブを僅かにぴくっと動かし、フェイントを掛け合いながらお互いのフィニッシュブローを打ち込む隙を探り合う。


(まだかっ…来い!来い!来い!来いっ!!)


思わず食いつきそうになるフェイントを掛け合いながら、その時は着実に近づいていた。



会場に一瞬の静寂が満ちる。



瞬間、こちらが伸ばした右腕に合わせ、相手は全身の力を乗せた右拳を迷い無く振り切ってくる。


俺が伸ばした右は勿論誘いの一発。


己の武器は左、ならば勝負を決めるカウンターもそうであるべきだ。


「シィッ!!」

(今っ!!)


相手の右が左頬の皮一枚を掠め、その内側を狙い澄ました左ストレートが走る。


瞬間、ひりひりとした頬の感触と顎を打ち抜いた感触が同時に全身を駆け巡った。


打ち抜かれた相手はガクッと腰を落とすが、足に力を込め体を支えて立ち続ける。


しかし平衡感覚を失った体が軸を保つ事を許さない。



眼前の体がグラリと揺れる。



後ろに、前に、ゆらゆらと、ゆっくりと。



追撃はしない、彼にはもう戦う力が残っていない事を知っているから。



彼は何を背負っていたのだろうか。



きっと、俺と同じ、何が何でも負けられない事情を抱えていたのだろう。



だが、その瞳に宿る強い意志も、覚悟も、こうなっては意味を為さない。



ダンッ!



谷口選手が後ろに倒れ後頭部を打ち付けた直後、レフェリーが腕を交差した。


カンッカンッカンっとゴングが鳴り響き試合の決着を伝えると、一時の静寂に包まれていた会場が爆発したかの様に沸く。


アナウンスがKОタイムを告げているが、殆ど聞こえない。


そして互いの陣営がリングに上がり、様々な言葉が飛び交った。


「良くやったよっ統一郎君!今回も…本当に良くやってくれたよ!」


会長が珍しく興奮していた。


こんな姿は初めて見るかもしれない。


「坊主!カッコ良かったぞ!マジでやりやがったな!」


牛山さんはレフェリーが試合を止めた瞬間、獣の如き声を上げていた。


そしてリングに上がって直ぐ俺を抱え上げ称えてくれる。


「先輩っ、マジで凄いっす!俺も、俺もいつかっ…。」


明君は意外に涙脆いのか、目に一杯の涙を溜めている。


何時かの父の様に、彼にとってああなりたいと思える試合が出来たのなら僥倖だ。


視線を横にやると、未だ倒れたままの谷口選手。


最後の倒れ方が良くなかったので心配になり駆け寄ってみたが、大事無さそうだ。


「有り難うございましたっ。」


俺が膝を着いて挨拶すると、ゆっくり上体を起こし返してくれた。


「こっちこそや、付き合ってくれてホンマ有り難うな。」


それはこちらも同じ事。


彼はフラフラになりつつも、トレーナーに肩を貸してもらいながら気丈に振舞っていた。


リングを降りる彼の背には惜しみない歓声が送られている。


その時、向こうコーナーの観客席最前列に座っている女性と目が合った。


ぺこりとお辞儀をされたのでこちらも返す。


何故だろう、胸がギュッと締め付けられる。


そして俺も降りようとした所、またしてもリングアナに呼び止められてしまった。


しれっと忘れた事にして帰ろうとしたが無駄に終わった様だ。


「凄い激戦でした。今までとは打って変わったスタイルでしたが、こちらの方が遠宮選手本来の戦い方なのでしょうか?」


「いえ、今日は物思う所があって、それで…えっと…」


まあこんなものだろうと思ってはいたが、もう少し頑張ろうと心に誓った。


インタビューが終わり引き上げる際、次の試合の東軍代表、ライト級の松田選手とすれ違った。


「歓声、聞こえてました。お陰で良い雰囲気の会場で存分にやれます。」


そう告げた後、どちらからともなく腕を伸ばし拳を合わせる。


そして彼もまた、かなりの激戦を制して勝利を収めた様だ。





検診を終わらせた後、控室に戻る途中の通路には後援会の人達が待っていてくれて、叔父は興奮冷めやらぬといった感じで俺の肩をバンバンと叩いてきた。


後援会長の新田さん達も、素晴らしい試合だったと褒め称えてくれる。


そんな試合を作れたのは、俺一人の力では無い。


心の中で、今一度谷口選手に感謝を伝えた。


その後、皆は電車の時間があるらしく揃って笑顔のまま帰っていった。


高橋親子も明日用事があるらしく、このタイミングで帰路に着くとの事。


「では、我々はここで。今日は本当に感動させてもらいました。」


去り行く二人の後ろ姿を、感謝を込め頭を下げながら見送った。







全階級の試合が終わると表彰式が始まり、それぞれの階級の勝者がリングに集った。


ミニマム級から順に表彰状を手渡され、各部門の賞の発表が行われていく。


技能賞はフライ級の選手、敢闘賞はまたも松田選手だった。


俺の中で『敢闘侍』というあだ名がついたのは内緒だ。


「続いて、本年度の最優秀選手、MVPの発表になります。今年度のMVPは………」


もう気持ちは帰る準備を始めていた。


「………スーパーフェザー級を制した遠宮統一郎選手に贈られます。」


周りの視線が一斉に自分に向けられ、俺もきょろきょろと周りを見渡す。


一瞬、誰の事を言われているのか分からなかったが、二度呼ばれハッと我に返った後、慌てて前に進み出た。


「表彰状、最優秀選手賞、遠宮統一郎殿、貴方は今大会に於いて………………」


上半身程もあるトロフィーと金一封を受け取ると、初めて実感が沸き上がってきた。


そしてふわふわとした足取りのまま、会長達の元へ帰っていく。


牛山さんが興味津々と言った感じでトロフィーを眺めていたので、丁度良いと思い持つ係になってもらった。


「今日の試合はそのトロフィーに値するものだったよ。改めておめでとう。でも、ここからが本当の勝負だからね。気を抜いちゃ駄目だよ。」


そう、これで俺も晴れて日本ランキング十二位。


ここから一体どれほど勝ち続ければ、俺の腰にベルトが巻かれる日が来るのだろうか。

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