ムジナ

@tonoyamato

プロローグ

夢を追う事のリスク。


恐らくそれは誰もが分かっている。


だが、例えリスクがあると知っていても、情熱がそれに勝った時、人は歩き出すのかもしれない。


例えその先に待つのが、決して幸福な未来ではないとしても。


だから俺は、何度でも立ち上がるんだ。


いつまでも追い付く事の出来ない偉大な背中を追いかけて。








フゥッと息を吐く。


今この部屋には自分一人しかいない。


深めに被ったガウンの中に、温かい己の息が留まる。


腰掛けているのは、医療用にもなる備え付けの寝台。


今日は特別な日だ。


いつか見上げた二人の男、その一方に手が届くかもしれないのだから。


もう一人は、随分前に手の届かない遠い場所へ旅立ってしまった。


顔を上げると、そこにいるはずだった人を幻視する。


いつかのその日、二人の立ち位置は逆だった。


俺はこの場所に座る父に声を掛け、父はそれに応え強がった。


『強がった』というのは今だから分かる事。


その当時は、父の言葉全てを額面通りに受け取る事しか出来なかった。


少し開いた扉の先から足音が聞こえる。


俺は立ち上がると激励と共に彼を迎えた。


「勝ったんですね。その表情見れば言わなくても分かりますよ。」


彼の顔には多少の痣が出来ていたが、晴れやかな表情が結果を伝えてくれる。


「次は遠宮さんです。観客席で応援してますから、頑張って下さい。」


勝ち星を挙げたばかりの縁起の良い拳にあやかり、コツンと当て合うと、お互いの汗の染みたバンテージが擦れ音を鳴らす。







刻一刻と過ぎ去る度に、己の熱とは逆にこの場の熱が下がって行く様な気がした。


軽く左を突くと、会長がミットで側頭部を打つ仕草。


ガードを上げ、それを凌いだ返しでワンツー。


ここはメインイベンター専用の控室、誰に気兼ねする事もない。


会場から響く声援が、セミファイナルの終わりが近い事を告げている。


深呼吸して、リズムを取る様に跳ねると会場の歓声が止んだ。


セコンドである牛山さんは氷の入ったバケツを持ち、もう一方のセコンドである及川さんは、グローブ等の最終確認をしている。


会長は俺の顔と体にワセリンを軽く塗った後、静かに語り掛けてきた。


「出番だよ。さあ行こうか。」


今日上がるリングはタイトルマッチなんて大きな舞台じゃない。


それでも、今日という日は俺にとって特別な日になるだろう。


小さな小さな地方のジムから、負けられない戦いを繰り返しここまでやってきた。


そしてきっと、今日勝つ事で大きなチャンスを得ることが出来る筈だ。


俺を導く様に三人が前を歩く。


この会場で俺を応援する者は殆どいない。


だが、構わない。


少し前まではそれが普通だったのだから。


そうして道を切り開いてきたのだから。


さあ行こう。


俺は歩く。


この先が、いつか見た夢の舞台に続いていると信じて。

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