第五節

 勝手に変えるなよ。


 雪弥ゆきやはぶっきらぼうにそう言った。

 ごめんね……。もう高校生だし、下の名前じゃなくて『清水しみずくん』って苗字で呼んだ方がいいかなって思ったの。

 そのように言い訳しようと思った。

 だが。苗字で呼ぶようになった本当の理由は、自分が雪弥を好きになる事を防ぐ為だ。

 お互いに下の名前で呼び合うと、お互いの心の距離が縮まって、好きになってしまう。すると、好きになった分だけ雪弥に嫌われた時に傷つくだろう。そう考えた。

 華那はるなはもう傷つきたくなかった。だから高校に入学してから、雪弥を苗字で呼ぼうと決心したのだ。

 華那が、つい先程咄嗟に考えた下手な言い訳で何とか誤魔化そうと口を開きかけた──その時だ。


「ちょっと雪弥! そんなところで何してんだよ。『再開するぞ』って言ってたよ」


 雪弥とは異なる男子生徒の声が聞こえた。

 雪弥と同じ藍色のユニフォームを着ており、白の文字で書かれている数字は「4」だ。

 雪弥と華那より離れた位置から呼びかけていた。

 華那も、顔と名前くらいは知っていた。

 確か──、

 華那がその男子生徒の名前を思い出す前に、

陽翔あきと

 雪弥が振り返ってそう呼んだ。

 男子生徒の名前は、篠田しのだ陽翔である。

 雪弥と同じ短髪だが、少し癖があり栗色だ。

 垂れ気味の平行二重で優しげな瞳、背丈は華那より高くて雪弥より数㎝低い。

 陽翔は華那と目が合うと、申し訳なそうな顔をして詫びた。

「あっ! ごめんね……。俺、完全に邪魔しちゃったね」

 華那は、陽翔が雪弥と一緒に歩いているのを何度も見かけた事はあった。

 だが、ちゃんと話をした事はない。

 その為、一瞬詰まった後、返事をした。

「……ううん、大丈夫」

「そっか……! ありがとう」

 すると、陽翔はホッとしたように笑った。

 見ただけでこちらが自然にリラックスしてしまうような、そんな笑顔だ。

 陽翔は少し間を置いてから、華那から雪弥の方に向き直った。

「『呼んで来て』って頼まれたんだ。──颯斗はやと先輩に」

 陽翔が僅かに目を伏せつつそう言うと、

「……そっか。迷惑かけて悪かった」

 雪弥は軽く頭を搔きながら謝った。

 華那には横顔しか見えなかったが、雪弥の顔は曇っているような気がした。

 気のせいだといいけど……。

 華那が少し不安を抱いていると、

「いや、いいよ。これくらい気にするなよ」

 陽翔が雪弥にそう返して、穏やかに微笑む。

「華那」

 と、雪弥がこちらを振り返った。

「俺、今すぐ練習に戻んなきゃいけねぇ。……急に呼び止めて悪かったな」

 雪弥の謝罪に、華那は首を横に振った。

 懸命に口角を上げて微笑んだが、何も言えなかった。

 本当は、大丈夫、と答えたかったが、陽翔がいたので言うのをやめた。華那は、ほぼ初対面の陽翔に人見知りを発揮していたのだ。

「遊びに来ても大丈夫かどうかの返事は、直接でもLINEでもいいから。じゃあまた明日」

 雪弥は一方的に言い残すと、こちらに背を向けて陽翔の方へ走って向かっていく。

 あぁ、このままでは雪弥が去ってしまうと思った時。

 ──ねぇ、待って!!

 とても大きくて高い声が、自分の頭の中で響いた。それは、泣いているかのような哀しい声に聞こえた。

 また、ふと気づけば、猛烈な寂しさに襲われて、いかないで、と心の中で縋るように叫んでいた。

 いかないでよ。もう一人は嫌だ。独りぼっちになりたくない。だから置いてかないで。お願い。

 心にヒビが入り始めて粉々に壊れてしまいそうに感じた──その瞬間。

「明日遊びに来てもいいよっ!」

 この一言が口を突いて出た。

 自分の意思とは裏腹に出た声は震えている上に語尾も不自然に上がっていた。

 あぁ、駄目だ。絶対、雪弥に気持ち悪いって思われちゃったよね。

 華那はそう思ってしょんぼりと俯いた。

 分かってる。ただの友達にここまで必死になるのはおかしい。そんなの、私が一番分かってるよ……。

「おっ、マジか!? ありがとう、華那!!」

 雪弥の嬉しそうな声が聞こえて、華那はパッと顔を上げる。

 雪弥は微笑んでいた。今度は呆れていない。

 雪弥の声を聞いて、微笑みを見ただけで、押し込んでいたが本当は大切な感情が胸の奥底から溢れ出てきた。

 そしてそれは、多数のヒビに染み込んでいき、徐々に修復し始めて心が壊れるのを奇跡的に防いでくれたように感じた。

 華那は心の中で、好きじゃない、と断言する。

 好きじゃないんだ。好きになったらいけない。どうせまた、雪弥に嫌われて傷つくだけなんだから。初めての恋で、もう諦めた恋なんだから……。

 もう二度と傷を負う事がないように、自分自身を守る為に、必死で自分に言い聞かせた。

 小三の頃に、美里たちから嫌がらせを受けるようになってから、華那が会話するのを避けるようになってしまった──男子生徒「Yワイ」。

 避けるようになってから約一カ月後、華那が授業の解答を間違えた時に、美里の隣の席で楽しげに笑っていた──男子生徒「Y」。

 そして、華那が密かに好意を寄せていたものの、結局、想いを伝えずに諦めてしまった──男子生徒「Y」。

 この男子生徒「Y」は、張本人だったのだ。

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