第三節

 雪弥は傘立てから藍色の傘を取り出した。靴箱から出ると、小柄な女子生徒の後ろ姿が目に入る。華奢な肩、一つに束ねた艶やかな長い黒髪、そして、紺色リュックを背負っても隠せぬ猫背。

 この猫背は見慣れている。

 ああ、そうだ。も。俺が余計な事をしたせいで、今よりもっと猫背で体を小さく丸めながら走り去っていった。多分、泣いていたと思う。涙を拭うように右腕を動かしてるのが見えたから。

 その後ろ姿から、悲しみや寂しさだけじゃなくて、逞しさとランタンのような優しい光まで感じた俺は……、やっぱり頭がおかしいのかな。

 雪弥は後ろ姿を眩しそうに見詰めながら、

「華那」

 女子生徒の名前を呼んだ。

「わっ!」

 雪弥が話しかけた途端、その女子生徒──華那はビクッと肩を竦めて、やがてゆっくりとこちらを振り返った。

「……あれ、雪弥?」

「どうして突っ立ってんだ?」

 雪弥が疑問に思った事をそのまま尋ねると、

「あっ、ごめん。邪魔だよね」

 華那は申し訳なさそうにそう答えた。

「別に邪魔じゃねぇけど。もしかして、円井まるいを待ってんのか?」

 雪弥の質問に、華那はかぶりを振った。

「ううん。風花ふうかはまだ篠田しのだくんと話してるから」

「ああ、そういや、俺が教室から出る時に陽翔あきとの席で二人が喋ってるの見たな。なんかすんげぇ盛り上がってたけど──あっ! お前も二人の様子を見て、空気を読んで先に帰る事にしたのか? ……いや、でも違うか。円井は最初から一人で一組の教室に入ってきたから。お前は一組には来てないよな?」

 うん、と華那は頷いた。

「来てないよ。風花が『ね、篠田くんと一緒におしゃべりしない?』って誘ってきたけど、私は断って先に帰る事にしたから。……でもね。いざ帰ろうとした時に、傘持ってくるのを忘れた事に気づいて、どうしようって途方に暮れてたところなの」

 華那はそう言うと、目の前の叩きつけるように降っている雨を見詰めた。しょんぼりとした顔をしている。

 うわぁ、めっちゃ降ってんじゃねぇか。これはしばらく止みそうにないなぁ……。

「誘われてすぐに断るのはちょっと気を遣い過ぎだろ。別にお前がいてもあの二人は嫌な顔なんてしねぇぞ」

「それは分かってるけど、仲のいい二人の邪魔をしたくなかったから」

 という華那の返答に、

「別に邪魔じゃねぇだろ」

 雪弥は数分前の『別に邪魔じゃねぇけど』と同じような言葉を口にした。

「それから雨は心配いらねぇ。……俺の傘に入ればいい」

 言いつつ雪弥は自分の傘を掲げる。傘をコツンと音を立てて下ろした後、雪弥の頰と耳はほんのり赤くなっていた。 

「あっ、雪弥は傘持ってきたんだね」

 幸いな事に、華那は雪弥の頰と耳が赤く染まっている事に気づいていない様子で、目を丸くしながらそう言った。

「あれ? でも、雪弥って自転車通学じゃなかったっけ」

 怪訝そうに首を傾げた華那に、雪弥は「ああ」と小さく頷いた。

「けど、今日は徒歩で来た。雨合羽を着て自転車漕ぐのって、結構大変なんだよ」

「あっ、そう言えば風花も『暑くてしんどい!』って言ってた」

 だろ、と雪弥は苦笑した。

 今のような梅雨の時期、雨合羽の中は蒸し風呂状態となる。

「朝、午後から大雨降るっていう予報見て自転車諦めて歩いてきたんだ」

「そうなんだ。……私は逆に予報見ずに来て忘れちゃった」

 華那は苦笑交じりにそう呟く。

「まあ、朝は晴れてたし、忘れたもんは仕方ねぇよ」

 雪弥はそう返すと、昇降口前の階段を下りた。

「土砂降りになる前に早く帰ろうぜ」

 バッと藍色の傘を開いて後ろを振り返ると、華那はその場に留まっていた。きょとんとした表情だ。

 まさか、今から相合い傘する事に気づいて傘に入んのが嫌になったのか……?

「帰らねぇのか?」

 雪弥が不安を抱きながら訊くと、華那は首を横に振った。

「ううん、帰る。帰るよ」

 その言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろしていると、華那は階段をたたっと駆け降りて雪弥の傘に入ってきた。

 まるで、買い物に行った際に母親に置いていかれないように慌てて後を追う子供のようだ。

 何だか微笑ましくて緩みそうになった口元を懸命に引き締める。

 二人で肩を並べて歩き出してから、雪弥は華那の方に傘を傾けた。華那の肩が傘から少しはみ出ていて雨で濡れている事に気づいたからだ。

「あっ、駄目だよ!」

 華那が突然声を上げて傘の柄を掴んできたので、雪弥はぎょっとした。心臓が勝手にバクバクし始める。華那は傘の柄だけでなく、柄を持っている雪弥の手ごとがっしりと掴んでいる。

「おい、急にどうした?」

 平静を装うつもりが、若干声が上ずってしまった。華那の手は思っていたよりもとても小さくて温かかった。

 俺の手が冷たいから温かく感じるだけかな、と雪弥は内心首を傾げる。

「これじゃ、雪弥が濡れちゃうでしょ?」

 華那は真面目な表情でそう言うと、雪弥の方へ傘を戻して手を離した。

 さりげなく傾けたつもりだったが、華那はちゃんと気づいていたらしい。

「お前が濡れるぞ」

「私は濡れても大丈夫だよ。持ち主の雪弥が濡れる方が嫌だ」

「……分かった」

 雪弥は頷いた。が、次からは絶対に気づかれないように傾けようと決めていた。

 悪い、華那。俺は濡れていいんだよ。お前が濡れる方が嫌だ。風邪引いたらどうすんだ。

「ねぇ、今日は部活休みなの?」

 一拍間を置いて、華那がそんな質問をしてきたので、雪弥は「ああ」と頷く。

「今日は監督が用事あるらしくて」

「へぇ、そうなんだ」

 短く相槌を打つと、華那は思い詰めた表情で沈黙した。

 華那の表情が曇っている理由は考えなくても分かる。それは、ある話題を切り出すタイミングを窺っているからだ。

 どうしよう。俺から切り出そうかな。……いや、全く違う話をした方が華那も気が楽なんじゃねぇかな。

 そう考えた雪弥は、週末に視聴したアニメの話をしようと口を開きかけた。

「あのさ、」

 だが、雪弥が言葉を発する前に華那がか細い声を発したので、雪弥は口をつぐんだ。

 華那はとても言いづらそうに、

「文化祭の時に『俺がちゃんと話す』って言った事、まだ覚えてる?」

 ついにあの話題を切り出した。

 雪弥はやや遅れて目を伏せながら言った。

「……ああ、覚えてる」

 一昨日の文化祭一日目の午後、雪弥は華那に「颯斗との喧嘩の件」や「侑聖から受けた報復の件」に関して自分が話すと約束したのだ。

 雪弥は華那が何か言う前に急いで付け足した。

「けど、さっき偶然会わなかったら、話す事なく帰っていた。約束を持ち出したのは俺なのに、破ろうとしたなんて卑怯だしホント最低だよな」

 雪弥が緊張した面持ちで尋ねると、

「雪弥は卑怯でも最低でもないよ」

 華那は迷いなく否定して、やや目尻が下がった濃褐色の瞳で雪弥を見据えた。

「私、別に無理に話さなくてもいいって伝える為に約束の話を持ち出したから」

「そ、そうなのか?」

 困惑した表情で訊き返した雪弥に、華那は「うん」と躊躇なく頷いた。

「けど、知りたいから陽翔に教えてくれるよう頼んだんだろ?」

「そうだけど、大まかな事情は教えてもらったから大丈夫だよ。でも、話す事で雪弥が少しでも楽になるなら私はどんな話でも聞く」

 雪弥はすぐに「話す」と答えた。

 楽になるかどうかは分からねぇけど……、さっき破りかけたからこそ、ちゃんと話して約束を守りたい。

「陽翔が話したのはほんの一部に過ぎないから多くの疑問が残ったと思う。それに関して、俺が答えられる範囲で答えるよ。だから気軽に質問してくれ」

 華那は「うん」と頷くと、徐ろに口を開いた。

「天崎先輩の友達にどんな嫌がらせを受けたの?」

 華那が言う『天崎先輩の友達』とは、颯斗の友人である『侑聖』の事だ。雪弥が敢えて名前を伏せて陽翔に伝えるようにお願いしので、華那は『侑聖』だと知らないのだ。

 それにしてもその質問からか……。

 雪弥は密かに動揺しつつも口を開いた。

「心配すんな、軽い嫌がらせだから」

「ぼっ、暴力とか本当に振るわれてない?」

 華那は不安げな表情でそう訊いてきた。ふと気づけば、紺色のリュックサックの肩紐をぎゅっと握り締めている。

「ああ、振るわれてない。だからそんなに心配しなくても俺は大丈夫だよ」

 華那を何とか安心させようと雪弥は懸命ににこりと微笑んだ。

 華那は何か言いたげに唇を動かした後、「うん」と頷いた。だが、明らかに腑に落ちないという表情をしている。

 ごめんな華那、と雪弥は心の中で華那に謝罪した。

 嫌がらせの具体的な内容をお前に教える訳にはいかねぇんだ……。

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