第三章
第一節
耳の中で鳴り響く耳鳴りは、宛ら蝉や鈴虫の合唱のようだ。
胸の内で重いため息を吐き出すように呟く。
眠れない……。多分、明日文化祭だから緊張してるんだろうなぁ。
華那の通う
華那は元々、寝つきが悪く眠いのに眠れない事が多い。また、文化祭のように普段の授業とは異なる学校行事の前日の夜には必ず、寝つきが悪くなってしまう。
華那はそっと目を開けた。まだ暗闇に目が慣れていないからか、物の形がはっきりと見えない。
実は今から約十分前に、小説を読んでから寝ようとベッドから起き上がろうとした。だが、部屋の照明により、却って目が冴えて眠れなくなってしまうだろうと考えてやめたのだ。
そのうち眠れる……。
自分にそう言い聞かせながら華那は目をぎゅっと瞑った──その時だ。
『せっかく遊びに来たってのに、帰る直前に俺のクソつまんねぇ話しちまってごめんな! まあ、悩んでるとは言ったけど、別に心配しなくていいぞ』
『……えっ? どうして?』
『いや、俺がまだ気にしてるだけで、
目を瞑ったからといって、思考も止まる訳ではない。寧ろ、開いている時より、誤って習字紙に零してしまった墨汁のように思考が広がってゆく。
華那は雪弥の事が心配になった。
華那の家から帰る直前に、玄関で雪弥と交わした会話が頭に浮かんできたからだ。
雪弥はにこりと微笑んでいたが、華那はどうしても雪弥の言葉を素直に受け入れる事が出来ずにいた。
なぜなら、雪弥は悩みを打ち明けている間ずっと、何かを堪えているような顔をしていたからだ。
本当に颯斗と仲直りしていたら、そのような顔をするだろうか。
また、雪弥が華那に話しかけてこなくなった時期は、去年の十一月中旬である。これは、雪弥が颯斗と喧嘩したとされる十一月中旬と見事に一致するのだ。はたして、偶然だろうか。
空調を入れる程ではないが蒸し暑く感じて目を開いた。大分、目が暗闇に慣れてきている。
華那は薄手の掛け布団を太腿まで捲って、タオルケットもお腹辺りまで捲った。
そうして暑さが和らいでから頭に浮かんだのは飼い猫の事だった。
シホがいたら安心して早く眠れると思うんだけど……。
時折、華那の布団に潜り込むシホだが今はベッドにはいない。
恐らく、シホは夏用マットが敷いてある猫用のベッドで就寝している。
マットの方が保冷性に優れ、肌触りが良い素材が使われており、心地良く眠れるのだろう。
今暑いし、ベッドに潜り込んでくる事はないよなぁ……。
シホの事を諦めた時──言葉と映像が脳裏に浮かんできて、華那は思わずハッと息を呑んだ。
『あれ? 華那に報告してなかったっけ? 私、彼氏とはとっくに別れてるよ』
先月末──風花、雪弥、
勉強をしている途中で、風花がいきなり「おしゃべりタイム」を設けた。「おしゃべりタイム」とは、その名の通りみんなでワイワイ雑談するだけの時間である。
だが、こういう時間こそ大切で思い出になると思うし、何よりとても楽しかった。また、それぞれの血液型や誕生日、趣味、好きな食べ物などを知った事によって、四人の心の距離が少し縮まった気がした。
これら全て、「おしゃべりタイム」を設けた風花のお陰であり、感謝しなければいけない。まあ、彼女はただ、ずっと勉強しているのが嫌でたまらなかったから設けただけだと思うが。
ちなみに、この「おしゃべりタイム」で新事実が判明した。それが、今しがた華那が思い出した、風花が彼氏と既に別れていたという事実である。
その彼氏は、中学二年生の時に付き合い始めたので華那も知っている。風花とその男子の二人はとても仲が良く、お似合いのカップルに見えた。だが、風花曰く、去年の五月頃に喧嘩別れしてしまったらしい。既に連絡先も削除したそうだ。
華那はその事を全く知らなかったので、知った時は『えっ!?』と、ひどく動揺した。それと同時に、心の中をひんやりとした風が吹き抜けるのを感じた。
もしかしたら、風花が自分に彼氏の相談を一度もしてくれなかった「寂しさ」が作った冷たい風かもしれない。
だが華那も、小三の頃、雪弥に片想いしていたが、諦めて告白せずに失恋した事。それがトラウマになっている事を、風花に相談していない。だからお互い様とも言える。
今話した通り、楽しかった事も動揺した事も両方あったのだが、華那は四人で過ごしたあの時間を楽しめた方だと思っていた。
──雪弥も楽しめたのかな……?
五月十七日、詳しく言えば、四人での勉強会がスタートした日である。
雪弥が陽翔に誘われて一組の教室に入ってきた時、華那は気まずくて思わず目を逸らしてしまった。その後、勉強に疲れてみんなで休憩している時に、華那の方から雪弥に話しかける事ができたからまだ良かったものの。目を逸らしてしまった事は、今でも申し訳なく思っている。
また、華那は陽翔が勉強会に雪弥を誘った理由を、陽翔も雪弥の事を心配していたからではないか、と自分なりに解釈していた。
華那が自分と風花だけではなく、陽翔まで雪弥の事を心配していると推測したのは、陽翔なら雪弥の事情を知っている可能性が高いと考えたからだ。
雪弥の友人である陽翔なら。また、雪弥と同じクラスかつ同じ部活に所属している陽翔なら。
部活、か……。
『急に部活の先輩にLINEで部室に呼び出されてすぐに向かったんだけど、思ったより長くなっちまって』
華那はふと、雪弥が風花に言っていた教室に遅れてきた理由を思い出した。
雪弥を呼び出した先輩って、もしかして天崎先輩……?
まず、雪弥と颯斗がまだ今も喧嘩中だと仮定する。次に、五月十五日、あの日に雪弥は颯斗に呼び出された。そして、雪弥は颯斗に暴力を振るわれたのではないだろうか──?
顔は怪我してなかったけど、体を怪我していても制服で隠れて見えないし……。ああ、待って。駄目だ。何でも悪い方向に考えるのは止めよう。
それに、きっと、
心臓の鼓動が耳に直接届くように鳴り響く。
こうも忙しなく稼働していると、煩わしくて入眠の邪魔になる。そのうえ、酷く緊張していると自覚せざるを得ない。
と、カーン、という音が三回続けて鳴った。
えっ、もう三時なの!?
鳴ったのは、リビングの壁に掛けている振り子時計の鐘の音だ。
華那の母親が夫の祖父に頂いた形見らしく、昭和レトロな雰囲気を感じる。また、シックな色合いの木枠やゴールドの文字盤、そしてデザイン製にあふれた指針が特徴的だ。
今が午前三時だと分かり、もう寝なきゃ、と華那は焦りだした。
大丈夫。全て上手くいく。
縋るように、つい先程心の中で言った言葉を繰り返す。楽観的に考える事で、何とか不安を遠ざけようとしているのだ。
明日に備えて寝なければ。楽しめたら万々歳。でも。もし楽しめなかったとしても、茶道部の和菓子が食べられたらいいや。
華那は頭を軽く上げて、ふっくらとしていて柔らかい枕を寝心地の良い場所に動かした後、頭を乗せ直した。
視界が瞼で覆われてもなお、華那の人一倍敏感な耳はフル稼働していた。相変わらず、耳の奥深くでは、虫の大合唱のごとく耳鳴りが響いている。
だが、新たな音も二つ捉えた。一つめは、ベッドが、ぎしり、と軋む音で、二つめは、気怠げな欠伸の声が漏れる音だ。
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