塞ぐ
虎島沙風(とらじまさふう)
プロローグ
プロローグ
私は居ない。
小さく縮こまった自信なさげな少女の背中が見える。
少女は身動きひとつしないように体中に力を込めていた。また、暗い表情で俯いており、机の上に置かれている教科書の文字を凝視している。
このまま人形のように一ミリも動かずに椅子に座り続けよう、と少女は固く決意していた。
だが、どうしてもノートの上に乗せている両腕を動かしたくなった。今すぐ動かして両手を使って耳を塞ぎたい。そう思ったからだ。
今日だけではなく毎日だ。四方を壁に囲まれた狭いこの空間でみんなの賑やかな笑い声が響く度に、少女は耳を塞ぎたいと思ってしまう。
でも。そんなことしたら絶対に駄目だ。「私」という人間が存在してしまうから駄目なんだ。私は居ないんだから……。
少女は自分にそう言い聞かせながら、体中に強く力を込めて必死に動かないようにした。
「──
突然、自分の名前を呼ばれて少女はとても驚く。
そして、慌てるあまりビクリと肩を震わせるのと同時に右腕も大きく動かしてしまう。
あっ、しまった……。派手に動いてしまった。今までの苦労が全部水の泡だ。
存在してしまった、と少女はひどく落ち込んだ。
そうじゃなくて早く返事しなきゃ!
だが、咄嗟に声が出ない。
少女の名前を呼んだのは担任の先生である。二十代の女性教師で、返事をしない少女を怪訝そうに見詰めている。
女性教師だけではなくクラスメイトのほぼ全員が少女に視線を注いでいた。
嫌だ嫌だ嫌だ。みんなが私を見てる。早く返事しなきゃ、と焦りながらも少女はふと気づく。
先生が名前を呼んだって事は私はまだ消えてないんだ、と。
またこの世に自分が存在しているという事実は、少女にとっては喜ばしい事ではない。
今、この瞬間に、跡形もなく、この世から消えてしまえたらどんなに楽だろう──。
毎日、学校にいる間は特に、心の底からそう願っているからだ。
「瀬川さん?」
女性教師が返事すらしない少女に対して、一回目とは違って僅かに苛立ちの滲んだ声で呼びかける。
女性教師が苛立っている事に気づいた少女は焦る。
早く! 早く返事しなきゃ! まず「はい」って返事しなきゃ!!
鼓動が早鐘を打ち始め、一気に呼吸がしづらくなる。ノートの上に置いていた両腕は無意識の内に膝の上に動かしていた。両手をギュッと握りしめており、手と手の間はうっすらと汗が滲み始めている。
少女は恐る恐る口を開く。
「はい」
そうして懸命に絞り出した声は高く震えており、恥ずかしくて顔がジンと熱くなった。
そんな中でも、少女は何とか頑張って女性教師に当てられた問題の答えをはっきりと言う。
どうか正解していますように──!
密かにそう願っていたのだが、少女の解答は間違っていた。緊張していてあまり授業に集中できていなかったからだろうか。
教室中にクラスメイトの笑い声が響く。
少女は耐えきれずに俯いた。恥ずかしさと悔しさで頬や耳が真っ赤に染まる。体中まで熱くなってきた。
鼓動の音がドッドッドッと激しくなる。
……苦しい……嫌だ……助けて……神さま……お願い……ああきっと……
少女は泣きそうになりながらも、何とか顔を上げて美里の方をチラリと見た。
やはり、少女の予想通り美里は笑っていた。馬鹿にしている事が明らかな、見るだけでゾッとするような冷たい笑顔だ。
やっぱり、美里ちゃんは私の事が嫌いなんだ……。
そう確信した少女は哀しい、遣る瀬無い気持ちになった。
視線を美里から別の場所に移した次の瞬間、少女は思わずハッと息を呑む。
何で……?
心の中で嘆くようにそう呟いたのは、少女が密かに好意を寄せている男子生徒まで、美里の隣の席で楽しげに笑っているのを目撃したからだ。
「
少女ではなく、現在は高校二年生の瀬川華那は聞き馴染みのある声で、長い悪夢から覚めたかのように我に返った。
ゆっくりと顔を上げると、深緑の黒板が正面に見える。深緑が殆ど見えないくらい、数字や文字が白と黄色のチョークで書かれていた。
華那はどろっとした重苦しい息を深く吐く。それから、今しがた自分の名前を呼んだ声の主に返事をしようと振り返った。
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